【R-18】ヒッチハイカー:第35話『圧倒的な強さ! 雷より生まれ出でし「蠅の王」!!』
上半身のみとなったヒッチハイカーが右手に握っていた山刀に、眩い白光を放ち轟音を響かせながら特大級の雷が直撃して生じた凄まじい爆発で、伸田の前方の大地に巨大なクレーターが穿たれていた。
その直径十数mもあろうかというクレーターの中央部に、黒煙に包まれながら全裸で佇む一人の男の姿を見て伸田がつぶやいた。
「あれは… あの全裸の男は、ヒッチハイカーなのか…?」
やがて、吹きすさぶ猛吹雪がクレーターに滞留していた黒煙を吹き払い、吹き荒れる吹雪越しではあったが徐々に視界がハッキリとしてきた。
吹雪に煙が吹き払われたクレーターの中心に一人佇んでいたのは、目測だが身長は190cmほどだろうか… 身体つきは無駄な贅肉など一切無い筋骨たくましい若者で、肩幅が広く胸板の厚くて脚の長い、ギリシャ彫刻で表現される神々の様にバランス的に非の打ち所の無い美しい肉体をした男だった。
そして何よりも驚いたのは、その完璧ともいえる肉体をした男は全身から淡い光を放っている事だった。
しかし、ノビタを包む青白い光が見る者を心地良くさせ、気持ちを温めてくれる柔らかい光であるのに反して、その男が全身から放つ光は決して眩しい訳では無いのだが見る者を不快にし、目を背けたくなる様な不気味でボウッとした紫色の淡い輝きなのだった。
伸田は、この全身から紫色の淡い光を放つ全裸の男がヒッチハイカーであるならば、以前の昆虫を醜悪にした様な姿をした怪物の時よりも遥かに強力な存在となっているのを感じた。それは、伸田自身が言葉に上手く表現出来なかったが、彼の本能的な何かが感じ取った脅威であるとしか言えなかった。
「もし…ヤツがヒッチハイカーだったとしたら、姿はシンプルな人間体に戻った訳だけど、なぜだか今までのどの怪物形態の時より途轍もなくヤバい感じがする…」
伸田は自分の全身が瘧のようにガタガタと震え出すのを止められなかった。それは、彼の周辺に吹き荒れる吹雪による寒さのせいだけでは無かった。
「その通りだ。今度のヤツはヤバいぜ… 俺の白虎としての五感にかけて誓うが、あれは間違い無くヒッチハイカーの再生した姿だ。どうやら、野郎は魔族として覚醒しやがったみたいだな。つまり、今のヤツは完全な魔界の存在に変わっちまったってこった。見た目は人間の姿をしていやがるが人間じゃねえ。
もうお前さん一人じゃ手に負えないだろうな。まあ、俺としちゃあ不本意なんだが…手を貸す事にしたぜ、相棒。」
伸田は驚いて、突然自分の近くで声がした方を見た。すると、自分のすぐ左隣の位置に、いつの間にか静かに四本足で立つ白虎の姿があった。
たった今、恐怖でガタガタと震えていた伸田は、これ以上の助っ人として頼もしい存在は考えられない白虎と再び合流出来た事を、驚喜せんばかりに喜んだ。彼にとっては、暗闇の中に一条の光を見い出したほどの安心感をもたらしてくれたのだった。
逆に言えば、それほどクレーターから現れたヒッチハイカーと思われる一人の男の存在が、伸田を限りない不安に陥れさせていたのだと言えた。男から100m近くも離れた場所にいる伸田にまで、もの凄いプレッシャーが感じられるのだった。その男から発散される威圧感は、今までに戦ったヒッチハイカーのどの形態時よりも強いものだったのだ。
伸田は神獣の白虎が傍にいてくれるだけで、それまで無意識の内に生じていた身体の震えが止まり、ようやく人心地が付けた思いだった。
「白虎さん、ヒッチハイカーが覚醒したっていうのは…?」
