見出し画像

TDL二次創作「A twinkle of Mouse」3.The Disney Villains

 ————その、平和な秋の日。果たして、最初に変化に気づいたのは、誰だったのだろうか。

 始まりはたちの悪い冗談のようなもので、まずもってそれが深刻なことを指し示していると、そう理解するには時間が要った。理解した瞬間には、もう遅かった。抜け出せない檻の中で、虜囚たちは、自らが完全に幽閉されたことを思い知るのである。

 それは、日の下で聞いたのであれば、物語にはつきものの、安っぽい悪役の台詞にすぎないのかもしれない。

 だがしかし、もしも闇夜のさなか、その一言一言が真実味を持って響いていたならば?
 その言葉によって、正義は折れ、砂上の楼閣となったことを悟ったのならば?

 まるで、その仮定を実現化させることで確かめるかのように——シンデレラ城の時計の長針が、きっかり、十二を指し示した、まさにその時。
 美しい挿絵が描かれたページはめくれ、おとぎ話はおしまい。果たして、乱丁が紛れ込んでしまったような唐突さで——物語は動き出す。

 蒼穹が不意に陰り、人々はふと、空を見あげた。樹々の枝のしなりは、爽やかな音を、どこか不吉に変えて。鳩たちは地面を飛び立ち、別の土地へと逃げ出してゆく。

 そして、まさしく図ったかの如きタイミングで————





《イーッハハハはははハハハははあはアッはあハハハあははッアハハははハハハッッッ!!》




 ————壊れたような高笑いとともに、王国の孤城は、地獄の象徴へ。
 国中に響き渡るその笑い声は、呪いよりも遙かに強烈な感情を、どす黒い漏斗から滴らせる。

 宙にちらちらと燐火を噴きあげる波が漂ったかと思うと、見る間に漆黒の光を呼び寄せられ、頭上には超自然的な速度で暗雲が垂れ込めて、颶風によって渦巻き始めるそれにより、瞬く間に太陽が失われてゆく。闇はあまりに濃密で、世界は時計に背を向け、完全なる夜へ。その瘴気を操る中心は、紛れもない、天へ高々と突き抜ける城そのものである。そのバルコニーは本来、王と最上位の賓客のみが立つことを許され、通常は開放されるはずもない。

 しかし、今や何者かが、巨大な人影を落とし、その靴で手すりを踏み躙って、舌舐めずりをしながら佇んでいる。そのあまりの禍々しさに、高笑いの出所を振り返った者は誰でも、すっ——と、背筋が凍りつくのを感じた。

 その虚像は城と対面すれば、僅か数十分の一、いや、数百分の一に満たないにもかかわらず、禍々しく横溢する魔力のせいで、恐ろしく膨れあがり、なぜか数十倍もの大きさに迫りくるように見える。あかあかと照る、強烈な黒い閃光の中で、凶風にさんざめく火花がちらつく——全身が黒炎のような男が、そこに佇んでいた。漆黒の闇を織り込んだ悠然たるローブに、地面まで垂れ落ちるマントを身に纏い、血に濡れたような羽飾りがはためく下、頭巾クーフィーヤに埋め込まれたルビーは、さらなる無気味な艶を増している。肢体は蛇のように痩せこけていて、残忍な鋭い眼に、陰湿さを感じる細面、ねじ曲がった顎髭。その頭のてっぺんから爪先までもが、神秘的に黒々とかがやき、暗い深紅の瞬きを撒き散らして、めらめらと燃え盛る炎の悲鳴が聞こえるかのよう。そして、その絶大な魔力の及ぶ範囲は、彼が姿を現した瞬間から——見る間に城全体へと広がっていった。

 マントをひるがえし続ける男の手で、いともたやすく、シンデレラ城が暗黒の砦へと様変わりしてゆく。その美しい白の煉瓦からは、みるみる黒い悪意が染み出して、黴や墨よりも早く城を征服し、その青い屋根は、一転して暗褐色の赤へ。男のぎらつく瞳の邪悪さは、留まるところを知らなかった。滴る血よりも濃密に、煮え滾る硫酸よりも毒々しく——赤々と燃える双眸は、そのいやらしい指が握り締める、魔法によって呼び出された、コブラを模した赤銅の杖と同じ。鋭い牙から猛毒を注ぎ込む金属製の蛇は、宝石を嵌められたその眼から、闇の中で何よりも赤い光を放ちつつ、爛々と照り輝かせているのである。

《これはこれは、東京ディズニーランドのゲスト諸君、"我々の"誇る王国へようこそ。そして、哀しいかな、たった今——諸君らのこの後のすべての予定が、変更になったようだ》

