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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」2.ワールドバザール

 まだ目も開けていないのに、その朝は素晴らしい晴天で、心地よい光と空気に揉まれ、どどう、どどう、という低く轟くような風音とともに、樹々の葉の力強いざわめきが、胸いっぱいに揺さぶってゆく。ミッキーは耳をぴくぴくとさせ、次いで僅かに脳の奥に残る眠りを惜しむかのように、瞼をあげた。

 一年のうち、片手で数えられるほどしかない、心臓まで青く染めるように壮大な朝だった。まだ誰の足跡も残されていない世界に、物音が、信じられないほどよく響いていた。窓を開けると、カーテンは絶え間なく揺れ動き、真っ直ぐに天へと連なるほどに、地上は風に満たされ、襟や袖口から忍び込んできて、あまりに爽やかな肌触りで全身をくすぐる。鈴虫の音が、一際、清かった。

「デイビス、おはよう。起きて」

「んー?」

 ミッキーの手に揺さぶられたデイビスは、垂れかかっていたよだれを拭きながら、ずりずりとベッドを這いずって移動し、サイドテーブルの上に外していたパイロット・ウォッチを見る。

「はよ、ミッキー。お前なー……まだ六時にもなってねえじゃねえか」

「少し、寝坊しちゃったね」

「寝坊〜? あと二時間は寝ていられんだろ」

「だめだよ、パークは、八時から開園なんだから! さ、顔を洗って、お庭に水やりをしてくれる? 僕は、プルートとお散歩をしてくるよ」

 軽くマウササイズをしてから、プルートを小屋に迎えに行き、連れ立ってトゥーンタウンの通りへ出た。朝の光は、軽やかなほどにまぶしかった。耳に飛び込んでくるのは、納屋で飼育している鶏の声——それと同時に、黄身がミッキーシェイプの形をしている卵が、ぽろりと藁の上に産み落とされる。生まれたての空気の中、稀薄な数キロメートルの霧が揺らめくかのように、真っ直ぐに天から送られてくるひんやりとした陽だまりを、ミッキーは手を伸ばして受け止めた。雄大な地鳴りのように風が轟き、時々、彼らの全身を呆気なく呑み込んでゆく。髪やシャツの裾が舞いあがる中で、とめどもなく溢れる鳥の声が、まるで会話しているかのように聞こえた。

「おはよう、みんな! いい天気だね!」

 信号機や街灯に挨拶すると、ぺこり、と律儀にお辞儀が返される。プルートを連れたまま、ミッキーアベニューを時計回りに一周する。今日も噴水は透明なヴェールを滴らせ、相変わらずの奇天烈な楽器の呻き声を、その水音のうちに反射させている。

 樫の木の上にあるツリーハウスは、チップとデールのもので、すでに紅く染まった大きな葉が、宙を漂いながら落ち始めていた。どんぐりのランプは灯りを消して、ハウスからは、すぴるるる、と呑気な寝息が降りそそいでくる。ガジェットの家では、風見鶏ならぬ風見栗鼠がくるくると回り、雨樋代わりに取付けた縞模様のストローを、冷たい夜露が流れ落ちてゆく音がする。大きな水兵帽を被った、真っ白な船は、今日もロープに渡された旗をぱたぱたと打ち鳴らし、浮かんでいる湖は青く澄んで、流れ落ちる滝や、蛙の飛び込む音、それにそよ風に躍るガマのささめきなどを、波の間に掻き乱す。それに、グーフィーの庭。勢いよく回転させて水分を飛ばしている、大きな洗濯物を引っかけた機械や、ポップコーンが詰まった作物、そしてグーフィーそっくりの案山子。ジョリートロリーの運転手は、完全に席に突っ伏して居眠りしていたようだが、車両は健気にも、信号に従って立ち止まり、青が点灯した時点で、ふたたびカタコトと動き始めていた。

「プルート、花火工場まで、競走しよう!」

 ミッキーはそう呼びかけると、朝の光に抱き留められるように、真っ直ぐ、故郷の街を走り出した。

 ようやくベッドから身を起こし、あくびをひとつ残したデイビスは、洗面台で顔を洗うと、とん、とん、と階段を降りて、ミッキーの家の裏庭へと向かった。

 たっぷりと柔軟剤を含ませた水中に、ゆらゆらと洗濯している服が揺れているランドリーのそばを通り抜け、溢れんばかりの黎明がそそいでくる裏庭へと足を進める。光の具合なのか、その付近の陽射しは明るく、どこかノスタルジックなレモネード色にあざやいでいる。すべてが朗らかなその色に包まれていると、まるで巨大な蜂蜜のプールへ、たぷんと浸けられたかのようである。

 庭の小径を進み、赤い小さな薔薇を絡ませたガラスの納屋には、むっと籠もった暖かい空気の中に、数え切れない量の埃が煌めいていて、ガーデニング用のオーバーオール、白い手袋、庭作りの本、鉢植えのチューリップやキンポウゲが咲き誇り、デイビスはそこに転がっているジョウロを手に取ると、さらに裏庭の奥の方から、順番に水を撒いてゆく。狭い柵に囲まれた畑は、段々が作られており、肥料とたっぷりの水、それに旭の恵みを浴びて、すくすくと成長していた。裏庭に栽培されているのは、背の高いトウモロコシに、時々地ネズミにかじられているニンジン、紫色のまだら模様のカブ、大きく葉を広げたキャベツ、それに細かく、可憐な花——これはおそらく、ミニーに贈るために植えているのだろう——よく耕されている土からは、まるでペンキでも塗ったかのように、なんとも派手な根菜が覗いている。牧歌的だなー、と思いながら、こまやかに土を湿らせる水をぼーっと撒いていると、何やら家の二階に据えられた窓の向こう側に、ロッキングチェアを揺らしながら、ぺらり、とページをめくる影を見つけた。

「やい、スコット! 優雅に読書なんかしてねえで、こっち手伝えよ!」

 大声を張りあげると、少し時間が経ってから、窓の鍵が解かれ、ふわりとながれ込む風に、レースのカーテンが揺らめき始める。

「ああ、おはよう、デイビス。なんだお前、まだパジャマ姿なのか」

「しょーがねーだろ、今日の服なんか、持ってきてねえんだから」

 早く来い、と身振りだけで伝えると、スコットはうんざりした顔で腕を振り、すぐに顔を引っ込めた。そして予想通り、数分経ってから、清潔なシャツに身を包んだスコットが現れ、黄色味がかった陽射しに照らされる裏庭を、興味深そうに見回している。

