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*7 蛍雪の功

 一遍に真白に染まった景色を眺めながら、蛍の光や窓の雪を灯りにして学問に励んでいた者は果たして春や秋には何で手元を照らしていたのだろうなどと下らない事に思い耽っている内に、段々冷気が心地良く無くなってきたので私は窓を閉めてまたテーブルランプの煌々と灯る勉強机に着いた。翌週に試験を控える私は、今週の始まる前から一週間分の勉強の予定を立てていた。丁度良く日付も十二月に切り替わったので、十一月中には何を済ませて十二月に入ったら何をしようなどとその境目を一つの目安にした。ところが予定はものの一日で崩さざるを得なくなってしまった。同僚の病欠である。

 

 見習い生のヨハンは先週の頭から職業学校の授業があって仕事には出ていない。それだから工房は先週からシェフ※1とルーカス、アンドレ、そして私の四人で回す必要があった。さらに日曜日を除く一週間の内一日は其々に休暇が与えられる都合で、そうした時は残った三人で仕事を回す事になるのだが、どうも私がここまで働いて見ている限り順調に仕事を回すには最低でも四人が必要で、それが三人となっただけで随分苦労を強いられるのである。とは言え仕事であるし、私も同様に休みを与えられるわけであるからそれで少々の残業が出る事など私個人にとっては然程問題ではなく、また予め立てた勉強の計画にも当然織り込んでおいた。しかしその内の一人がまさか病欠になるなどとはウイルスの新種が蔓延っていながら私の頭の裏には過りもしていなかった。すると今週貰える筈であった休日も無くなり、水曜日には愈々いよいよ昼の一時を過ぎる迄工房に残った。

 これは何も私が彼への恨みを晴らしたいが為に文字に起こしているわけではないという事は理解しておいて戴きたい。抑々そもそも恨みの念を奥歯で磨り潰す事さえしていない潔白な私である。彼が病気と言うなら病気である。それを私の苦労や予定の崩壊の為だけに這ってでも働けという自分勝手で非道徳的な思想の持ち主ではない私には、彼の病欠を告げられた瞬間から思い通りにいかない事実に対して腹を括るという選択肢以外ある筈も無かった。

 そして案の定、勉強の予定は摺々ずるずるとずれて行き、十一月中には済ませようと思っていた事は十二月になってもまだ手元に残っていた。それから先週同様土曜日に休みを貰えると踏んでいた私は勉強のみならず幼馴染の結婚式に出席しているまた別の幼馴染からのビデオ通話にさえ準備をしておくつもりであったが結局最初に電話のあった時には工房の一週間分の汚れを落としている最中であった。それでも帰宅してから電話があり、少しとは言え披露宴の様子を見れた上に懐かしい人や新郎の父親に挨拶出来たのは、九千キロの距離も八時間の時差も越える文明の利器に、また何より離れていても私をそうして気に掛けてくれる彼らに感謝である。

 

 仕事を三人で回すとなるとシェフもいささか不機嫌と見えて普段の小声や方言にも拍車が掛かって指示を聞き取るのも増々ますます大変であった。仕舞には私が何度も聞き返すもんだからシェフも声を張り上げる始末で、こうして冷静に飄々と働いている風に書き綴っている割に私は一丁前に怒鳴られている。だからと言って余り後を引かない私は、次の瞬間にはシェフと談笑しているくらいなものである。

絵/GENCOS

 木曜日に、今日審査員が店に来てシュトレンの寸評が行われるんだとシェフから聞いた私は翌日になってどうでしたかと聞いた。シェフは満足げに良い評価を貰ったと言った後に笑いながら、レープクーヘン  ※2  だけは一分長く焼き過ぎだと言われたよとまるで審査員の重箱の隅を突く様を嘲笑するように説明してくれた。私はレープクーヘンこそ苦手であるが、ベッカライ・クラインのシュトレンに頬を落としている身としてその話の結末に、私はここのシュトレンがこれまで食べた中で一番だと思います、と御弁茶羅おべんちゃらを抜きにして伝えると、今週終始曇っていたシェフの顔には喜びの表情が浮かび、そんな言葉を貰えて嬉しいよ、ありがとうと素直に受け取ってくれた。

 