 嬉しさ。期待。喜び。興奮。
 王国を彩っていたそれらすべての感情に毒が蒔かれ、根本的に意味合いが捻じ曲がる。それまで踊るような音楽を流していたスピーカーは、耳障りな短調へとひしゃげられ、世にも奇怪な、男の勿体ぶった声を反響させた。

 そして————

 激しい勢いで腕を振るい、マントを払い退け、クーフィーヤを不吉な夜の風にはためかせながら、男は恍惚と宣言した。聴衆の髄に絶望が染み込み、ゆくりなく理解が広がってゆくのを愉しむかのように。

《我こそはジャファー! プリンス・アリ——そうだ、奴のことはもちろん諸君らも知っておろうなあ。しかし誠に残念ながら、たった今、儂がこの世で最強の存在になった。世界一強力な魔術師だぞ! 魔法の光など、儂の前では闇を露わにするだけにすぎぬ! ああ、そして諸君らは、きっとお目にかかるだろうよ——儂がどれほど、蛇の如くなれるかをな——!》

 深く、低く、葡萄酒のような呪詛を吹きつけられ——人々はその異様な光景に目を見張り、呆然とした。それは地獄の幕開けとなるにはあまりに軽薄な、身の毛のよだつような口上。おかしくて堪らないよう、痩せこけた男の、死にそうなほどに愉悦に彩られた声が、この王国の饗宴サバトの幕を開ける。徐々に満ちてゆくのは、常軌を逸した天空の暗さ。しかし、たかが光のないだけで、ここまで世界は闇黒に塗り込められてゆくものなのだろうか?

 否。
 それは、ヴィランズだけができる所業だった。
 パレードではなく、ショーでもない。
 本物の悪の象徴が、今まさに、城の新しい支配者として、王国の中心に君臨していることを、その場にいる全員が悟ったのだった。

《城は我が手に落ちた。今日から儂が主人だ。この国の支配者なのだ! 新しい王に跪くのが嫌なら——魔法の前に跪かせてやるわ!》

 その言葉が叫ばれるや否や、群衆らは、突然、足首にじんと痺れを感じ、崩れ落ちるように次々と膝をついた。その数——ゲストだけでも、五万二千八十七人。その甚大な魔力を遣って、その気になれば、腕を振るうだけで、全員の首を刎ね飛ばすことも可能だっただろう。しかし彼はそれを望むことはなかった。自由を奪われても、なおも逃げようと足掻き続ける——その惨めな姿を、人間とも思っていないのだろう。それらは、ただの「玩具」。高所から見物し、嘲笑を響かせ。惑乱した闇夜の使者たちは、暴れ狂うように主の周囲を羽ばたいている。

 かつて、サディズムの語源ともなったフランス十八世紀の貴族、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵は、著書の中で、このような言葉を書き残している。

 ——太陽を攻撃して、宇宙から太陽を奪って世界を暗闇にしたらどんなに愉快でしょうか。太陽を手に入れて世界を燃やしたらどんなに愉快でしょうか。馬鹿気たことですが、何十回もそんなことを想像したことがあるんですよ。それが本当の悪事というものでしょう——

 ここに横たわるのは、その哲理に平伏する、根本的な人の悪意。
 利益の追求ではなく、興味関心でも、あるいは単に冷血なのでもない。

 ただ——絶望への、途方もなくどす黒い欲望。そのためになら、世界を転覆しても構わないという、とびっきり甘美な、とびっきり純粋な、愉快で愉快でたまらない、その残忍な《貪欲さ》。

 一切の足掻きさえも無意味であると知らしめ、腹を抱えて甲高い笑いをあげる男。しかし突然、その氷の如き眼で王国中の人間を脅かすなり、優雅ともいえる気品のある素振りで、一本一本の指を閉じながら、震えるほどに強く拳を握り締める。

《星の瞬き、星の輝きだと? 我らがこの光を奪い、夜の闇へと変えてやろう——!》

 迅雷の如く腕を振り下ろすと、凄まじい爆裂音とともに稲妻が夜闇を切り裂き、城中から蠍の如く目を灼くばかりの火柱が噴きあがった。何千という火花が熱の雨となって降りそそぐ様は、さながら地獄の流星のよう、城の周囲の樹々が次々に焦げつき、葉は見る間に焼け落ちたかと思うと、焰に煮られて、断末魔をあげる暇もなく縮んでいった。瞬く間に、キャッスル・フォア・コートは炎熱地獄へ。耳を聾する高笑いとともに、火傷するほどに跳ね上がった気温と、鼓膜を炙る姦しいまでの膨大な燃焼音——そこへ一瞬のうちに稲妻が轟くと、その激しく瞬く閃光に、尊大な威厳に溢れた悪党が照らし出される。果たして、どこからが現実で、どこからが悪夢なのだろうか? 業火は闇の底を舐め取り、燎原に放たれたかの如く広がって。惨たらしい火の手は、金粉を撒いたように暴れながら、化け物じみた温度で人々に追い迫る。熱風の中で息をするだけで、たちまち宙に蒸発してゆく。舞い散る火の粉の彼方では、すべての業を見透かして依然として光らせ続ける、あの物凄まじい眼。数度、釜をかき混ぜるように毒蛇の杖を揺さぶれば、さらなる雷が、マグネシウムのような閃光とともに轟音を叩き落とした。