「ああ… ヤツはもう巨大化したり、コケ脅しの怪物形態を取る必要が無くなったって事だ。いろいろと姿を変えやがったが、あのシンプルな人間形態の姿がヤツの最終進化の形なんだろう。
今度のヤツは手ごわいぜ。間違いなく今までみたいにはいかねえな。」
これまでにないほどの真剣な口調に、思わず伸田は自分の左側に佇む白虎を見下ろした。巨大な猛獣の虎とはいえ、立った状態では人間である伸田の方が目線は上となるのだ。
伸田自身が新しいヒッチハイカーの姿にはプレッシャーを感じていたが、百戦錬磨で不死身の神獣白虎でさえ、侮りがたい威圧感を敵に感じ取っている様子に、思わず伸田はゴクリとツバを飲み込んでいた。
改めて伸田は前方のヒッチハイカーを見つめた。ヒッチハイカーはすでに雷で穿たれたクレーターから外の地面へと出ていた。そして、ゆっくりとした歩みではあったが、そのまま伸田と白虎のいる方へと真っ直ぐに近づいて来る様子だった。
「僕は確かに見たんです。 あいつ…まるで怪物の身体部分から逃れようとするかの様に、あの山刀で滅多切りにして自分の人間形態部分を切り離したんです。それに左腕だって僕の攻撃を受けた後、消滅から逃れるために切り離していた…
なのに今のヤツは、どこにも欠損部分の無い完全な人間体に戻っている… こんなバカな事って!」
伸田は自分で話すうちに次第に興奮して来たのか、最後の方は自棄になって吐き捨てるような口調となっていた。
「ああ、俺も見てたよ。だが、今のヤツは幽霊でも幻でも無えぜ。信じたくなくても、現実から目をそらすな。」
白虎がヒッチハイカーに目を向けたまま、伸田に対して落ち着いた声で言った。
「それに…もう一つ俺が気になっているのは、ヤツが右手に握っている山刀だ。あの特大級の稲妻が直撃を受けたのに、溶けるどころか原形を留めたままだ。
あれは、ただの金属じゃねえ… 信じられん事だが、俺の知る限りであれに該当する金属があるとすりゃあ…お前さんの持ってる剣の素材『ヒヒイロカネ』と、後は一つだけしか考えられねえ…」
ここでいったん白虎は言葉を切った。自分でも信じたくない話を語るのを躊躇っている様子だった。
「そ、その金属っていうのは…?」
伸田は白虎に話を続ける様に求めた。
「伝説の超金属『オリハルコン』だ。別名『オレイカルコス』とも呼ばれている。
海中に没したとされている伝説の大陸アトランティスに存在したと言われる幻の金属だ。」
「え? あの…伝説の金属…『オリハルコン』…?」
白虎が語ったのは驚くべき話だったが、伸田も『オリハルコン』の名前は聞いた事があった。
「ああ、間違いない。日本古来の超金属『ヒヒイロカネ』に比肩し得る金属と言ったら、この世には『オリハルコン』しか存在しねえ。
だが、『オリハルコン』は伝説の金属なんかじゃない。この世に実在した金属だ。
お前さんは知らんだろうが、ついさっきも俺はオリハルコンで作られた武器で武装した二人組のとんでもねえ殺し屋どもとやり合ったばかりだ。
ただ、何でヒッチハイカーのヤツがそんな伝説の金属製の刃物を持っていたかってのは謎だがな。」
話を聞いていた伸田は、不思議がっている白虎以上に訳が分からず、彼の理解の範疇を遥かに越えていた。伝説の金属まで登場してくるなんて、余計にヒッチハイカーの謎が深まっただけだった。その謎だらけの張本人が稲妻の直撃による爆発の中から五体満足な姿に復活を遂げ、確かな足取りで自分達に向かって近付きつつあるのだ。
つい先ほどまで、青白き光の玉となってヒッチハイカー相手に圧倒的な力の差を見せつけていた伸田だったが、今の彼には精神的な余裕など微塵も存在しなかった。