「へえ、ミッキーはガーデニングが趣味なのか。この面積を一人で手入れしているのは凄いな」

「広すぎるよなー、この家。まだまだ、奥に納屋もあるみたいだぜ」

「ふうん」

 樹々の枝がさやさやと風に靡いて、若葉も、紅葉も等しく揺らぎ、揺れる花々は音もなく、茹でた卵黄のような花粉をこぼした。スコットはポケットに手を突っ込んだまま、ぼんやりと陽射しを仰ぎ、朝風のうちに響き渡る、悲痛なまでに美しい秋の虫の音に耳を傾けていた。

 まもなく、ミッキーがプルートを連れて帰ってくると、裏庭の犬小屋に戻して、彼に骨をやりながら、燦然と水滴で光る芝生に満足したように、笑顔で言った。

「どうもありがとう! 水やりは完璧だ。さて、朝食の時間だね」

「どうせワールドバザールで何か食べるだろうし、軽いものでいいよな?」

「ああ、気を使うことはない。コーヒーだけ頂ければ、私は満足だ」

 と食卓に着席しながら、持参してきたオーデコロンを自分の身に振りかけると、スコットの周りにたちまち、スタイリッシュな風が吹き渡る。隣の席に座ったデイビスは、不快げに眉根を寄せた。

「あのなー、仕事じゃねえんだぞ。パリッとしすぎじゃねえの?」

「常に完璧な状態でいるのが、私のポリシーだ。だらしないのは我慢ならん」

「やだなー、隣にいて恐怖しか感じねえよ」

「それじゃあ、コーヒーだけにしようか。ミルクは?」

「結構」

「俺もブラックー!」

 それぞれの返事を聞いて、ミッキーはドリップの準備をし、ポットで湯を沸かす。ミニーとお揃いの品番を買ったため、たちまち室内には、煮沸音による軽やかな『ミッキーマウス・マーチ』が流れ出す。

「デイビス、君の昨日の服は、もうすぐ乾燥機で乾くから、それを着たらいいよ」

「サンキュー。もう、すぐに出かけるのか?」

「開園後一番にシルエット・スタジオに入って、僕の影に仕事を任せたいからね。七時半にはここを出て、ワールドバザールに向かおう」

「オーケー。いやー、楽しみだなー」

 ずびび、と湯気立つコーヒーを啜りながら、デイビスは久々に、こうも賑やかな朝を迎えたのはいつ振りだろうと思い返す。半年前、ドリームフライヤーに乗って、世界中を冒険した——それ以降途切れていた、あのワクワクとした思いが、今更ながらにじわりと身に染みてくる。ぴちち、と小鳥が窓の外を飛び立ってゆく気配がした。

「よし。では、支度するか」

 スコットはコーヒーの礼を言って立ちあがると、おもむろに、深い色の背広の袖を通した。ネイビーのスーツは、そのシンプルさゆえ、着こなすのが非常に難しいファッションだが、鍛えあげられた肉体にフィットしたそれは、非常に格調高い印象を与える。遠目から見ても、無駄なく見栄えのするスタイルを誇り、八頭身、頼もしい胸板、肩幅は広く、ショコラをまぶしたような無骨な指には、煌々と結婚指輪が輝いている。知的に引き締まった顔立ちを覆い隠すように、玉虫色の艶を放つ偏光のサングラスをかけ、さらには品のあるブラウンのネクタイを締める。そして、胸には、艶やかな亜麻色のポケットチーフ。その一分の隙もないほど貫禄のある出で立ちに、デイビスはぽかんと口を開けた。

「……あんた、一体どこのマフィアだよ? 俺たちが出かけるのは、たかだか遊園地だぜ?」

「別にいいだろ。服のセンスがないから、いつでもスーツを着ていたいんだ」

「うおー、うさんくせー。ミッキー、あの怪しいオッサンには、近づかないでおこうな。糞真面目が伝染るぜ」

「いいからお前は、さっさと着替えろ! いつまでパジャマ姿でウロウロしている気だ」

 苦々しい顔つきでデイビスの尻を蹴飛ばすスコット。転がるようにして洗面台に向かったデイビスは、しぶしぶパジャマを脱ぎ捨て、昨日と同じ格好に着替えた。

 化粧水と剃刀を借りて、髭を剃る。シェービング剤の泡を洗い流し、ようやく見られる姿になったかな、と鏡を覗き込むデイビス。長めの前髪の奥から、美しく透き通った若葉色の眼が冴えるのに合わせて、気のせいか、鏡面も輝かしさを取り戻したように思えた。

「わあ、デイビス、無精髭がないと大分変わるね」

「おう。イケメンだろー?」

「じゃあ、はい、はい。もう、出かけようよ!」

「せっかちだなあ、まだ出発する時間になってねえのによ」

 ぱたんと玄関のドアを閉め、鍵をかけるミッキー。三人は、トゥーンタウンを出てすぐ右手側に赴き、トゥモローランド行きスカイウェイのゴンドラへ。ミッキーはガラスに貼りついて、熱心に眼下を見渡し、そこにあるすべてのものを、眩しいように眼差しで撫でた。アルプスの山を背景に佇む、華やかな紅と藤色の煉瓦が特徴の美女と野獣の城や、スカイウェイに迫る高さで空を駆けめぐるスタージェット、スマートなレッドとイエローのコスチュームに身を包み、ブロック・チェックの大きな旗を振るキャストが見えるグランドサーキット・レースウェイ、トゥモローランドの顔とも言える、美しい純白のドレープを描くスペース・マウンテン。向こうには、ガラスの扉の向こうにスタースピーダー3000を透かす、スター・ツアーズ社の巨大格納庫。こちらには、赤銅色のアストロラーベ(注、天体観測用計算機)に「VISIONARIUM」の文字を回転させる後ろで、夢を追いかける者たちの、長い科学の歴史を描いたステンドグラス。それに宇宙へと飛び出してゆくスペース・レンジャーの本部、スターコマンドや、薄紫色のキャプテンEOのロゴ、虫眼鏡のレンズから飛び出してくる"MICRO ADVENTURE!"の文字も忘れてはならない。ゴンドラがトゥモローランドの駅に着くと、ミッキーはたちまち駆け出して、くるくると楽しそうに尻尾をめぐらせ始めた。

「デイビス、スコット! 早く、早く!」

 誘いかける声も、まだ世界の音の少ない朝の中ではよく響き、まるで七色の光芒を反射するかのようである。それぞれのロケーションで開園の準備をするキャストたちは、はしゃぐミッキーを見て、愛おしげに苦笑をこぼす。

「ちったあ落ち着けよ、まだ時間はたっぷりあるんだからさー」

「でも、もう待ち切れないよ!」

「ミッキー、足元に気をつけろ。転ぶなよ」

 まだ若い、あおあおとした穹窿が広がり、彼らの上に射していた。風は、スラックスをすり抜けて脛毛に当たり、皮膚にかすかな温度の違いを散らした。その時になってデイビスは、前を歩くスコットの整髪材で撫でつけられた頭に、一本だけ、白髪が輝いているのを見つけた。