 そして、荒れ狂う魔力が頂点まで高まった時、熱風にマントを煽られるその男が、突如、蝙蝠の如く両手を交差させたかと思うと、凄まじく噴きあがる煙の中へ沈んでゆきながら、その漲り溢れる闇の魔力により、全身を変貌させてゆく。燻る炎は、妖しい赤から紫へ。降臨するのは、邪悪の権化。城の背後から、鋭く魔眼が爛々と輝いた一瞬のちに、その全身が陥没し、グロテスクに膨張していった。細胞壁が潰れ、筋肉が引き千切られ、血液は逆流する。それらすべてを起爆剤として、原型を留めぬ挽肉が、自らの肉体を創造し直す。肉腫、いや、癌、それ以上のおぞましい細胞の変貌。人間から、異形へ。化物へ。人外へ。もはや発狂してしまったのだろうか、そのような怪奇現象のさなかでも、破滅的な高笑いの響きは止まらない。みるみるうちに、光沢を放つ肉の奥底から、一斉に細波を立てながら生え揃う鱗は、まるでその全身に、何百万もの蟻をびっしりと磔にしたかのよう——あまりに滅茶苦茶、悪趣味、醜怪。吐き気を催すに余りある一方で、バルコニーからもんどり打つように流れ落ち、生々しい艶を放つその太い胴体は、確かに、どくり、どくり、と心臓そのもののように禍々しく脈打っている。

 それは———一尾の、毒蛇コブラだった。

 しかし通常の蛇であれば、これほどまでに醜く、呪わしく、巨大なはずがない。何もかもが規格外だった。その長さは、優にシンデレラ城の塔を超え、八十メートルはあろう。まるで城に取り憑いて絞め殺すかの如く、胴体を城壁に這わせながら、小刻みに、毒牙の狭間から二股の舌を出し入れしている仕草すら、いやらしい威光に満ちているかに思われる。

 ここにきて群集らは、ようやく事態を理解する。そして同時に、その湧きあがる考えに慄然とした。


 ————東京ディズニーランドの城は落ちた。夢の魔法が、悪夢に負けた。王国の支配者は、今やヴィランズへと移り変わったのだと。


 自分たちはもう逃げられない。この巨大な毒蛇の、哀れな獲物になるしかない。

 凄まじい重圧を浴び続けて、完膚なきまでにへし折られた自尊心が、容易に水面に上がってくることはなく。後は自分の尊厳を投げ出して、いかに命乞いをするかということ、それだけ。抵抗する気など、起きるはずがない。どうすれば、蜂が象に対抗できるなどと思うのだ?

 要するにこれは、
 逆らってはいけない、


 ———————闇の王者・・なのだ。


 本能に、そう叩き込まれる。
 震える足は、骨のないように、ひたすらに蒼白。支配するのは、無力。このように血の気が引くくらいなら、一刻も早く亡骸にでもなった方が、まだ幾万倍もましであろうか。

 そして、シンデレラ城が妖しく発光すると、突如として、空中に凄まじい紫電が楕円を描くように走り、じりじりと強烈なプラズマの放つ音が、蛇の彫刻を拵えた、巨大な鏡の額縁をかたどり始めた。コブラはゆるりと胴を滑らせて這うと、いやらしく鎌首をもたげ、しゅうしゅうと空気の摩擦音を漏らしながら、その鏡面を守護するように立ちはだかる。

 毒沼にも似た高笑いの立ち込める中、ヴン——とすべての照明が消え去り、一斉に恐怖と混乱の声が湧き起こる。それまで顔を痙攣らせていた幾万の供儀たちの顔は、もはや絶望に取って代わられ、あまりに呆気なく深淵へと叩き落とされる。そして、一人が逃げ——それが咎められないのを知ると、弾かれたように、躓きながら走り出す。何万人もの群衆が詰め寄る、出口へと。


