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061_Radiohead「OK Computer」

ピンポーン。

平日のこんな時間に誰か訪ねてくるなんて、いったい誰だろう。私は通販で荷物を頼んだ覚えもないし。 夫がなにか頼んだのかしら。もしかしてベビー用品 ?もう気が早いんだから。まさかNHK だったらけっして開けるまい。恐る恐るドアスコープに取り付けたカメラから覗くと、小綺麗なスーツ姿の二人組の男が立っている。

私は訝しげに、二人をしげしげと眺める。一人は30代半ばといったところ、 顔つきは西洋的な男前と言ってもさしつかえないが、少し前髪が後退しており全体的に髪も薄い。もう一人はまだ20代前半といった感じで、どちらかといえばまだあどけない学生に近いような印象をもった。

どちらも最低限の清潔感というものはあり、見た目からして特段変な人には見えない。宗教の勧誘かとも思ったが、二人ともスタイリッシュなスーツで、むしろ堅めのインテリチックの職業に見えるし、特にうさんくさい印象はなかった。この人たちはいったいこの家に何の用だというのだろう。 私はインターホン越しに話しかける。

「えーっと、 すいません、 あの、 どちらさまですか?」
「金田様、突然お伺いいたしまして、申し訳ありません。 私、NPO 法人JAAの磯野と申します」
「は ?JAA ?農協か、 なにかですか?」
「 いえ、JAではなくてJAAです。 日本反出生協会のものです。 本日は金田さんに反出生主義の思想について、ご理解していただきたく、 ご説明にあがったまでです」
「ええと、はん、反修正主義 ??ですか?」
「反出生主義です。あの、おそらく先週、市役所でお話があったかと思うのですが。 我々がご説明に直接ご自宅にまで伺うと」
「市役所で?」

そうだった。夫と私は長年の妊活のすえ、めでたく妊娠していることが分かった。先週病院で診察をしてもらってから、喜び勇んで市役所に母子健康手帳をもらいに行ったのだ。 市役所で妊娠届出書の様式に氏名や住所など必要事項を記入して、 市役所に提出し母子健康手帳をもらうことができた。

そういえばそのときに、市役所の職員から、確かなんとか協会の人からご自宅に説明が行くとかなんとか言っていたような気がする。その人たちなんだろうか。相手が非常に丁寧だし低姿勢な様子だったので、まあ市役所経由で来た人だし、ということで警戒感も薄れて、私はドアを開けた。

髪の薄い年上の男のほうが、 非常に物腰柔らかく私に深々と頭を下げる。

「すいません、申し遅れました。 わたしは JAA からまいりました、こういう者です。 こちらは半村です」
「 半村です。 どうぞ、よろしくお願いします」
私は、それぞれ2人から名刺をもらう。 
「日本反出生協会 (Japan Antinatalism Association) 上席協会員 磯野誠」
「協会員 半村幸一」 と書いてある。こんな団体があるなんてはじめて知った。

それで、日本反出生協会?もしかして、この人たちの話を私聞かないといけないのかしら。どうやら、あんまり気持ちのいい話ではないかもしれないな。 苦労してやっと子宝が授かった私にとって、あまりにこの 「反出生」というワードが鋭利な刃物のようにセンシティブに映る。そして、台所の上棚に置きっ放しにしている、お客さん用のお茶っ葉の残りを気にしていた。

「本日はありがとうございます。 それでは、まず我々の活動からご紹介させていただくことといたします」
「はい」
「反出生主義とは、英語では Antinatalism、アンティネイタリズムまたはアンチナタリズム、無生殖主義とも呼ばれます。我々はこの思想を標榜しているところ、皆様にそういった考えがこの世に存在することを知っていただき、不幸にもこの世に 生まれる子供を少しでも減らすために、啓発活動を行うNPO法人として政府に認可もいただいておるところです。現在の活動といたしまして、このように市役所とも連携しておりまして、妊娠が判明いたしましたご夫婦を対象に訪問の上、ご説明をさせていただいています」

テーブルの下で、先方にさとられないように私はスマホで「反出生主義」と検索してみる。「生まれることおよび 子を持つことを否定的に価値づけ、子を持つことを道徳的に悪いと判断する倫理的見解」と出てきた。まったくなんて団体なのだろうか。 なんでこんな団体に私が子供を産むことについて、とやかく言われなければ ならないのだろうか。