「あんなヤツに、この僕が勝てるのか…? こっちの『ヒヒイロカネの剣』に匹敵するという、ヤツの『オリハルコン』製の山刀… それに、ベレッタに残っている必殺の『式神弾』は一発だけ。
僕に残されたヤツより有利な点と言ったら…空を飛べる事…だけか?」
白虎の話を聞いた伸田は、ヒッチハイカーとの戦いで有利だった時に自分の中で漲っていた自信が急激に萎んでいくような気がした。いや、消え失せてしまったという方が正しいだろう。
「いや、残念だが…それだって、もう有利とは言えないようだぜ。あれを見ろよ。」
指を指し示す訳にはいかない白虎が、そう言ってヒッチハイカーに向けて自分の鼻面を数回振って見せた。
白虎に促されるまま、伸田はヒッチハイカーの姿に目を凝らした。
「何だ、あれ…? ヒッチハイカーの身体から紫色の煙が出始めた…」
伸田が驚愕したのも無理は無かった。こちらに向かって歩いて来るヒッチハイカーの身体が紫色にボウっと光っているのは先に述べたが、その彼の淡く光る全身から濃い紫色の煙か霧の様な気体が身体から立ち上り始めたのだ。
煙がただ空気中を漂っているだけならば、周辺に吹き荒れる吹雪でたちどころに吹き飛ばされてしまうはずだが、この紫色をした煙はヒッチハイカーの身体の周りを取り囲んだまま彼の身体から離れようとはせず、風によって吹き払われる事も無いのだった。
この明らかに物理法則を無視したとしか言いようのない現象は、一体どういう事なのだろうか?
「あれはハエだ。」
「え? ハエ…?」
白虎に言われてみても伸田には何の事か全く分からなかったが、数十m離れた地点を歩くヒッチハイカーの周りの様子が、常人である自分とは比べ物にならない鋭い五感を持つ神獣白虎には手に取るように分かるのだろう。伸田の目には『ウインドライダーシステム』のヘルメットに付属するゴーグルを通して見ても、ただヒッチハイカーの周りを紫色の煙が吹雪に払われる事なく奇妙に取り巻いている様にしか見えなかった。だが、その自然現象に反した光景自体がおかしいのだ。
様子を観ている伸田と白虎の前方で歩き続けるヒッチハイカーは、次第に二人の方へと近づいて来た。すると、吹き荒れる風の音に混じって『ブウーン…』という虫の羽音の様な音が伸田の耳にも聞こえて来た。
さらに近付きつつあるヒッチハイカーの周囲を取り巻く紫色の気体状に見えたモノの正体は、やかましいほどの羽音を立てながら飛び回る無数の紫色をしたハエの大群だったのだ。数十万匹…いや、多すぎて伸田には数の見当もつかないほどのハエの群れだった。
それほどのハエの大群がヒッチハイカーを包み込むかのように彼の周囲を飛んでいる光景に、伸田は吐き気を催すほどの不快感を覚えずにはいられなかった。
「ううっ! あの紫色の煙みたいに見えるのが全部ハエ!? あのハエの大群はヒッチハイカーにたかってるのか? それとも、ヤツが出現させたんでしょうか?」
伸田が白虎の方に身をかがめる様にして問いかけた。
「もちろん、後者だろうな。あれは、雷で復活した新生ヒッチハイカーの能力の一つなんじゃないか?」
つぶやくような声で白虎が伸田に答えた。
「いくらちっぽけなハエだって、あれだけの大群に一度に襲いかかられたら…」
伸田は考えるだけでもおぞましい光景を頭に思い描いてしまい、ゾッとして全身に鳥肌が立つのを感じた。
「ああ… たとえ、お前さんが空を飛んでヒッチハイカーに攻撃を加えようとしたって、あのハエどもが全力で阻止しようとするだろうな。
ヒッチハイカーの野郎… さながら『蠅の王』ってところだな。」
白虎の言葉を聞いた伸田の全身に戦慄が走った。