 ————ここからが、凄惨なディナーの始まり。まもなく、彼らは強者の玩具として、跡形もなく貪り尽くされる。





「デイビス、来い!」

 乱暴にミッキーを抱きかかえながら、スコットは大声で叫んだ。悲鳴、苦痛の呻き、呼び声、怒号、嗚咽、祈り、そして慟哭。ゲスト全員に汗の玉が浮かび、王国の出口へと向かって走り出している。肩に担ぎあげられたミッキーから、あっ、と小さな声が漏れた。それまで大切に抱き締めていたバケットが、指をすり抜けて地面に叩きつけられると、その甘いポップコーンが大量にぶちまけられ、多くのゲストたちの靴で踏みにじられていった。目を潤ませるミッキー、反応を待ち続けるスコット。しかしその間も、デイビスの返事はない。

 スコットは、皿の上に載せられた羊のように、がくがく——と慄いたままでいるデイビスの襟を掴むと、引きずり倒すようにして、ワールドバザールの建物に背中を叩きつけ、群衆たちの悲鳴に掻き消されないように怒鳴る。

「馬鹿、震えている場合か!? こんなところで怖気づくな、人混みに踏み潰されたいのか!」

「す、スコット——」

「気をしっかり保て! 俺たちは、ポート・ディスカバリーに帰らねばならないんだろ!」

 ポート・ディスカバリー。
 その故郷の名を聞いて、僅かだが、デイビスの眼にふっ——と、意思が戻ってくる。スコットはそれを認めながら、素早く言下に囁いた。

「ぼんやり傍観していたいならしていろ。だが、お前の故郷でやれ。ここじゃない、お前の生きてきた土地でやれ」

「……分かっ、た……」

 脅えに満たされながらも、虚ろな瞳に、理性の光が宿ってくる。その様子を見てとって、脂汗を滲ませたままのスコットが、唇を歪め、ちいさく微笑した。

「ミッキー、あの蛇はなんだ? まさか、お前の幼馴染みなんてことはないよな?」

 ようやく、肩に担いでいた彼を地面に下ろすと、スコットは囁くような声で確認する。少しも面白くはなかったが、スコットなりの下手なジョーク——だったらしい。ミッキーは震えながら、目の前のスコットを見あげた。

「……彼のことは、知っているよ。でも、どうして——? 僕、分からないよ!」

 茫然自失として呟くミッキー。その瞬間、破れるような雷鳴が轟いた。気の狂ったかの如く叩きつけられる哄笑を背にして——微かにその丸い耳を夜風に揺らしつつ、彼は蒼白になって、スコットの相貌を見つめながら訴えた。

「確かにシンデレラ城の地下は、昔、ヴィランズたちが巣食って根城にしていたんだ。でも彼らは、光の勇者が撃退して——何年も前に、封印されたはずなんだよ!」

「封印?」

「光の剣を使って、ブラック・コルドロンの中に封じ込めたんだ。けれども、それ以来——あの城の守りが破られたことなんて一度も——」

 ざわざわと不吉な風に蝕まれて、先刻までの朝の清々しさはもはや微塵もなく。三人が確信したことは、ただひとつ。

 あまりに呆気なく、あまりにたやすく。禁は破られた。
 なぜなら、その場所を守護していたのは、千の軍隊ではなく、たったひとりの王による——"魔法"だったのだから。

 彼らの沈黙、そして周囲の阿鼻叫喚の上から、雷鳴をともなって、凄まじい女の哄笑が貫いた。その王国にいた群衆全員が、慄然として歯を鳴らす。悪夢。そう形容するのが正しかった。思考が真っ白に染まり、恐怖、それ以外に何が湧くこともなく。

《ああ、このあたしが光を奪って、夜の海へと変えてやるともさ。あたしゃ真っ暗な海が好きでねえ! 哀れな、惨めな魂たち! 同情しちゃうねえ、だけどこれが真実さ。かわいそうな魂たちよ——いよいよこのアースラ様が、行動を起こす時が来たようだねえ!》

 次いで、無気味な霧の中から、詠うような呪いが鼓膜に囁かれる。
 悪魔の化身。そうとしか言い表しようのない、艶やかな竜胆色の肌をぬめらせる女が、鏡の中から緩慢に這い出してきた。ただの生き物ではありえないほどの巨躯。眩暈のするような存在感が、どくり、どくり、と血液を冷たく鼓動させ——眼差しの先で、彼女はその真っ白な髪を逆撫でながら、口元のホクロを歪ませてにんまりと笑む。