 五十を過ぎているシェフもルーカスも方言で喋るのに対し、若いヨハンは殆ど標準語で喋るので助かる。また製菓部門にリリと言う見習い生の少女もいる。賢そうな顔立ちをしたこの少女も標準語で喋ってくれる上に、私の発する歪なドイツ語を理解する力も高いと見えて比較があるわけではないが矢張り賢いのだろうと思った。とは言えそんな彼女とは普段の仕事中には挨拶やほんの些細な仕事上の伝達くらいの遣取やりとりしかないのであるが、今週製パン部門の工房を私が一人掃除をしている所で彼女がクリームを炊き始めたので、学校はどうかなどという無難な問い掛けから珍しく話し込んだ。私の場合相手が標準語話者であると、その発言一つ一つを脳内で理解出来るまでの速度が方言話者に対した時とまるで違う事を再認識した。すると私の口からも湯水の如く言葉が溢れ、話の流れを傷付ける事なく会話を運ぶ事が出来、シェフやルーカスと話す時にどうも返答の間が悪くなってしまう原因をそこに突き止めたような気がした。

 なんでも彼女は日本語を独自に学んでいた事がある様で、平仮名と片仮名は覚えたけれども漢字は難しいと言っていた。矢張り賢い事には間違いなさそうである。少女とは言え彼女も女性である以上年齢を問い質してみた試しこそないが、どう見てもまだ邪気無あどけない容姿の年齢でありながら、日本に興味があるからと独自に語学を学んでいたなどとは実に感心である。私が彼女と恐らく同じくらいの年齢の頃に語学を学ぼうという発想アイデアが抑々無かったのは単純に海外文化と触れ合う事が無かったからであろうか。彼女はアニメを機会きっかけに日本に興味を持ったらしかったが、それから日本に関するドキュメンタリーなども見ながら、とても興味深い国であるから何時か旅行するのが夢なんだと目を煌々きらきらとさせながら語っていた。結局のところ興味関心が何よりの原動力である。そう言えばドイツに渡って直ぐに入ったドイツ語のクラスに若干十六歳でドイツ語を学びに来ているロシア人の少女がいたが、彼女なんかはその時点で既に日本語を少し喋っていた。どれほど実の詰まった十六年を生きたらその年齢で三カ国語話者トリリンガルが誕生するのだろうかと考えると、畢竟ひっきょう興味関心の因果であろう。幼い内から幅広い世界を実体験に限らず目にすると言うのはそれ程有益である。


 興味関心と言えば、先週私は販売婦を通じてとある青年の電話番号を受け取った。話を聞けばその男は店頭に来るや否や商品も買わずに、私に興味がある旨を説明して電話番号を販売婦に預けるなり帰って行ってしまったらしい。緑色で幅の広い付箋にドイツ人特有の読み難い数字が並べて書かれていた。その番号に私から連絡を入れて欲しいとの話であった。

 数字を読み難いと形容したが、これは蚯蚓みみずが這った様だなどと言う易しいものではなく、幾つかの数字が最早識別出来ない程であった為に、私はその番号に電話を掛ける前にショートメールでその番号の正誤を確認した。その為に結局四通りの番号に連絡をして漸く辿り着いた。

 その彼から数日前に電話があった。彼もまた標準語で喋る男だったので電話口と言えすこぶる聞き取りやすかった。どうも彼はこの街で生まれた学生で、今度授業で生まれた街の興味深い何かについて発表するらしかった。そんな時に先日私が載った新聞記事を見掛け、その日本人のパン職人にインタビューをするべく店頭に出向きこうして連絡を付けて来た様であった。まあそう言う事なら私の方に断わる理由などありもしないわけであるからインタビューの交渉はすんなり承諾した。電話口で日時と場所を取り決める段階で、私の住むアパートに直接出向きインタビューをすると言うので平気で易々と住所を教えたが、日本に憧れを持つ者もいれば日本人への差別心をこじらせた者もいた、などと言う不穏の結末だけは書かずに済む事を祈るばかりである。

 

(※1)シェフ [der Chef]:チーフの事。
(※2)レープクーヘン [der Lebkuchen]:香辛料やナッツ、蜂蜜などを用いたクリスマスに見られるドイツ菓子。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。

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