「『蠅の王』…? ベルゼブブ… ヤツが…?」
「何だ、そのベルゼブ…なんとかってのは?」
めずらしく白虎が伸田の顔を見上げながら、問い質す様な口調で聞いた。
「『ベルゼブブ』です。『蠅の王』と呼ばれているんです。たしか、キリスト教における悪魔の一人だったと思います。僕も詳しくは知りませんけど、旧約聖書に登場するんじゃ無かったかな…」
敬愛する白虎の真剣な問いかけに伸田は、しどろもどろになりながらも、うろ覚えの雑学を披露した。
「ヒッチハイカーが悪魔… 蠅の王のベルゼブブ… ふっ、まさかな…
たしかにヤツはこれまで蜘蛛やトンボ、サソリ等の昆虫タイプの姿に変身して来た。だから、今度はハエの大群を操ってるだけだと、そう思いたいが… なんだか、この俺だって逃げ出したくなってきやがったぜ。」
微かだったが、白虎の声に怯えに似た響きを感じ取った伸田は驚愕した。風俗探偵千寿 理が変身した天下無敵の神獣白虎が恐れを感じるなどという事は、伸田にとっては考えたくも無い事態だと言うしかなかった。
「ブウウウーン!」
吹き荒れる吹雪の音をも圧するほどの、ハエの大群による唸る様な羽ばたきの音が次第に大きくなって来た。全身から紫色の光を微かに発した全裸のヒッチハイカーが、すでに伸田達から30mほどの距離まで迫って来たのだった。
「クソッ! もう、どうにでもなれだ。ノビタ、覚悟を決めろ!
まずは様子見に、オレが突っ込む! お前は油断せずに、そこで見てろ!」
そう叫ぶや否や、白虎はヒッチハイカーに向かって走り出していた。
「グワオオオオオーッ!」
「ブワアアアアアーッ!」
大地を揺るがす白虎の雄叫びをかき消すほどに猛烈な羽音を響かせ、数え切れないハエの大群が一斉に白虎に襲いかかった。
白い白虎の身体に、無数の紫色をしたハエ達が群がっていく。それは、まるで意志を持った紫色の竜巻の様だった。
「ぐっ! ノビタあっ! 気を付けろ! このハエどもは肉食だ! 貪り食われるぞ! ぐわあああーっ!」
ハエの追撃を躱そうとジグザグに走り回っていた白虎だったが、伸田に警告の叫びを発したのを最後に姿が見えなくなった。ハエの大群に完全に包み込まれてしまったのだ。全身を無数のハエ達に覆われ、紫色の塊と化しても動き回っていた白虎だったが、次第に動きが弱まっていった。
「白虎さん!」
それは、あっという間の出来事だった。自分の目の前で起こった出来事を前にして伸田に出来るのは、ただ呆然と見守るだけだった。
白虎の姿は紫色のハエの大群に完全に飲み込まれ、そこには降り積もった雪の上に紫色のザワザワと蠢く盛り上がった小山しか見えなくなっていた。
「なっ! びゃ…白虎さんが、ハエの群れに飲み込まれた!」
伸田が真っ青な顔で叫んだ。
「ノビタ…」
ショックを受けていた伸田は、自分の名を呼ぶ声の方を見た。残念だが、その声の主は白虎では無く、いつの間にか十数mの距離にまで近づいていたヒッチハイカーだった。
「ノビタ… シズちゃんはオレがもらう。お前は邪魔だ…死ね」
それまでの伸田意識は白虎とハエの大群の方に向いていたため気付かなかったが、いつの間にか全裸だったヒッチハイカーの下半身全体を、ちょうどズボンを穿いているかの様に紫色の煙が覆っているではないか。このため、上半身は筋骨たくましいギリシャ彫刻の様な裸体を晒したままだったが、臍から下の下半身全体が紫色の羽毛の様にフワフワとした体毛に覆われている様に見えた。
この現象が意識的になされたのだとすれば、それは曲がりなりにも、ヒッチハイカー自身に人間だった時の羞恥心とでも言うべき意識が残っている事の表れだと言えるのだろうか?