《海の力はあたしのものさ。ありとあらゆる波が、あたしの思いのままだよ! さあ、お別れを言いな——輝かしい、真実の愛とやらにねえ!》

 瞬間、激しい稲妻が、大音響をともなって天空を叩き割る。凄まじい風が唸り響く様は、まるで難破船のマストに、嵐が吹きつけるかのようであった。その悲痛な声が響き渡るのとは裏腹に、どこからか、優雅な円舞曲の旋律が流れてくる。桑の実色に渦巻く不吉な夜空の下で、ヴァイオリンは襤褸の如く震え出し、オーボエは重厚な艶で誘い、ピアノは悲壮な旋律を絡ませた。運命が、そのうちで踊っていた。木の葉のように舞い、人々の魂を弄びながら、それは擦れるような呻きを立て、人間たちの愚かさを嘲笑うのである。

《そうそう、ワクワクしてきたよ。さあ——始めよう!》

 身震いとともに、王国を取り巻く凄絶な緑の炎が、うねるようにその力を増してゆく。深海から絡みつき、光ひとつない闇へと溺れさせる海藻の如く————

 地獄の焰の中、影としてちらちら踊るのは、灼けつく炎に炙られ、死ぬまでもがき続ける骸たち。哀れな契約者。彼らは凄まじい炎熱に喚き狂い、ひと時も休むことを許されない。

 ゆっくりと振り返り、眼差しが投げられる。

 ぞっ、と。

 射竦められた獲物たちは、末路を定められたかのように魂を硬直させる。不運にも生贄に選ばれた者たちの脳裏を、ありとあらゆる負の可能性がよぎり——まるで鑢で削られるように、希望が、自らの手で擦り減らされてゆく。

《さあて——》

と舌舐めずりするように、その低くも嗄れたアルトを、深海を這い回るヌタウナギのように濡らして、ワルツの拍に合わせてゆったりと体をめぐらせながら、そのぬめつく八本の触手を、下劣にうごめかせた。

《昔は嫌な女だった——魔女と呼ばれて当然。

 ベルーガ、セブルーガ、アースラにお任せを。ぴーったりな呪文だよ。ちっぽけな鼠の夢を消し去る——そう——永遠にねえ!》

 光沢を滑らせる肢体の中で、唯一、赤く紅く——血のように赫く塗りたくられた毒々しい口紅が、唾液で濡れてぬらぬらと光るその唇を、妖しい笑みの形に吊りあげてゆく。そしてその笑いを継ぐ、新たに嗄れた声が、反響していった。

《お前たちの墓場に相応しいのは、茨の森だよ。運命の霧に乗って、空を翔けるがいい! さあ、呪いをかけよ、我が悲願を叶えてみせよ! この呪文を携えて、闇を突き抜けるのだ!》

 哀しいまでに低い雷鳴が大気を震わせ、光と影が交錯する中、その声だけが、異次元のように揺らめいている。㷀然と佇む彼女の周囲へ——城の煉瓦の隙間から、ざわざわと茨が不吉に育ってゆく。その這い回る蔓を見下ろしながら、裾野を切り裂かれた黒紫のマントは、激しく躍り狂っていた。毒蛇や蛸と比べれば、遙かにその細身は小さく、通常の人間と同じほどである。しかし、冷酷な気配は、彼らを容易に凌駕し、圧倒的な魔力の格差を露わにしているのだった。そして王国中を、みるみるうちに、妖しい夜の匂いが満ち渡ってゆく。狼の遠吠えとともに、鬱蒼とした薔薇の花びらがしきりに舞い、多くの蜚蠊や蜘蛛、蜥蜴が逃げ出してゆく。それらは、遙か彼方の城までの距離を、鮮やかな血の如き赤で覆い尽くすかに見える。

《馬鹿め! 愚かな! 何という痴れ者だよ! お前たちの光が、すべての悪の頂点に立つこの主を倒せると思っているのかい? すぐにお前たちは、闇の力を思い知ることになるだろうさ!》

 かくも熾烈な声を響かせ、シンデレラ城の塔の最上階に姿を現したのは、まるで蝙蝠とも見紛う不気味な女——その頭部からは黒山羊のように捻れた二本の角が突き出て、鋭い目つきは、黄金の瞳を輝かせている。溢れ出る高貴さは、却って彼女の凄烈な魔力を強調し、それすらも自分自身を高める装飾具とするかのよう。例えるなら、妖しい、一本の黒薔薇。そしてその棘は、血を浴びることを夢見るように、触れる者を容赦なく引き裂くであろう。

《愚か者め。今度は私と、私のイマジネーションが相手だ——!》

 宙に叩きつけられるヒステリックな笑い声は、颶風に煽られて悲劇的な予兆を帯び、火を吹き消されるのを待つ、蠟燭の如き人々の生を、冷笑するかのように聞こえてきた。雷鳴に抗うその声は、薔薇の死骸をさらう風と混ざりながら、彼女がひとたび何かを発するなり、果てもなく延びてゆき、永久に終わることのない木霊を生みだし続ける。

