197_Frank Sinatra「That’s Life」

ニュースでは最近で起きた京王線内で起きた殺傷事件で持ちきりだった。犯人がハロウィンでJOKERの姿を模していた(非常に中途半端な出立ちだったが)ため、京王線のJOKERなどと騒がれていた。高校の同級生やらが「真面目なやつだった」とか「そんなことをするような人間じゃなかった」とか口々に語っている。

「ねえ、あなたはJOKERになんかならないわよね」
妻はニュースを見ながら、僕に対してのほほんとした口調でそう言った。僕はコーヒーを飲み干した後、妻の顔を見つめる。

「僕がかい?」
「あなたも社会に不満が溜まっておいでなんでしょ?」
「そうだね、さしづめ湘南新宿ラインのJOKERといったところかな」
「急に変貌するのよね」
「さあ、どうだかわからないな」

真面目な人間が人生に行き詰まってしまって、追い詰められた結果いつかこういう事件を起こす。何度何度もニュースで見てきた社会の構図だ。妻がいきなりあんなことを言い出すのも、僕が何度もそもそも映画の「JOKER」を見直しているからだろう。あれは本当によくできた映画だ。あの映画には人間が崩壊していく様の美しさのようなものが詰まっている。救いのない映画だ。決して後味のいい映画とは言えないが、なぜここまで「JOKER」に惹かれるのか、自分でもわからない。それは自分にとっても飼い慣らせない感情というものがあるからだろう。

映画を踏まえた模倣犯が出てくることも十分にうなづける。だからといって、あの京王線での殺傷行為を称賛する気はさらさらないが。ネット上でも「顔も白塗りしてないし、髪も緑じゃないし、しょっぼいJOKERw」「一人で死ねばいいのに」だとか、いつも通りの声で溢れかえっていた。

俺は朝、少し周りの乗客の様子を気にしながら、湘南新宿ラインに乗って出勤する。ここにもJOKERは現れるか?それとも自分がJOKERになってはしやいないか。妻には多くは語らなかったが、クソッタレな世の中だと思っているのは一度や二度じゃない。いつもそう思っている。いつだって、思いっきり中指を突き立ててやりたいのだ。

そう思うと、ふと瞬間に、自分もJOKERになっているのではないかと思う。電車の窓ガラスに映る自分の姿を見て、普段通りのスーツを着ていつも通りの情けない顔をした己の姿というものを自覚する。まだ俺はJOKERにはなっていない。しかし、京王線のJOKERが誕生したように、いつか湘南新宿ラインのJOKERも現れるかもしれない。


朝、職場に出勤すると隣では、毎朝、京王線で出勤している花村さんが嘆息を漏らしていた。
「やっぱり少し怖かったよ。なんたって、昨日の今日だから、ちょっとビビってたね」
「JOKERはいなかったですか」
「それらしい奴はいなかったね。でももしかしたら、また現れるかもしれない。車内でタバコをふかしているような奴を見ても、見て見ぬふりをしてなるべく触れないようにしとかないとね」
「自分がJOKERになるかもしれないですよ」
「この会社に復讐するためかい?」
「そうかもしれないですよ」
「せっかくJOKERになるんだったら、もっと世の中がひっくり返るようなことをしてやりたいよ。京王線で暴れてライターオイルに火をつけるとかそんなんじゃなくてさ」
どうやらここにも一人、JOKERになる可能性のある男が見つかった。そうだ、誰しもが、JOKERになる可能性があることは間違いない。それがいつどんなタイミングでそうなるかの違いでしかないということだ。


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