それよりも今、伸田が自分の目を疑ったのは、ヒッチハイカーの背中に紫色の煙が集まっている事だった。それは見る間に、背中の左右それぞれの肩甲骨辺りから生えた2枚の翼を形成するかの様に纏まり始めたのだった。いや、もはや煙はヒッチハイカーの背中に生えた2枚の翼そのものとしか言いようのない形状と化し、紫色をした左右それぞれの翼がゆっくりとだが力強く大きく羽ばたき始めた。
「バサッ、バサッ」
すると、雪の降り積もった大地を踏みしめていたヒッチハイカーの両足が、ふわりと空中に浮かび上がった。
その紫色をした巨大な2枚の翼は、以前ヒッチハイカーが飛行した際に背中に生やしていた4枚のトンボの様な昆虫の翅とは違い、鷲の様な猛禽類の鳥が持つ翼そのものだった。
「翼… 鳥の様な巨大な紫色の翼… 蠅の王といっても蠅のような翅と言う訳では無いって事か…」
信じられない思いで目の前の光景を見つめる伸田の目の前で、力強く羽ばたいたヒッチハイカーは吹き荒れる吹雪をものともせずに徐々に高度を上げていった。そして地上から30mほどの高度にまで達したかと思うと、茫然として地上に立ち尽くし自分を見上げる伸田を上空から見下ろし、彼に狙いを定めると急降下で襲いかかって行った。
「来る!」
上空を見上げていた伸田は、ヒッチハイカーの急襲を察知した瞬間に『ウインドライダーシステム』に脳波で指令を与え、右後方十数mの位置まで一気に飛び退った。
伸田《のびた》は、ヒッチハイカーの背中に生えた鷲の様に巨大な翼に、以前のトンボに似た怪物形態時の様な昆虫に近い敏捷な動きは不可能だと判断し、垂直で降下する蠅の王を躱す目的で水平移動するべく横っ飛びに飛んだのだった。
しかし、伸田の予測は外れた。ヒッチハイカーは伸田の素早い動きを遥かに上回る敏捷さで飛んだのだ。地上に向けて急降下していたはずの蠅の王は驚くべき飛行速度のまま信じられない様な軌道を描いて飛び、水平に移動した伸田にピッタリと張り付くかの様に移動してのけたのだった。
だが、あの巨大な鳥の翼を広げた蠅の王がこの吹き荒れる猛吹雪の中で素早く動けるはずが無い。どうしても風の影響を翼に受けない筈が無いのだ。自然界の本物の鳥達でも、こんな吹雪の中を飛びはしないだろう。
蠅の王の動きは、まったくもって自然界における物理法則を無視しているとしか考えられなかった。しかし、信じたくなくても現実である以上、伸田としては無視する訳にはいかなかった。
次の瞬間、蠅の王と化したヒッチハイカーの彫りの深く端正な顔が、すぐ目の前から自分の顔を覗き込んでいたのだ。そして蠅の王はニヤリと笑った。
「うわあああっ!」
伸田は恐怖の叫びをあげると、今度は右方向へ十数mの距離を一気に飛んだ。しかし、またしても蠅の王がそこにいたのだった。
「ひいっ! うわああっ!」
愕然とした伸田が、恐怖でパニックに陥るのも無理は無かった。なぜなら、伸田が瞬時の判断で飛び退いたのにもかかわらず、蠅の王は彼の先回りをしていたのだった。もはや、蠅の王は逃げる伸田を追うのではなく、伸田の行動を正確に予知しているかの様に素早い動きで先回りしているのだった。