 ミッキーはどこまでも走っていって、アール・ヌーヴォー風の、青とクリーム色の花装飾をあしらいながら、太陽のレリーフを中央に据えた美しい出入口へと向かう。ここから道は、ワールドバザールを横に貫通するセンターストリートへと通じてゆく。世にいくつか点在しているワールドバザールの中でも、この舞浜におけるアーケードは他に例がなく、ヴィクトリア様式の工業的な雰囲気と、藝術品のような繊細さが同居し、高さ十五メートル以上のこの広い内部を、清澄な雰囲気で満たすのである。とりわけクリスマスの時期には、まばゆいばかりの飾りつけが施され、街灯のひとつずつにヒイラギのリースが下げられるとともに、巨大なクリスマス・ツリーが姿を現す。まだ季節は秋に入ったばかりだが、すでにその準備は、裏で進められているはずだった。

「知っているかい? ワールドバザールは、ウォルトの育ったミズーリ州のマーセリンを再現していてね。ここは、彼の思い出が溢れた地なんだよ。そして、この先を、真っ直ぐに進むと——」

 アーケードいっぱいに、好奇心にあふれた鼻声を響かせると、まもなく、三人は十字路に差し掛かる。

 そのガラスのアーケードの果てに————

 聖堂の如く守護された、屋内からの解放。優雅な曲線を描く三連アーチで出口を縁取って、額縁の如く外光を切り取るアーケードは、自然と眼差しを吸い、その遙か彼方にある、紺碧と純白に彩られた城へと注目を促していた。全高五十一メートル、中央へと寄せ集められた二十九本もの尖塔が、細く空へと吸い込まれ、その蒼穹に溶け込んでしまいそうな屋根は、秋の日の中で一際鮮やかに映える。ユッセ城、シュノンソー城、アンボワーズ城、フォンテーヌブロー宮殿、ヴェルサイユ宮殿、シャンボール城、ショーモン城など——ヨーロッパの名だたる城を参考に、数々の建築様式を取り入れた創造されたその城は、細身でありながら、下は堅牢な石の壁に鎧われ、ディズニー家の紋章を掲げた正面アーチに格子の門を設けつつ、ロマネスク風の絢爛たる柱、さらにはゴシック風の尖頭アーチ、美しい水色の時計盤などを輝かしく装飾し、次第にその輪郭を一点へと集めながら、最後の黄金の頂きこそは、天空へと向かって堂々と聳え立つ。それがくっきりと、青空に根を下ろして佇む姿は、どこか時を失くしたような眩しさで、各々の目に映る。

 開園前ということで、彼ら以外、まだどこにも人はいなかった。打たれたように立ちすくむミッキーの後ろで、ガラス張りのアーケードから降りそそぐ光線の帯に照らされ、天使のような美貌を綻ばせたデイビスは、彼の大きな耳に挟まれた頭を、優しく掻き撫でた。

「ほら、たっぷり見ておけよ。ゲストがいない中で見られるのは、今の時間帯だけだぜー?」

「…………」

 メインストリートの出口から射し込んでくる旭は、道の両側に立ち並ぶショーウィンドウや、街灯の間に佇む時計を煌めかせて広がっていた。ミッキーは、声も出ないように立ち尽くしたまま、その王国の象徴たるシンデレラ城に魅せられていた。

 シルエット・スタジオは、メインストリートの左手側、中央の十字路を、少し出口側に過ぎた建物の中に存在する。二階の上部に「1894」と書かれた、雪のように白いショップで、アンティークな金縁の看板が吊り下げられ、窓辺には鋏一本で切り取られた、シルエットのモデルが飾られている。

「ほんじゃま、さくって切ってもらってこい。終わったら、無線に連絡してくれな」

「うん! 待っててね、いなくならないでね」

 ちりりん、とベルチャイムを鳴らして、ミッキーが姿を消すと、デイビスは思い切り伸びをして、スコットに話しかける。

「ふいー、自由時間だな! ほいほい、スコット、ワッフル食いに行くぞ!」

「お前、ずっとそれしか考えていなかったのか? さもしい奴だな」

「あーあ、オッサンって本当、人生つまんねえよな。生きる喜びはどこいったんだよ」

 二人で連れ立って通りの角を曲がりながら、ふと、こうして朝食を誰かと一緒に食うのも、久しぶりなんだな、とデイビスは思い出した。一人暮らしも宿舎住まいも長くなった彼には、会話にあふれた朝を迎えるのは新鮮だった。

 グレートアメリカン・ワッフルカンパニー。

 訪問者からの絶大な支持を受けるこのカフェについて、もはやくだくだしい説明も必要あるまい。ワールドバザールの角にあるにも関わらず、遠くまで香る甘い匂いで人を惹きつけるその建物は、くっきりとした赤と青の二色をベースに、トマト色のパラソル付きのテラス席から、立ったまま食せるテーブルまで用意してあり、内部はいっそうアメリカの庶民的な雰囲気を漂わせて、青いレトロな花柄の壁紙に、アンティークな台所用品を多く展示してあるのだった。

 デイビスが浮き浮きでメイプルソースを注文する一方、スコットは寡黙に腕を組んだまま、ガラス張りの厨房の奥を見つめている。サングラスをかけた屈強な男が、スーツに身を包んで眼光を閃かせる様は、シェフたちに凄まじい圧力を与えたに違いない。

「あんたさー、なんでいつもそんなにむっつりしてんの?」

「むっつりというな。読者に誤解を与えかねん」

「だってさー、せっかく外出して、陽の下で甘いモン食って、なんか感想はねーの? つまんねえじゃん、なんとか言えよー」

 テラス席についてじっと押し黙ったままのスコットに、とうとうデイビスが痺れを切らして、テーブルの下から軽く足を蹴る。

「やめろ! スラックスに泥がつく」

「んで、むっつりのオッサンのご感想は?」

「ああ。思った以上に、美味い」

「だろー?」

 へら、とデイビスは相好を崩すと、口の中でアーモンドをカリカリと噛み砕く。

「ま、目の前にスーツ姿のオッサンがいると、全っ然、リラックスして食えねえけどな。華がねえんだよなー、華が。あーあ、可愛い女の子だったら良かったのになー」

「悪かったな、俺がお前の御相伴にあずかって」

 ブチブチと文句を言うデイビスの不満を聞き、こめかみに青筋を立てながら、スコットは黙々とワッフルを口に詰め込む。辟易と肩をすくめたデイビスは、ふと、遠くまで晴れ渡る空を見つめ、頬杖をつきながら、