 運命は糸車のように変転し、行き先を紡ぐのは支配者たちの手。薔薇は揺れる。人を嘲笑うかのようなカラスの声が鳴き喚き、凄まじい息吹が王国の底を攫った。みるみるうちに、舞い散る薔薇の花びらが萎びていったかと思うと、そのどす黒い花吹雪とは反対に、皓々と月明かりを浴びるその女は、凶悪なまでの威厳を横溢させていた。

《夢の深淵から汝に命じよう、永遠の夜が如何なるものか、教えておやり。白雪姫と、その一味め——漆黒の夜が、苦痛に満ちた終わりを告げるであろう。光もなく、太陽もない、あらゆる者たちに、この私が暗黒をもたらしてやるのだ!》

 舞い散る薔薇よりももっと濃密たる唇が語る。喪服にも似た黒紫のローブを身に纏い、闇に映えるエリザベス・カラー、燦然と輝く王冠の下、ぞっとするほど整った顔立ちを薄明かりに照らし出しながら——いつのまにか、魔法の鏡の前に佇んでいた女王は、冷艶な身振りで、その気魄に満ちた声を荒げる。誰も彼もが跪くであろう、彼女の絶世の美しさではなく、氷のような残酷さに。例え自身の美を極限まで高めるためならば、あの伝説の殺人鬼、バートリ・エルジェーベトの如く、棘だらけの鉄籠に処女たちを閉じ込め、腹わたを引きずり、雨霰と滴る生き血をも湯浴みとして浸かりかねない。

 雷光とともに、荘厳な鐘の音が鳴り響く。まるで喪を告げる弔鐘のよう、怖気の振るうハゲワシの声が飛び交い、先ほどまでもたらされていた熱気は、もはや跡形もなく消え去って、ただただ、地下牢を吹きさらうような、凍てつくほどに鋭利な夜風が、世界を領していた。その悠然たる衣服から、絶え間なく黒い輝きを撒き散らしつつ、陶器の肌、生命を感じさせない頬、そして流れ落ちる血よりも真っ赤な唇でもって、彼女は命令を告げる。

《魔法の鏡の中の奴隷よ、来たれ、遙かから出てまいれ! 風と闇の彼方より、汝に命じる。語れ! そのかんばせを露わにするのだ!》

 命令を受けて、一瞬のうちに、巨大な鏡面に緑の焰が揺らめくと、底冷えのする霧の中から、首のない、無気味な仮面が浮かびあがってくる。

《鏡よ鏡、世界で一番美しい者は誰だい?》

《今宵は一人の愛らしい娘が見えます。姫君——なんと美しい——白雪姫——》

白雪姫Snow white!》

 狂気が嫉妬を渦巻かせる。それはまるで、冷たい地下へと導いてゆく無限の階段だった。一歩一歩、めぐるように堕ちてゆきながら、逸る心臓を携える彼女の足取りを、無数の蠟燭が照らし出す。徐々にそれは死の匂いを増してきて、あらゆる冷たい吐息を、その無機質の光に刻みつけるかのようである。重厚な鐘は鳴り止まない。一打響き渡るごとに、奥歯が凍り、霊魂が粉々にひび割れてゆく。地下牢に閉じ込められたあらゆる亡者が、吹き荒れる風に哀哭をあげ、苦痛からの解放を求めていた。しかし女王の耳に、それらの呻きが届くことはない、取り憑かれたように鏡の声に聴き入るほかは、いかなる物の音も響かない。鐘も、風も、死者の呻きも、彼女には露ほどの意味も持たなかった。比類なき怒りを露わにした女は、ただただ、ローブを翻しながら、その身の毛のよだつ激情を夜に駆けめぐらせる。

 今宵、無気味に鳴り響く鐘の音は、雷光の如き激昂によって決された、哀れな人間の運命を告げるであろう。女王の美しさは、黒水晶の粒をちりばめたかのよう、肌は陶器、唇は鮮血、そして頬は死人の色。それは生きる者たちでは遙かに及ばない、氷の美しさである。彼女が佇むだけで、冬の風が吹きすさび、闇夜はいっそう無明の濃さを増すであろう。どんな者も、この孤高の女王を畏れずにはいられない。悪意の断崖へ近づくたび、ますます、その怨恨に駆られた美しさは、怖ろしい領域へと達してゆくのだった。