「そ、そんな馬鹿な… 僕の動きを予知しているって言うのか? しかも一瞬の内に…?」
この猛吹雪の吹き荒れる寒い山中で、伸田の全身に悪寒が走り冷や汗が流れた。
「こ、こんなヤツ相手に…勝てっこない…」
伸田は逃げ回るのを止め、飛行するための『ウインドライダーシステム』の6基のローター回転を停止した。逃げ回ったところで、先読みした蠅の王が先回りしているのなら、むやみに飛び回ったところで無駄だと覚ったのだった。それに飛行を続ける事で『ウインドライダーシステム』のバッテリーを無駄に消費してしまう。
今、蠅の王は彼の前方10mほどの位置に佇んでいた。彼は逞しい腕を胸の前で組み、紫色の翼を折りたたんで人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いを浮かべながら伸田を見つめているのだった。
もはや、伸田に密着するほど近寄るつもりは無いようだった。すでに蠅の王は伸田を追い込み、彼の絶望を見て取ったのだろう、いや、彼の心を読んだのだろうか? 雷の直撃により超常的な能力を身に着けた蠅の王は、すでに人知の及ばない絶対無敵な存在になってしまったというのだろうか?
とにかく、蠅の王と化したヒッチハイカーにしてみれば伸田の様な非力な人間など、いつでも殺せると判断したのだろう。
果たして、もう伸田に打つ手は無いのだろうか…?
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「あれを見なよ、バリー。
ノビタとか呼ばれてたガキが、紫色の翼を生やした魔界の者に追い詰められて一方的に嬲られていやがる。面白い見物だね。」
伸田と蠅の王が対峙する場所から数十m離れた林内にある、雪が降り積もった巨大な針葉樹の陰に隠れて様子を窺っていたのは、ライラとバリーの二人組だった。
彼女達は白虎や鳳 成治達と別れた後、伸田の行方を追った二人は雷がヒッチハイカーを直撃する以前から、戦いの様子を覗いていたのである。
もちろん、ライラとバリーは途中で登場して来た白虎に関しても目撃していた。二人にとって天敵であり永遠のライバルとも言える白虎が、復活したヒッチハイカーの身体から湧き出した紫色の煙が変化した蠅の大群によって全身を覆い尽くされる光景も見ていたのだ。
「あのノビタとかいう小僧もいい線いってたんだけどねえ… あと一歩のところでヒッチハイカーに止めを刺せそうだったってのに、無粋なカミナリ様のお陰で形勢が一気に逆転しちまった。まったく、ノビタには気の毒なこった。
あの復活したヒッチハイカーの姿と能力… あれは、間違い無く『蠅の王』だね。ヒッチハイカーの野郎、とんでもないのに化けやがった。ヤツは魔界でも上位の部類だよ。」
ライラが嬉しそうに横にいるバリーに話しかけた内容が真実ならば、元々は人間だったヒッチハイカーが、彼の摂取した薬剤の力によって魔界でも上位の存在であるという魔族に変化した事になる。そんな事が本当に可能なのだろうか?
