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檸檬の人

 檸檬の人 

 金木犀の薫る夜に、私は道端で五体投地をする羽目になった。スーパーに寄った帰り、両手に米や二Lの水を抱え、明後日のデートでどうやって彼を喰ってやろうかと考えていたら、両足から転んだのだ。きっとこれは彼に手を出してはいけないというお告げだったのかもしれない。けれど、久しぶりに見た血がなんだかやけに面白くて、変なホルモンか何かが出て痛みなど感じずに、スキップしながら家に帰った。


 どうやら私は彼に対する恋愛感情というよりも、彼の記憶に残りたいという気持ちが大きいようだ。彼は詩を詠み歌を作る。その詩にその歌に、十九歳の私の姿を記録してほしかった。今すぐでなくてもいい、三十年後に思い出して、少女の私を記憶の中から追い求めてほしかった。ただそのためだけに彼にとって初めての女になろうとしていた。


 身体的精神的接触のないまま、ひととおり無難なデートをし、私たちは個室の居酒屋で当然のように終電を逃した。
「僕は今日、どうにでもなれと思って、来たんだ。」
酒に酔う彼は自分自身にも酔っていた。酔ってぐにゃぐにゃになった彼の価値観に乗ってやろうと思った。
「私もだよ。きっとキスぐらいはしちゃいそうだね。」
「実は、キスをしたことがないんだ。」
彼ははにかみながら、ごくりと檸檬サワーを飲み干す。
「あら、ファーストキスはどんな味がすると思う?」
「檸檬の味だとか、そんなことを考える歳じゃあもうなくなってきている。」
「これは、内緒なのだけれど、お酒を飲んでいるときのキスはとびきりおいしいよ。」
「あんまりからかっちゃいけないよ。」


 笑いながら私たちは居酒屋を出た。そして、そのまま歩いた。緑のランプが光る古ぼけたラブホテルに入るほど私たちの価値観は酔っていなかった。かつて栄えていた風俗街は寂れ、女の声すら聞こえなかった。雲が厚く覆い、月すら見えなかった。冷えた夜風が彼との距離を縮め、その代わりに酔いを持って行った。大空襲の時、人々が水を求めて飛び込んでいった川に沿って歩いた。
「誰かと入水したくなることがある。」
「毎日夜になると、死んでしまえたらどれほど救われるのかと考えてしまう。その方法が入水であってもいいかもしれないな。」


 目の前をレスキュー車が横切った。十字路の右手側にある7階建てのビルの屋上に人が立っていた。スーツを着た若い男の人だった。周りに数人いる野次馬に話を聞いてみると、どうやら飛び降りようとしているらしい。男の鼓動を私は感じた。足がすくんだ。一歩を踏み出せることを応援する気持ちも、思いとどまるように祈る気持ちも、湧き起らなかった。ただ無表情に宙を仰ぐしかなかった。


近くのコンビニに入り、ストロングゼロの檸檬味を買った。そしてキスをした。自分の存在を確かめるようにはっきりとキスをした。
「ファーストキスはやっぱり檸檬の味がしたや。それもとびきりおいしいジャンキーな檸檬。」
と彼は笑った。
「アルコールの香りが鼻につきすぎるけれど」
「俺は素面だよ。随分前から」
「私もだよ」

 夜が明けるまえに、私たちは駅へ向かった。小雨が降り始め、私が持っていた小さな折り畳み傘に二人で入った。二人とも相手に触れていないほうの肩を濡らしながら歩いた。悠久の時間を共にしたかのような心持だった。日ノ出町駅の始発に乗り込み、まだ人の少ない横浜に消えていった。
 その日以来、私は彼と会っていない。あの日の私を彼の中での遺影にするために。

2020年1月10日

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