「でも、いいよなあ、こういう朝って」

とぼんやり呟いた。

 はたはた、とパラソルやオーニングが打ち靡く傍らで、切ないほどに透き通る、大きな秋の蒼穹を見つめる。とにもかくにも、空が蒼い。誰かの肩を叩き、真っ直ぐに天を指差したくなるような蒼さだった。ここ以外では嗅いだことのない、胸の躍るような甘い匂いとともに、鳥の囀りが、ぴん、と張り詰めた宙を切り裂くように響く。時々ふわりと吹き流れる風は、まだ時刻が早いせいで肌寒く、朝霧の名残が少し残るように思われるが、その中を陽射しが織り乱れると、まるで柔らかなヴェールが戯れるように、薄明るい光芒をつぎつぎと揺らしてゆくのだった。

 なんという美しい日だろう、と思う。すべてが完璧で、この蒼穹を染め抜く太陽があれば、何もいらない。スピーカーからこぼれるラグタイムは、ニューオーリンズの軽妙なジャズと微かに混じり合い、何とも言えぬ清々しさに溢れていた。

 その時、尻ポケットの中の無線機が震える。デイビスは、おもむろに引き出して、それに応答した。

「はいよー、こちら、キャプテン・デイビス。……うん、そんじゃさ、スタジオを出てから、城を背にして、右手の角を曲がって。……そ。外の席にいるから、すぐに分かると思うぜ」

 ミッキーは数分後に現れた。走ってきたらしく、少し息が弾んでいる。それまで不安に押し潰されそうな顔つきだったのが、二人を見た途端、みるみる明るい表情に満ち溢れ、スコットの脚に縋りつく。そこで顔を見あげた折に、彼の手にしているナイフとフォークに気づいたようだった。

「あーっ、どうして先にワッフルを食べているんだい?」

「そりゃ、お前の分も買ってたら、ぱっさぱさに冷めちまうからだろ?」

「ずるい! 僕も食べたい!」

 デイビスはお駄賃として、彼の手にディズニードル札を握らせた。

「ほれ、好きなの買ってこい。すぐそこだぞ」

「二人とも、何味を食べているんだい?」

「俺がメイプルで、スコットがチョコレート」

「それじゃあ僕は、アップル&キャラメルアイスにしよう! 待っててねー!」

 いそいそと、スキップでもしそうなほどの元気さで店に飛び込んでゆく後ろ姿を、デイビスもスコットも、微笑ましそうに見守る。

「ったく。はしゃいでんなー、ミッキーの奴」

「なあ、デイビス。お前はどう思う?」

「何が?」

「魔法が使えないという、例のスランプだ」

 スコットは、声を潜めるように訊ねたが、デイビスは、少し首を傾げただけで、ひょいと生クリームをフォークですくいながら、ぞんざいに答えを口にする。

「単に、今まで忙しすぎたんじゃないのかねえ。そこへ休園がやってきて、突然仕事がなくなっただろ? 糸が切れちまったんだよ。少しずつ、慣れてゆくしかねえや」

「そう……そういうことなら……」

「なんだよ、他にも何かあるっていうのか?」

 スコットは俯いたまま、何かを考え込んでいたようだが、やがて重々しく口を開いた。

「あの子は、あまりにも完璧すぎる。家事もやって、仕事もして、いつも笑顔で——いい子すぎるんだよ。あの年でそれを負うには、重すぎる」

「どーだろ。働くのが楽しくて楽しくて仕方ないって輩もいるしなあ。ま、そこらへん、俺たちが注意深く見てあげるしかないかな」

 まもなく、満足げに皿を抱えて帰ってきたミッキーは、椅子に飛び乗ってテーブルにそれを置くと、自慢するように声を張った。

「見て見て! 僕の顔だ!」

「あ。俺、もう耳しか残ってねえわ」

「残酷!」

「しょーがねーだろ、食いモンなんだからよ」

 椅子から突き出しているミッキーのナイフとフォークは、ぷるぷると震えていた。絶妙に背の低いせいか、腕を伸ばさないと、切り分けることもままならないらしい。

「……届かないのか?」

 見かねたスコットは、ミッキーを抱きあげると、自分の膝の上に座らせつつ、ワッフルの皿を正面に移動してやった。

「大丈夫? 重くないかい?」

「平気だ。いいトレーニングになる」

「ゴリラみたいなことを言うなー、あんた」

 デイビスは恐れ戦いていたが、鼠だからか、ミッキーは抱きあげても軽かった。チョロチョロと動く尻尾はくすぐったいが、その体温は耳までしっかりと暖かく、鼻は絶えずヒクヒクと匂いを嗅いでいる。

「食べられるか?」

「うん! 僕の顔、美味しいね!」

「アン◯ンマンかな?」

「夢が叶ったんだなあ。僕、ここで一度でいいから、ワッフルを食べたい食べたいと思っていたけど、忙しくって、このカフェで食事できたこと、一回もないや」

 何らかの意図を込めることもなく、嬉しそうに呟いたミッキーだったが、デイビスもスコットも、少しの沈黙を挟んで、彼を慮るように見つめていた。

「ごちそうさま! さあ、遊びに行こう!」

「そうだなー、どこ行く?」

「このあたりには、いったい何があるんだ」

 三人は、テーブルの上にかさついたマップを広げた。太陽光線があたって、テーブルの上に映える地図の鮮やかなインクが、目に染みるようだ。その中の一角を、ミッキーは白い手袋に包まれた指で、元気に指し示した。

「ペニーアーケード!」

「あー、はいはい。ペニー(注、一セント銅貨)、持ってきていたっけな」

 財布を取り出して、ひいふうみ、と数えるデイビスに、スコットは手を伸ばして制止する。

「構わん、今後の代金は、私が全て支払う。お前はまだ昇進したばかりで、給料もそんなに入ってきていないだろう」

「え、いいの? そいつは驚いた、太っ腹ですなー、スコットさん」

と驚いた振りをしつつ、デイビスはあっさりと財布を懐に仕舞う。欲望を隠さん奴だな、とスコットは苛立ちを露わにしつつ、マップを几帳面なほど丁寧に畳んだ。

「さー、ぐずぐずしている暇はねえぞー。早くペニーアーケードに行って、山ほど景品をかっさらっていかなきゃな」

「うん、たっくさん取るよ!」

「おー。最低でも、二キロは持って帰んぞ」

 センターストリートを戻ると、開園時間を迎えたのか、今日初めてのゲストたちが、メインストリートを歩き始めていた。彼らにとって、この道は通過点で、この先、いくらでも広がる東京ディズニーランドの入り口へと立ったに過ぎない——しかしミッキーにとっては、彼らと同じように時を過ごしている感動を抑え切れなかったらしい。高い鼻声をわななかせ、ミッキーは恍惚として叫んだ。