「チャーリーに命じられたアタシ達の今回の任務は、暗号名『ヒッチハイカー』の身柄の確保で生殺は問わず…だったのよね。最初は退屈でつまらない任務だと思ってたけど、実際は違ったって訳だ。
白虎や特務零課課長の鳳 成治まで現れたし、標的のヒッチハイカーの正体が『蠅の王』だったなんて。
バリー、アタシ達はついてるみたいだね。こうなったら、あのベルゼブブ野郎は何としてでもアタシ達が手に入れるわよ。」
「ブモウ!」
双子の妹で相棒でもあるライラが楽しそう話す内容を黙って聞いていた兄のバリーは、単細胞な彼としては難しい話はよく分からなかったのだが、聞いている内に何だか自分もライラ同様に楽しくなってきた。
妹のライラの言ってる事に従ってさえいれば、いつだって自分は幸せになれる。彼は日頃からそれをモットーに生きているのだった。考えるのは妹のライラで、自分は実行役なのだ。長兄のチャーリーの命令を『殺戮のライラ&バリー』の二人は実行していればいい。そうすれば、++あのお方++の役に立てるのだから…
「とにかく、もう少し蠅の王とノビタの戦いを観ていよう。あれはあれでショーとして面白いしね。」
どんな男でも虜にしてしまう妖艶で凄絶な美貌を誇るライラの顔に、残忍で不気味な笑みが浮かんでいた。妹の顔を横目で見た半獣半人の怪物バリーは満足そうに低く唸って答えた。
「ブモー」
********
「ここまでか… ヒッチハイカーが本当に『蠅の王ベルゼブブ』になったのだとしたら、ただの人間である僕如きが万に一つも勝てる筈なんて無い…
最後にもう一度だけ、シズちゃんに逢いたかった… そして彼女のお腹の中にいる、未だ見ぬ僕の子供を一度でいいから抱いてみたかった…
ごめんよ、二人とも…」
蠅の王と化したヒッチハイカーに見せつけられた圧倒的な力の差に、伸田は絶望するしか無かった。彼は目の前にいない最愛の女性、皆元 静香と彼女の胎内にいる自分との子供の事を想った。
伸田の目から、ポロポロと無念の涙がこぼれ落ちたその時だった。
『伸田君、あきらめるのはまだ早いわよ。』
伸田は自分の耳を疑った。突然、彼の耳に女性の話しかける声が響いたのだ。いや…正確に言うと、その声を発した女性は伸田の近くにいる訳では無い。
彼のいる地点から遥か遠く離れた東京新宿カブキ町にある『千寿探偵事務所』内にいる風祭 聖子が無線を通して語りかけてきた声が、伸田の被る『ウインドライダーシステム』のヘルメットに仕組まれたヘッドフォンから聞こえて来たのだった。
「聖子さん…?」
そうなのだ。伸田は忘れていたが、『ウインドライダーシステム』のヘルメットに仕掛けられたカメラとマイクを通して、風祭 聖子聖子は伸田が体験している状況を遠く離れたカブキ町の事務所ビルに居ながらにしてリアルタイムで共有していたのだった。
『相手があんな化け物じゃあ、あなたが絶望したくなる気持ちは理解出来るわ。でも、あなたには愛する人と彼女の胎内に息づいた赤ちゃんがいるんでしょう?
二人のためにも、絶対にあきらめちゃダメよ。生き残る事を考えなさい。』
ヘルメットを通して聖子の励ます声が聞こえて来たが、いかんせん対峙している相手が悪すぎるのだ。伸田は聖子に対して正直に訴えた。
「僕だって、生き抜きたいんです。こんな所で死にたくなんてない。でも、相手はあの白虎さんさえ倒してしまったヤツなんですよ。あんなヤツ相手に、人間の僕に勝ち目なんてあるはずが…」
そう言った伸田の声は恐怖と絶望で震えていた。だが、聖子から返って来たのは同情の響きが籠められた優しい答えなどでは無かった。
『泣き言なんて聞きたくないわね。あなた、男でしょ。股間に立派なものをぶら下げてるんじゃないの?
