見出し画像

132_Daft Punk 「Discovery」

私の彼は現在のようなコロナ禍に見舞われるずっと前から、当たり前のようにマスクをつけていた。1年中、夏の暑い時でもマスクを外さない彼を見て、少し変な人なんだなと思っていた。しかし、今となってはそれが当たり前の日常となってしまったようだ。

ニューノーマル=新常態という言葉が盛んに世の中に溢れている。「やっと時代が俺に追いついたんだよ」彼は冗談めかして、マスク越しで私に笑う。しかし、(これはまだ付き合う前の話だが)はじめて彼がマスクを外した瞬間を見た時に、彼の口元を見て私は、不覚ながら私は言いようのない胸のざわめきを感じたのだった。

不思議な感覚だった。あえて隠されると、余計に価値のある神聖なものに思えてくる。薄いヴェールで覆われた口元の見えないアラビアの女性の神秘性にも似ている。口って、よくよく見ると非常にセクシーで、見ようによっては、非常に淫猥な見た目をしていないか。

私はそれから、自然とマスクの下という領域を神聖視するようになっていた。人がマスクを外す動作などに、ちょっとしたドキドキを覚えるようになった。変態みたいに聞こえるが、私みたいな嗜好を持った人間はこのニューノーマルの世の中で徐々に増えているんじゃないか、と勝手に思っている。もちろんこれまで、あまり共感された機会はなかったが。

「栗本さんって、どういう顔してんるのかな」
「顔って、顔は見えてるじゃん」
「その下よ」
「マスクの下ってこと?」
「そう、マスクの下の話」

同僚の里子となんてことのない取り止めのない話をする。久しくランチにも行けていないので、昼ごはんは自分で小さい弁当を作るのが朝の習慣になって、それも今では特に苦ではない。新卒2年目くらいでは給料の手取りは目に見えて増えないので、日々こうやって涙ぐましい節約を続けている。コンビニにはそもそも行かない。自動販売機でお茶も買わずに、浄水器の水をいつもマイボトルに移している。

大学時代の友人から、投資や資産運用のyoutubeのチャンネルを教えてもらって、毎日寝る前に見ていた。教えてもらった通り、少ない金額を積み立て投信に入れ始めたら、確かに少しづつだがお金が増えていた。小学生の頃にやっていた貯金箱を見る気分だった。

友人からは、自分の人生も長いんだから、これからの世の中一つの会社にとどまるんじゃなくて、常に転職も考えておかないといけないよ、と言われた。とりあえず今は自分の会社にしっかりとかじりついているので精一杯で、正直そこまで考える余裕はない。でも確かに将来的に今後興味はある。どうせ、結婚しても働き続けないといけないんだし。たぶん彼もそう望んでいるだろう。(まだ付き合って1年くらいだから、結婚するかも全然わからないけど)

逆に転職して、うちの会社に来た人もいる。栗本さんはこの4月からうちの会社に中途採用で入ってきた女性だった。歳は30歳前後で私より少し上くらいだろう。寸胴な私に比べて体のラインが細く、スマートに着こなすタイトスカートが男たちの視線を集めている。しかし、本人はいたって涼しい顔で、淡々とした様子で超高速で仕事を終わらせて、いつも定時にあがっている。そして、まだ4月からの付き合いなので、当然栗本さんのマスクの下を見たことはない。

庶務の係長のところに用事で話に行った時に、ちょうど係長が課のメンバーの名簿を整理しているところだった。名簿には、皆の顔写真とともに経歴が並べられている。だいたいみんな、この世話好きの係長と用事がてら雑談するのが常だった。

「あ、名簿って、写真載ってるんですね」
「うん、そうだよ、顔写真。君も採用の時にも撮っただろ?」
「みんなマスク外してますね」
「そりゃそうだろ、マスク外してなきゃ、証明写真にならないからな」
「私、いまだにマスクの下の顔を知らない人ばかりなんです」
「あ、そうか、まだ2年目の子だったら、去年採用された時はすでに、コロナの緊急事態でみんなマスクしてたもんな。そこから、マスクつけてるのが当たり前ってことか」
「マスクしてないで、仕事してるってどんな感じなんですかね」
「いやあ、どんな感じって言われても、最初は違和感あったけど、慣れちゃうと、もうなんか昔のことなんか思い出せないね。仕事に限らず、世の中、そういうもんなのかもしれないね」
「ですよね、あ、栗本さんも載ってる」

私は栗本さんの顔写真を名簿上で見つけた。あれ、なんか、想像と違うな。なぜか少しだけ違和感を感じて、脳内が少し混乱している。こんな感じ、じゃないと思うんだけど。綺麗とかブサイクとか、そういう区分ではないのだけど、文字通りうまく言葉にできない。栗本さんの顔って、こんな風なんだっけ?でも、写真に写ってるんだから、間違いないはずたし。

「栗本さんって、こんな顔してるんですね」
「確かにマスクの印象って、顔のパーツの中でも、それだけめちゃくちゃ大きいからね。それを隠すって、結構なもんだよね。外国人とかマスク大嫌いで、日本人はマスク大好きだけど」
「不思議ですね」
「こんな話知ってる?アメリカ人とかは顔の表情の中でも、口っていうパーツから得られる情報をすごく重視してるんだよ。だから絶対に口は隠さない。ほら、サングラスしている人とかアメリカは多いし、バットマンとかアイアンマンとかヒーローは目を隠すけど、口元は隠さない。口元を隠すのはだいたい悪役なんだ」
「ふんふん」
「逆に日本人は顔の表情の中でも、特に目元の表情を重視している。「目は口ほどにものを言う」ってよく言うだろ?だから口を隠すよりも目を隠すってことの方が、よっぽど違和感あるわけ。日本のヒーローって忍者とかだけど、結構、口元隠すじゃない?」
「なるほど、ためになりますねー」
「隠されると余計に見たくなる、って心理は人間は働くし、そこにあるものを自然と想像しようとするからね。あ、ごめん、ちょっと待って」

雑学大好きの係長の話は、いろんな引き出しから話が出てくるので、話しててとても興味深い。私のマスク神秘論の論拠の一端を担ってくれるかもしれない話だった。もっと係長とマスクについて話したかったが、あいにく課長に出張の件で呼ばれて席を立ってしまった。

そうか、人のマスクの下を自分が神聖視するあまり、その人の口元の表情を自分で良いように思い描きすぎていたかもしれない。つまり、栗本さんの写真から感じた自分の違和感は、栗本さんのマスクの下を自分の都合のいい綺麗な顔で想像していたからなのかもしれない。不思議なものだ。

そんなことを頭の中で考えながら、女子トイレに入ると、そこには偶然、栗本さんがいた。鏡で化粧直しをしていたのだろう、なんと彼女はマスクを外している。こんな場面にでくわしたのは、これがはじめてだった。

「あ、栗本さん」
「あ、どうも」

あまり、仕事で絡むことがないので、どうしても会話はぎこちないものになりがちだ。当たり前の話だが、栗本さんは確かに名簿で見た通りの顔をしている。

「あ、あの」
「何?」
「栗本さんのマスクの下って、私はじめて見ました」
「あ、そういえば、そうね、まだ私も4月に来たばかりだし」
「あの、その、なんか、なんか良いですね」
「あら、ありがとう」

そして、彼女はマスクのない顔でにっこり笑った。それがなんとも自分にとって、新鮮で十分に魅力的だった。それは決してこれまで自分の想像にはなかった表情だったからだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?