「なんて素晴らしいんだ! 僕もみんなと一緒に、パークを歩いているぞ!」

「み、ミッキー。しーっ」

 人差し指を立てるデイビスの背中を叩くと、スコットは微かに肩をすくめた。

「遊ばせてやれ。たまにはいいだろう」

「ま、しゃーねーか。久々のオフっぽいもんなあ」

 それにしても、まるで赤子のように喜ぶミッキーを見ていると、自分の小さな頃もああだったろうか、というような、懐かしい気分になる。四歳下に妹が生まれてからは、彼女をあちこち連れてゆき、自分が面倒を見たこともあった——走馬灯のように遠い記憶を辿っていると、スコットも口元に微笑を浮かべ、ふと思い出話を口にする。

「餓鬼の頃は、よく母親に連れられて、こういう遊園地を回ったもんだな」

「え? スコットにも餓鬼の頃なんて存在したの? 信じらんねえ、はっつみみー」

「…………」

 スコットは、人波に押されていってしまいそうなミッキーと手を繋ぎながら、自らの数十年前を振り返った。

「綺麗だったよ。日が暮れてくると、薄青い夕闇の中に、一面にイルミネーションが輝き始めて、それがなぜだか、無性に切なくてな」

「おー。そういう光景って、何年経っても、妙に覚えているんだよなあ。俺の親もカッコつけて、今日は記念日だとか、なんか変なこと言っててさあ」

「意外に親も、浮かれているものなんだよな。子を持った今になって分かったことだが」

 ミッキーは、スコットと手を繋いだまま、ふわり、と後ろを振り向いた。多くのゲストが笑いをこぼして、溶け合い、弾け合い、この広いアーケードいっぱいに、木霊を響かせていた。誰がどの声なのか、判別のつかないざわめきがアーケードの鉄骨を揺さぶり、その音響を柔らかに溶け込ませている。突然、体が縮んでゆくような心細さを覚えた。世界が、途方もなく大きく見え、スコットに手を繋いでもらっていなければ、すうっと吸い込まれてしまいそうだった。歩くたびに、すべてはめくるめく変貌を遂げ、ガラスの向こうに薄く透けている青空が、まばゆく彼の瞳に映る。微かに目を細めながら角を曲がると、いきなり、綿飴のように愛らしい彩りのバルーンが、数十を超える量で、彼の頭上に迫ってきた。圧倒されているミッキーに対して、風船の紐を持ったキャストは、しゃがみ込んで彼と目線を合わせると、微笑みかけた。

「こんにちは、ミッキー。こっちに来るなんて、珍しいね。風船はいかがですか?」

 クイクイ、と繋いだスコットの腕を引っ張った。何も話しはしなかったが、その期待にあふれた目の輝きから、訴えたいことは明白に分かっている。スコットは神妙に首を振った。

「駄目だ。今買ったら、遊びの邪魔になるだろう」

「欲しい! 今欲しい!」

「今買おうが、後で買おうが、同じだろう?」

「全然違うよ! 持って歩きたいんだよ!」

 キャストの前で駄々をこねるミッキーの横から、デイビスがひょっこりと顔を覗かせる。

「なーんかお前ら、親子みたいなのな」

「ん? ああ……」

「そうかい? 僕より、デイビスとスコットの方が、親子みたいに仲が良いのかなって気がしたけど」

 途端に、二人ともすざっと身を引き、鳥肌の立った腕を撫でた。どうもその発言内容は、生理的に受けつけないものだったらしい。

「はぁ!? こーんな仏頂面のオッサンを、絶対パパになんかしたくねーよ! 金輪際お断りだ!」

「私としても、こんな男と、死んでも血縁関係になどなりたくない!」

「いーか、拒絶してるのはこっちの方だからな! 今後一切、俺の半径十メートル以内に近づくなよ!」

「何でもいいから、この話題を早く切り上げてくれ。気分が悪い」

 想像しただけでげっそりと痩せこけているスコットへ、デイビスは何気なく、ぼそりと呟く。

「でもさー。大きくなった時、もしも俺が、あんたんちのクレアと結婚したら——」

 言い終わる前から、瞬く間に殺気を揺らめかせ、鬼の形相に変わるスコットに、デイビスはぎょっとして、作り笑いを浮かべながら後ずさる。

「冗談だって、な? な? 一回落ち着こうぜ。俺、歳の差が五歳以上ある奴は、守備範囲じゃねえんだよ」

「キャプテン・デイビス! こ、この下半身見境なしの不埒者めが——!」

「あっ、昨日出てきた単語だね。フラチ。こう言う時に使うのかあ」

 目の前でギャーギャーと大騒ぎする二人と、のんびりと見物している一匹に、バルーン売りのキャストはボーゼンとしながら、その動向を見守った。

 なんだろう、全員ズレてる。それぞれ、明後日の方向に。良く言えばバランスが取れているとも言えるが、悪く言えば、単に三倍やかましい。それがデイビス、ミッキー、スコットの集まった、この三人なのだった。

「あ、あのー。周りのゲストに迷惑なんで、喧嘩はよそでやってくれませんかねえ」

「あ?」

 スコットがデイビスの襟元を掴み、デイビスがスコットのネクタイで首を絞めているところへ、おそるおそる呼びかけるキャスト。すでに二人の格好はボロボロである。

「まったく、恥ずかしいなあ。二人とも、ちゃんと人目を気にしてよ」

 溜め息混じりに、やれやれと首を振るミッキーに、くっ、と奥歯を噛み締めるが、何も言い返せない大人二人組。彼らはそのまま、向かい側に設けられた、古びた煉瓦造りの建物へと引き寄せられる。入り口は豆電球によって輝き、その看板に掲げられたレトロな洒落たフォントを縁取っていた。

PENNY
ARCADE


 開け放たれた紅い扉をくぐると、狭く、薄暗い店内には、鈴蘭を模したノスタルジックなシャンデリアの周囲で、刺激的に点滅する電球。景気の良い音を立てて小銭を吐き出す両替機とともに、額縁に入れられた都市の夜景写真、チャップリンやベイブ・ルース、『月世界旅行』などの映画、それにマニアなら垂涎物であろう、十九世紀後半から二十世紀半ば頃までの、ヴィンテージのアーケードゲームがずらりと並んでいる。デイビスはそのうちのひとつの、占い機に手を伸ばした。小銭を入れ、レバーを引くと、手相を読み取るためであろう、冷たい金属製の突起が、手のひらを擦るようにじゃっと通り過ぎ、ぞわわっ、と鳥肌が立つ。

「『あなたは多くの才能に恵まれています。しかしまだ、そのことに自分で気づいていません。何にでも興味を持ち、とにかく行動してみてください。大きく運が開けるはずです』……」

 出てきたカードを不思議そうに見つめながら、デイビスは音読した。

「まっ、俺は天才だからなー、当然の結果ではあるけどよ。スコットー、あんたどうだった?」

「『あなたはパートナーの愛に支えられて、どんなに辛いことも乗り越えることができるでしょう。あなたのパートナーにいつでも誠実でいてください』」

 ……愛?