「子供は親から生まれてきた瞬間、この大変な辛苦をはらんだ、不安定なこの世に生を受けることによって、とてつもない不利益をこうむることとなります。赤ん坊は生まれるときに泣き叫んでいますが、これはこの地獄のような現世に生まれ落とされたことについて、言葉にならない悲しみを表現したものなのです。ドストエフスキーは『罪と罰』においてこう述べています。『人生は苦痛であり、恐怖である。だから人間は不幸なのだ』
「はあ」
「そしてひとつ、いま地球の環境を見わしてみてください。 これまで人類が後先を考えずに無差別に増えすぎたことによって、人間が自分たちに都合のいい環境を作ろうとしました。それによって、木は焼かれ、海は汚されて環境汚染が進み、地球 はもうすでに耐えられなくなっています。 そして、先人たちが残したこの負債を、新しく生まれてくる未来の子供たちに背負わせようとしてるのです。あなたの産もうとしている子供は、かって緑あふれる美しい地球にではなく、汚れた空気と海の世界で生きることを強いられることとなってしまうのです」

「あのー、じゃあ、 我々人間はみんな早く死んで絶滅しちゃえってことなんですか? 人間のやっていることはもう最悪だから、早く絶滅でもして、みんないなくなっちゃえってことで。 そんなん自分たちだけでやってください、 私はそうは思わないので」
「いえ、今私とあなたがどうこうとか、 決して我々が申し上げたいのは、そうではありません。 生まれてきたことを望むか望まないかは別として、我々が今生きているの確かです。したがって、あなたや私を含めて今生きている人間の死を望むようなことは、私たちはいたしません。 我々の現在の人間の生を否定するものではないのです。 我々はあくまで人の苦しみを避けるのが、第一優先なので。あくまで今 後、本当に新たな命をこの世に生み出すことが、その子にとって幸せかどうか、その子の苦しみとならないかを、考えていただきたいのです」

「この子の気持ち?」
「そうです」
「この子の気持ちなんて、まだ生まれてもないんだから、わかりようもないじゃないですか」
「ええ、おっしゃるとおりです。 まさに我々が申し上げたいのはそこなのです。 お子様が今後、この世に生まれて、その後幸せになるか不幸せになるか、まさにそのお子様自身にもよる部分は確かにありますが、 現時点で確定していません」
「それはこの子が決めることでしょ? なんで不幸になる可能性が高いなんて、いまあなたにわかるっていうの?」
「いや、不幸となる可能性が高いと言わざるを得ないのです」

「なんなんですか?その可能性というのは」
「ですから、それは先ほどから申し上げているとおり、この地球環境はすでに先人たちの悪行によって、相当な危機に瀕しているからなのです。先日も南極の氷がすでに2020年度に比べて20%も減少したというニュ一スがありました。この10年で、20%も氷が溶けたんです。それによって、現在は日本の夏は、政府から外出制限の警告も出て、もうすでに外に出ることもできないほど暑くなってしまいましたよね。今後も地球は大きな気候変動は進んでいくことは容易に想像がつくことでしょう。 私たちが子供の頃は、無邪気に夏でも外で遊んだり、海へ海水浴に行ったりできたこと覚えてらっしゃるかもしれませんが、真夏の平均気温が45度を超えた今では、そのようなことはとてもできません」

「そうですね。それはそうかもしれませんけど。でも未来がよくなる可能性もあるじゃないですか、そうしたら私の子が生まれてきてよかったって思うかもしれないじゃないですか。その可能性も潰してしまえとあなたは言うんですか?」
「おっしゃるとおり、お子様が生まれてきてよかったという瞬間があるかもしれないことについて、否定は出来ません。しかし、今後の地球環境や人類の経済活動など客観的かつ公正な膨大なデータから容易に類推されることは、その可能性は限りなく低いと言わざるを得ないのです。 そのときに、お子様はなぜこんな世界に自分を産み落としたのか、とあなたを非難するやもしれません。 客観的なデータに基づけば、確実に不幸になるのは明らかであるのに、あなたはそれを知りながら、その子を産む。その責任はあなたは取れるのでしょうか?」

「え、 責任?」
「そう、 責任です」
今まで、 主に話していた磯野ではなく、今まで黙っていた半村が急に口を開けた。

(続く)

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