 鏡の中の奴隷は語る。無気味な声を、霧の奥から朗々と響かせて。

《彼の夢を壊す力は————》

《————すでにこの手の中にある!》

 その続きを耳障りな吐息で継いだのは、今にも倒れそうな老婆の声だった。おぞましい、蝙蝠の鳴き喚くように甲高いそれが、干からびた舌に呪いを乗せる。

《見よ、我らはチェルナボーグの使徒、闇の炎の守り人なり。我らに逆らう者は覚悟せよ。邪悪なる力は、我々のものなのだ——!》





 鋭く頬を吹き嬲る風は、人々の衣を襤褸布の如く煽り、びょうびょうと荒れ狂う音は、あたかも嵐の海のようであった。暗澹と佇む遠い孤城に、凄まじい稲光が映り込み、世界の光と翳が反転する中、ミッキーは顔を引き締めると、シンデレラ城へと続く道のりを、一歩踏み出した。

「おい、どこに行く気だよ、ミッキー! お前は今、魔法も使えないんだろ!? なのにあいつらに対抗するなんて、無理だよ! 逆らったら、どんなことをされるか——」

 慌てて、デイビスは手を伸ばしたが、その指がミッキーの腕を掴む前に、

「分かっているよ!」

と悲痛な叫び声が、アーケード中に響き渡る。その気魄に、覚えず気圧されるデイビス。彼の瞳は、燃えあがるように鬼気迫る使命感に彩られていた。

「でも、行かなくちゃならないんだ。悪に立ち向かうのは、僕の役目なんだよ! ここで逃げたら、僕のような臆病者のことなんか、誰も許してはくれないんだ!」

 悪夢と化したシンデレラ城を背景として、悲痛に顔を強張らせたミッキーは、いつもの明るさは見る影もなく、追い詰められた者としての切迫感にのみ、覆い尽くされていた。ヴィランズからは殺意を叩きつけられ、ゲストからは救いを期待され——それがどこにも逃げ道のない、王者たる彼の責務。そして、嘆きすら見せることの許されない監獄だった。

 スコットは、しばらく歯痒そうに、己の鋭い目を眇めていたが、やがて小さく首を振って、奥深い微笑を作った。

「分かった、それなら私たちも行こう。誰かと一緒なら、怖くないだろう?」

 ミッキーは驚いたように顔をあげた。その低い目線に合わせるようにしゃがみ込むと、彼の黒く幼い頭を、手を伸ばしてそっと撫でる。

「大丈夫、こんな奴ら、私たちが力を合わせれば、けして敵わないはずがないんだ。分かるよな?」

「ぼ、僕は、この国の王様なんだ。君たちを巻き添えにするわけには——」

「そうじゃないだろう?」

 スコットは真っ直ぐにミッキーの目を覗き込み、大きく震える手を握り締めてやった。すると、それまでひたすらに恐怖を押し込め、虚勢を張らなければならなかったミッキーの目から、すう、と光り輝く雫が滑り落ちていった。

「大丈夫だ。言ってみろ」

「だ……だい、だいじょう、ぶ——」

「そうだ、大丈夫なんだ。いつでも隣には味方がいる。怖くない。こんなのは、みんなが一緒についていれば、必ず勝てる」

 鍛えあげられた腕で不器用に抱き締め、その孤独な背中を叩いてやりながら、まるでそれが魔法の呪文であるかのように、スコットは唱え続ける。

(スコット——)

 デイビスの胸が揺さぶられた。この混乱の中、彼が何よりも優先したのは、目の前の子どもを安心させること。激しく暴れ狂う心臓の音も、じわじわと這い寄る自身の恐怖をも、必死で隠し通しながら。彼は真正面から、子どもの瞳を覗き込み、呪いと悲鳴が響き渡る地獄絵図のさなかで、《大人》の役を演じていた。

 孤児であるミッキーの胸に、その時、ひとつの灯りが宿る。頼りなく、覚束なく、儚いが——それは確かに、希望の光。そしてそれは、小さな勇気の火種へと繋がったのである。

《鼠ちゃん、どこにいるんだい? 出ておいで! さもないと——あんたの可愛い可愛いゲストから、お仕置きだよ!》

 アースラの声が響き、ミッキーがはっと顔をあげる。時間がない。デイビスは舌打ちすると、素早く懐から煙草の箱を取り出し、そのうちの一本を、奥歯で強く噛み締めた。

「よおし、そんじゃみんな、急いで作戦を練るぜ。ミッキー! 俺の煙草に火を点けてくれ!」

「ハイッ!!!!」


バウンッッッッッッッッッッ



 何の抑制もない放たれた爆発に、けほけほと、炭の混じった咳を撒き散らしながら、何とか火の点った煙草を吸い——アフロヘアになったデイビスは、思う。

 ミッキーの中に魔力は残っている。いや、むしろその力は並々ならぬ量で、外へと溢れたがっているほどである。ノズルの壊れたスプリンクラーのようなもので、ただ、うまく制御できないだけなのだ。