 スコットが思いっきり嫌そうな顔でデイビスを見つめると、何だよ、んな顔して見るなよー、と相手もまたうそぶく。

「なーんか、こう、ばくっとしたことしか書かれてねえんだよなー、このカード」

「所詮は古ぼけた機械の占いだし、当然だろう」

「あんた、こういうのまるっきり信じない朴念仁だもんなあ」

「全く」

 ひら、と手を振るスコット。とはいえ、カードは大真面目に財布に仕舞っている。

「スコット!」

「ん? どうした」

 振り返るミッキーは、またもや、キラキラと輝く目で語っていた。彼が眺めていたのは、ガラスの中にわんさかと小指の先ほどのぬいぐるみが詰め込まれた、ささやかなクレーンキャッチャーゲームである。

「それがやりたいのか?」

「うん!」

「待ってろ。十回で取れなかったら、諦めるんだぞ」

 そう言って、十枚の小銭をミッキーに握らせるスコット。ドキドキしながらコインを投入する間も、後ろから優しく見守り、滲むように微笑んでいた。

「難しい……」

「ははは、すぐに取れたら面白くないだろう?」

「なんだよ、こんなの簡単だろー? 見てろよ、キャプテン・デイビス様が一網打尽にしてやるからよ」

 ほんわかと戯れるシーンに接近してくるデイビスへ、スコットは鬱陶しそうに眉間に皺を作り、ミッキーを庇うように腕で防御した。

「お前はしゃしゃり出てくるな。彼自身の手でやらせてやりたいんだ」

「えーっ、景品が取れりゃ満足だろ? 世の中、結果がすべてだもんな? なー、ミッキー?」

「常々思っていたが、お前とはまるで教育方針が合わないな」

「なんだと? 俺だってなあ、同じ教官のあんたへのクレームは山ほど——」

「ぼ、僕の頭上で、喧嘩はやめてくれよ……」

 大きな耳をぺたりこと寝かせながら、飛び交う不平不満の下で、ミッキーは呆れたように顔をしかめる。このキャプテンたちは、どうしてこうも大人気ないのか。ディズニーランドに呼び出す人選を、間違えたのかな?
 結局、十回も挑戦しながら、小さなぬいぐるみはたった二つしか手に入らなかったが、彼はそれで満足したようである。大切に取り置いて、別々のポケットに仕舞う。

「これは、ミニーの分」

「彼女にマメなんだなー、お前」

「それじゃ、次はポップコーンを買って、メインストリート・シネマだ!」

 ペニーアーケードを飛び出したミッキーは、ようやく、光のあふれるワールドバザールの出口へ向かった。開園時間を一時間ほど過ぎ、ゲストの人数は増え始め、いよいよメインストリートの賑やかさは、頂点を極めた。ざわざわ、と過ぎてゆく人々の群れ。それは恐らく、ウォルトの生まれた二十世紀の初頭においても、このように暖かい呼吸でパサージュを満たしたのであろう。ふっと、その美しいお喋りの海に、全身が呑み込まれてしまいそうになる。あちこちの街灯に下げられたハンギングから溢れる、燃えるゼラニウムは、アーケードの鉄骨の頑丈さを裏切るように真っ赤にこぼれ咲き、あたかも水晶宮のようなガラスの内部で、幾つもの翳がショーウィンドウに反射して、その薄い映像を夢の如く流した。周囲のざわめきはますます悲痛になり、それは鮮烈でありながら、静けさと煽情を含み、しかもたやすく無限へと到達していた。そして、音楽が聞こえていた。それは完全なものでも、偉大なものでもなかったが、ただ濁り渡る雑音の遙かに至るまで、彼らの前で、空間を制圧していた。そしてミッキーはふと、四方にあふれる眩しい笑顔に目を奪われた。どの人間も、楽しそうに、愉快そうに、まるで彼の知らない言語のように、冗談を言い合って歩いていた。その事実に、なぜか置いてきぼりにされたような、不思議な心細さを覚えた。


(みんな、魔法が使えてる) 


 我を忘れてたたずむ彼には目もくれず、午前の明るみの中で、群衆たちの会話は一度も止むことはない。ワールドバザールに敷き詰められた深緑のアスファルトが、曖昧な鏡のように、出口からの反射を映し込む。あと一歩、前に踏み出せば、その全身は真っ白な外光に溺れるはずだった。しかしミッキーは、そこで立ちすくんだ。その境界線で、自分は足を止めねばならぬように思えた。

「どうしたんだよ? ミッキー、早く行こうぜ」

 デイビスは振り返って、放心したように外の光を見つめる、彼の顔を覗き込んだ。

「僕がそっち側に行っても、いいのかな?」

「なんだよ、当たり前だろ? ほら、こっちに来いよ。早くしねえと、日が暮れちまうぞ!」

 デイビスは、その宝石のように若い緑の瞳を細め、透明な光の中で歯をこぼして、無防備に笑った。くしゃくしゃに顔を崩して笑う時、端正に張り詰めた彼の面差しはほぐれ、一番自然で、眩しい表情になった。

 ミッキーは迷った。じりり、と黄色いドタ靴が、砂を踏みにじる音を立てた。

「行こうか、ミッキー」

 スコットの重厚なバリトンが、青空からの光とともに降ってくる。そして、握り交わした手に、力が込められた。ミッキーは、背の高い彼の眼差しを見あげ、それから、光の中で待っているデイビスを見つめた。

 おそるおそる。
 一歩、踏み出す。

 その瞬間に、彼の頭上を覆い尽くしていた、あの薄緑色のガラス屋根は消え失せ、どこまでも、どこまでも超然とした青空が広がっていった。ミッキーは息を呑み、恐怖から目を瞑り、やがて少しずつ、目蓋を開いていった。彼は、外に出た。怖くなるほどに宏大なペンキ・ブルーの果てには、僅かな雲しか見当たらない。四方八方から日が射して、二の腕が、痛いほど日をあつめる。足下から太陽までは、何もない。上空は酷く高く、盆型に窪まった頂きに最も色が集中し、そこから溶けるような紺碧を墜落させ始める。その蒼い光は、ミッキーの艶のある黒い毛並みに映り込み、心までもを同じブルーに染めあげた。魔法のようなブルーの中で——ミッキーは、雲の彼方に佇むほどに遠い、シンデレラ城を見つめる。それは、あたかも夢のようであった。幻のようであった。ふっと気を抜いた瞬間に弾けてしまいそうで、思わず、スコットの手にしがみつく。すると、優しく握り返す力が返されて、けして彼を孤独にすまいと、その遙かな高みから微笑し続ける。その穏やかな笑みに押されて、ようやくミッキーは、そこを現実なのだと信じることができるようになった。まばゆい自由は、限りがなかった。初めてこの世に生まれ落ちたかのように、ミッキーは前を見て、ゆっくりと、心の中でつぶやいた。