それに、うちの所長の事なら心配なんて要らないから安心して。満月の今日なら、フル装備の原子力空母相手に一人で戦ったって彼は死にやしないんだから、放っておけばいいわ。
だから今は、あなたが一人でヤツと戦うしかないのよ。』
聖子の言う事は正論だし理解出来るのだが、白虎の助けを借りられない今、伸田は怖くて仕方が無いのだった。彼は震える声で聖子に問いかけた。
「でも…どうやって戦えばいいんですか…?」
『ご覧の通り、ヒッチハイカーは完全に魔族と化したわ。なら、逆に打つ手が無い訳じゃない。あなたは今日、ここまでヒッチハイカー相手に互角以上に戦って来たのよ。この天才科学者、風祭 聖子聖子の開発したウインドライダーシステムを使ってね。
忘れたの? あなたはもう使ったのよ、対魔界の者専用防御システムをね。』
聖子の誇らしさの混じった声が耳に響いて来たが、それを聞いても伸田には何の事か分からなかった。そこで、彼は昨夜からの自分とヒッチハイカーとの戦いを思い返してみた。
「対魔界の者専用防御システムだって…? ん! そうか! 疑似結界シールドか!」
伸田は怪物ヒッチハイカーに対して有効だった戦法を思い出した。
『ビンゴ! それを使ってヤツから身を守りながら戦いなさい。
私の持てる科学力の粋を集めて陰陽術の結界をも参考にして作り出した「疑似結界シールド」は、必ず人外の者達を封じ込められると信じてくれていいわ。
ヒッチハイカーがどれだけ上位の魔族に変化したとしても、魔界の存在である以上は結界は有効なはずよ。結界の威力は、神獣白虎と化したうちの所長でさえ封じ込めるくらいなんだから。
後は、あなたの武器だけど…その点は分かっているわね。』
聖子の話を聞いていた伸田の心に、僅かだったが希望の光が見えて来た。僅かではあっても、絶望感に打ちひしがれていた惨めな心境よりも遥かにましだと言えた。彼は自分の両手にそれぞれ握りしめていた物を縋るような目で見つめた。
「僕の武器は… この『ヒヒイロカネの剣』と、たった一発だけ『式神弾』の残ったベレッタ。それと疑似結界シールドか…」
「もう、いいのか?」
突然、聖子ではなく低い男の声が聞こえた。
顔を上げた伸田は、前方にいる蠅の王がしゃべっていたのが分かった。
「何かブツブツしゃべっていたようだったが、もう無駄に逃げ回るのは止めて大人しく死ぬ決心はついたのか?」
蠅の王の口調には、ヒッチハイカーだった時の様な嘲りや蔑み等の、人を小馬鹿にしたような響きは無かった。ただ、淡々としゃべるだけで感情の込められていない口調に、伸田は余計に不気味さを感じずにはいられなかった。
「ゴクリ…」
昨夜来の引き続く戦闘で伸田の口内はカラカラに乾き、ほとんど水分など残っていなかったが、少しでも緊張を鎮めようと彼は生唾を飲み込んだ。
今の伸田には、風に乗る者としてヒッチハイカーに対峙した時の様な気持ちの余裕は微塵も無かった。
脚は言うに及ばず、彼の全身がガタガタと震えているのは、夜明け前の山中に吹き荒れる吹雪による寒さのせいばかりでは無かった。
それでも、伸田は愛する者達を再び自分の腕で抱きしめるために、全身の震えを抑え込むようにファイティングポーズを取った。そして、ヘルメットの脳波誘導システムに向けて強く念じた。
「ウインドライダーシステム起動!」
「キュイイィーン!」
停止させていた6基のローターが吹雪の音に負けない唸りを上げて回転し始めた。
「行くぞ、ベルゼブブ! この伸田 伸也が風に乗る者として…いや、一人の人間として貴様に決戦を挑む!」
そう強く宣言した伸田の身体が吹きすさぶ吹雪の中、雪が降り積もり凍てついた大地からフワリと浮かび上がった。
「来い、小僧!」
伸田の決死の覚悟を見て取った蠅の王がニヤリと笑って応じた。
吹雪の吹き荒れる山中に、二人にしか聞く事の出来ない最後の戦いのゴングが鳴った。
【次回に続く…】
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