(これが、ウォルトの夢見た世界————)


 彼と同じ地を踏んでいる。
 今、この瞬間に。

 おそるおそる、その足をそっと下ろすと、その黄色い大きな靴を、静かに石畳は受け入れた。はためく掲揚旗や、パラソルの音に紛れて、抱え切れないほどの音がやってきた。早朝からずっと吹いている、地鳴りのような、潮騒のような風音。もしかすれば、自分の中の何かも、その風の果てから開始されるのかもしれなかった。夢も、魔法も、何もかも、この青空に包まれた世界から始まっていた。

 百万の未知、百万の驚異、百万の非言語、そして百万の好奇心。今や国土すべてに遍満するその喜びは、この蒼穹の下で、絶えず聞こえぬ音楽を奏で続けているのだった。既知の言語では解けない一切の問いが、会話を弾ませ、跳ねるように路上を過ぎてゆく。そして、全身の崩れ落ちるような感銘が、喉をついて出た。ここは、"彼"の街だ。"彼”が愛し、多くの仲間を集め、永遠のものにしようとした街だ。ミッキーは、あらゆる景色に、苦しいばかりの喜びがほとばしるのを感じた。彼はここで夢を創造した。何事かを問い、それを開始しようと決意したんだ。彼の志向する世界が、今、初めて、自分の前に姿を現わす。壮大な朝の陽射しの中で、ポップコーンの匂いとそよ風が、目を回した。左右には、天へとめぐるように螺旋階段を昇らせてゆく、優美なガゼーボ風の白い建物。真っ白な鳩が羽ばたき、雲の一部となるように、青空へ吸い込まれていった。カストーディアル・キャストが、目にも鮮やかな青い服を纏って掃除をしていて、人々は感嘆の声とともに、花壇の前に立ち止まり、何枚もの城の写真を撮っていた。ミッキーは、自分の手袋を見た。それさえもが、純白に冴え渡り、何の遮るものもないままに、ただ、激しい眩しさだけを訴えている。それらのすべて——"彼"が望み、描き、願い続けたすべて。彼はこうして、さまざまなカラーに塗られたワゴンに見惚れたかもしれない。このカフェの片隅で、新聞を読み、あの整った髭を撫でつけながら、新しい世界に関する構想を練っていたのかもしれない。そしてそれは、彼以外の人間、ここに溢れる何千、何万、何億の人間たちもまた同じく、連綿と繰り返してきたことなのだ。

 目の前の光景に圧倒されながら、ミッキーはこっそり滲んだ涙を、手袋で拭った。おせーぞ、と叫ぶデイビスを、すぐに来ただろうが、とスコットが叱りつけ、そんな彼らのテノールとバリトンもまた、風に吹き払われていった。ミッキーは喉を詰まらせながら、ゆっくりと前へ歩いた。

 シンデレラ城を左手に臨みながら、スウィートハート・カフェの前へと移動し、真っ赤に塗られたポップコーン・ワゴンを覗き込む。黄色の愛らしい大小の車輪の上には、山ほどのトウモロコシの粒が炒られて、元気に破裂したポップコーンへと変化している。

「おや。こんにちは、ミッキー」

「こんにちは!」

「食べたいの?」

「うん、でもまずはよく見たいんだ。凄いなあ、君は不思議な魔法が使えるんだね」

 キャストは、弾けるように笑って、熱く熱されているポップコーンが掻き回される様子を見せた。

 様々な色が移り変わっていった。琥珀色、ナッツ色、針金色、アカシア色、糖蜜色、チーズ色、鼈甲色、生牡蠣色。二十世紀の世界恐慌の中でもさして値段が吊りあがらず、庶民の味方として映画館に広まったその安価な菓子は、まるで、この世の素晴らしいもののすべてが、このワゴンの黄色い宝石となって、何度も何度も掻き回されるようであった。スコットは、大きなバケットをひとつ買い与え、昂りを抑え切れないミッキーを連れて、プラザ・ガーデンへと連れてゆく。そこでは遮るものもなく、シンデレラ城との間に広がる円形のプラザを見渡せ、迷宮のような花壇をこさえた庭園には、無数のコスモスが揺れていた。丈の長いその花は、僅かな風にも震えるように躍り、壮大な秋空の底に、とりどりの濃淡を散らしたピンクを揺らめかせるのだった。花から花へと移るテナガバチの翅の振動が柔らかに聞こえる中、ミッキーの溜め息も、花の震えも、まばゆさの果てに消えてしまいそうだった。大気は膨大な風に満たされ、対流圏を漂う筋雲はゆっくりと、その流れに身を委ねている。

「いやあ、平和一色だなー。この世のすべての平和がここにあるわ」

 ぱり、と勝手にミッキーのバケットからポップコーンを横取りしつつ、デイビスさえもが心を奪われたように、膨大なコスモスのたゆたいを見つめながら呟く。

「ディズニーランドって、いい国でしょう?」

「ああ。まだ入り口しかウロウロしてねえけど、面白いものわんさかあるじゃん」

「ここは、ウォルトの創った国だからね」

「なあ、今まで流していたんだけど、ウォルトって誰だ?」

「知らないのかい?」

 意外そうにミッキーは目を見開き、プラザ・ガーデンの中央に立つそれを指差して、

「ウォルトは、僕の一番の親友だよ。遠い昔に亡くなってしまったけれど、今も心の中に生き続けてる。ほら、これが彼だよ」

 そう言われて、初めて気づいたかのように、デイビスは目の前の銅像を見つめた。嬉しそうに顔を輝かせたミッキーと手を繋ぐ、オールバックの紳士——実に無邪気さに溢れた笑みを浮かべながら、ワールドバザールの方面へと手を伸ばしている。特徴といえば口髭程度しかないのに、妙にその整った顔は印象に残るのだった。

「ほえー、この人かあ、ちょび髭が生えてら。ハンサムなオッサンだな」

「でしょう?」

 まるで自分が褒められたかのように、ミッキーは得意げに鼻をヒクつかせた。

「ウォルトとも、よくこうやって遊んだんだよ。僕たちはいつも一緒で——」

 ミッキーは、とんとん、と手元のバケットを叩き、ポップコーンの偏りを均しながら、なんてことのないように囁いた。

「僕と彼は、かけがえのない友達だったんだ」

 デイビスは、ミッキーの黒い瞳をじっと見つめていたが、やがて手を伸ばして、その頭を一度だけ撫でた。

「そうか。そんじゃ今日は、ここに来られて、よかったなあ」

「うん!」

 笑顔を交わし合う二人の横で、スコットは腕を組んだまま、眩しそうに、その銅像を振り仰いでいた。実際、太陽は昇りつつあり、空が燦然と眩しかった。その時、ミッキーはぴくりと耳を動かして、アドベンチャーランドの方角を振り返る。

「音楽が聞こえるぞ!」

「こ、こら。突然走んなよ!」

 ミッキーのドタ靴が鳴らす音に紛れて、鮮やかなピアノの音色が、空の下に流れてきた。それらは、ここにくる者ならば誰もが知っているメドレーで、まさしくはずむように演じつつ、小鳥のように小刻みに顔を揺り動かして——通行人にちょっかいを出しながら、ほとんど鍵盤を見る必要もなくめまぐるしい演奏をするピアニストを、聴衆たちは笑いをこぼしながらついてゆく。まるで雛たちを先導する親鳥のよう、緩やかにペダルを漕ぎながら、青空の下の石畳を、暖かい、くっきりとした影が落ちていった。

「ミッキー!」

 三輪車のついた、真っ白なピアノを掻き鳴らすピアニストは、被っていたカンカン帽を高らかに振って、彼に挨拶した。人生全体から響くように明るい声だった。ミッキーも大きく手を振り返すと、遠い道のりを、懸命に駆けてゆく。バイシクルピアノを囲んでいたゲストたちは、思わぬ主役の登場に、口々に感嘆の声をあげ、慌ててカメラを取り出した。

「ミッキー、スペシャル・ゲスト! リクエストはー?」

「もっちろん、『Sing sing sing』さ!」

「Okay, now you're singing with a swing!」

 薄いぴったりとした手袋を纏う指が翻ると、次のフレーズから、曲が変わる。その手の下から、魔法が溢れ出てくるよう——しかしそれが運んでくるのは、人々をねじ伏せるような偉大さではなく、陽だまりの粒の如くまぶしく溢れ、子どもの頬をも綻ばせるような笑いであった。

「さあ、みんな、手拍子だ! Ha-ha!」

 ミッキーが声をかけると、周囲の手を叩く様子がひたむきになる。充分に熱気が高まってきたところで、彼はポップコーン・バケットをデイビスの手に預け、人だかりの前へ躍り出ると、素早く、Big Band Beatのダンスを披露し始めた。誘いかけるような手つきが重く粘るかと思えば、目にも止まらぬ足さばきでタップを踏み、腰はのけぞるほどの角度を描く。その黒々と光る鼻や瞳に、次々と観衆の驚いた顔が映り込んでゆく。デイビスもスコットも、覚えず目を見張った。色香すら漂うそのダンスは、彼の独擅場とも言うべきパフォーマンスで、ピアノにも大いに派手なスウィングが加わる。時々、ミッキーは大きく腕をあげると、手拍子だけで盛りあげて、ピアニストを引き立てた。それに応えるように、演奏者の身振りも音量も大きくなり、その笑顔には太陽のような輝きが増した。

「みんな、最高だよ! なんて素敵なんだ!」

 青空のさなかをピアノが流れ、あらゆる看板が誇りかに店名を掲げ、ブレッドや、シナモンの匂いが鼻腔をかすめた。芝生と朝露の匂いが、世界の若さを掻き乱した。花が揺れていた。魂を失いそうなほど高くへ溜まった蒼穹に、紺碧をとどめて、天頂が落ちてきていた。幾らかは雲によって陰り、天上からの眠たい黄金をさしとどめていた。その下で、ピアニストは奏で続け、ミッキーは踊り続ける。競うように、誰よりも楽しそうに。旋律は爽やかな秋風に乗って、周囲に設けられたテラス席のパラソルを、鳥の翼の如く揺らしてゆく。

「どうもありがとう! また会おうねー!」

 曲の最後に綺麗にお辞儀し、両手で手を振ると、少し顔を赤らめて人だかりから出てゆく。その後も、バイシクルピアノは新しいジャズのナンバーで聴衆たちを魅了し続けていた。

「すげーじゃん、ミッキー! お前、ダンスめちゃくちゃ上手かったんだなあ」

 デイビスは拍手で迎え入れると、ふたたび、ポップコーン・バケットの紐をミッキーの首にかけてやった。彼は息を切らしながら、目を活力に煌めかせて問う。

「よかったかい?」

「ああ、ゲストたち、大盛りあがりだったじゃん。そりゃ、ミニーもお前に惚れるわ」

 それを聞くと、ミッキーは満面の笑みを浮かべて、嬉しそうにデイビスの背中に抱きついた。

「ははっ、なんだよー?」

 ミッキーは鼻を擦りつけ、他に何も言わなかったが、デイビスには彼の伝えたいことが分かっていた。両脇に手を差し入れ、ひょいと肩に担ぎあげると、ポップコーンと一緒にコーラでも飲むか、せっかくだしなー、と話しかけて笑った。

 薄闇に包み込まれるメインストリート・シネマで、憧れだったらしいポップコーンを片手に、かつての自分の出演作をじっと見守るミッキー。フィルムの回る音ともに映写されるのは、思い出にあふれた映画だった。まだ、アニメーションはおろか、実写でさえサイレントが主流だった時代——そんな中、『ジャズ・シンガー』というトーキー映画に大いに触発されたウォルトが、『蒸気船ウィリー』をトーキー用に撮り直して公開することによって、世界で初めて、サウンドトラック形式のアニメーション映画が誕生したのである。

 文字通り部屋の複数箇所で同時上映されている、六つの短編映画を観ている間、ミッキーは目尻いっぱいに、涙を溜めていた。あの頃、まだアメリカの大衆は貧しく、同時にアメリカン・ドリームを胸に燃やし、素晴らしく豊かな心を持っていた——周囲の音楽に配慮されたそこは、声も音もない、白黒の世界。けれども、あの当時に吹き込まれた音楽や声が、今も鮮やかに耳に蘇るようである。それは、薄暗いこの部屋のスクリーンに映し出され、その光の彼方に、現実とは別のイマジネーションを生み落とす。


(こんなに素敵な世界で。どうして僕は、魔法が使えないんだろう)


 観ているうちに、喘ぐように、その意識が胸に迫る。この完璧な一日に、ただひとつ影を差すもの。それは、自分が無力である、という事実のみだった。

 スコットに手を引かれながら映画館を出て、さあ、次はどこに行こう、とマップを広げた時、蛇が空気を漏らすような音とともに、遠くからおぞましい高笑いが轟いてきた。群衆たちは何気なく足を止め、その声の方向——シンデレラ城を振り返った。



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