(まほおは、誰にだって使える。でも、そのまほおを正しく使えるのは、この世にほんの一握りしかいない)

 煤けた煙の輪を吐き散らしながら、デイビスは、ロストリバー・デルタで、いつかグーフィーの呟いた言葉を思い返した。



 ————まほおとはね。まほおとは、夢を叶える力のことを、いうんだよ————



(グーフィー。助けてくれよ——)

 冷たい夜風の中、玉の汗を浮かべながら、親友の名前が脳裏を過ぎる。こうした絶体絶命の状況で、祈りなど何の役にも立たない。そう、分かっているはずだった。

 しかしそれでも、その心の中に呼びかけに応える者があった。奇天烈な歌とともに現れたのは、デイビスが求めた親友とは、まったく違う存在であったのだが。

「♪こーのおーれはー まっかふっしぎー
 ♪まーりょくーをーもったー ねっこだー
 ♪そーこらーのー やーつらっとはー
 ♪えーらさーがー ち〜がう〜

 よっ」


 調子外れの鼻歌とともに、くるくると紫の縞がめぐるように現れ、最後に黄色い目玉をぱちぱちと瞬かせると、そこには見覚えのある肥満体が、呑気に横たわっていた。

「あらまあ、大変なことになってるにゃあ」

「あーっ、お前、俺とスコットを、ディズニーランドに飛ばした猫!」

「ハロー、小さなネズミちゃんに、夢の海の皆さんがた。お元気していたかにゃ?」

 チェシャ猫は、いつものニタニタ笑いを浮かべながら、鉤爪の生えた指を、ピアノでも弾くかのように順番に折り曲げて、優雅な挨拶をした。

「こんな時にまで、お前に構ってらんねえよ!」

「おやおやまあ、酷い扱いだにゃあ。俺はボーナスキャラクターみたいな存在なのにぃ」

「よしきた、そんじゃ今すぐ、あいつらを倒してきてくれ!」

「いやにゃー、俺は関係ないんにゃ。ヴィランズとの戦争なんかに、巻き込まにゃいでほしいのにゃー」

 猫は、気取った身振りでふさふさとした尻尾を立てると、デイビスの鼻を羽箒のように軽くくすぐった。そして、小生意気に肩をすくめつつ、フウ、と思わせぶりなため息をつく。ピキリと、こめかみに青筋を立てるデイビス。

「ま、このあたりが、我らがミッキー・マウスの潮時かもにゃ。いいじゃない、悪の王国になったって。どーせ、黒のキングにチェックメイトされたところで、夢の海の住人は、痛くも痒くもないだろにゃ?」

 それを耳にした瞬間。
 デイビスは迷わずその肥満猫の尻尾を掴むと、勢いをつけて、ブンブンとハンマー投げの如く振り回した。そして、満を辞して、投擲。宙に吹っ飛ぶ影から、ギニャー、と凄まじい悲鳴があがり、激しい悪の風に揺さぶられながらもミッキーは叫んだ。

「なぜ急にあんなことを!?」

「八つ当たりだ!」

「残酷!」

「なんとでも言え! とにかく俺は、あいつが気に食わねえ!」

 手足を大の字に広げて、クルクルと猫が飛んでゆく先は、石畳——に思えたが、何やら不気味なネオングリーンの艶で光っている。

「ひいい! ディップにゃ!」

 チェシャ猫は、空中でわたわたと手足を暴れさせると、全身から紫色の縞をくるくる巻き取るようにして、瞬く間にどこかへと消えてしまった。

「ディップ? ディップとは、なんだ?」

 スコットはきょとんとして、首を傾げる。

「僕たちトゥーンの、唯一の弱点だよ。トゥーンは、何があったって死にはしないけど、ディップに浸けられたら終わりなんだ。アセトン、ベンジン、テレビン油をよく混ぜたら、ディップのできあがりさ」

「なぜそんなものが、弱点になるんだ?」

 意味をいまいち理解しきれないスコットに、雑巾で掃除する真似をしながら、横からデイビスが補足した。

「アセトンとかは、除光液に使われているだろ? インクで描かれたトゥーンも、キュッと一拭きで——」

「なるほど。ここだけ、妙にメタ的な武器なのだな」

 ずるり、と肩をずり落とすスコット。

「でも彼らは、今まで、僕との闘いにディップを取り入れたことなんてなかったよ」

「んー、まあ、魔法対決の方が、見栄え的には圧倒的にカッコ良いもんなあ」

「いやまあ、それもあるだろうけど、そうじゃなくて」

 乱暴に髪を掻き毟るデイビスのそばで、ミッキーがぽつりと言う。

「奴らは完全に、僕をこの世から消し去るつもりなんだ。僕が魔法を使えないって、知っているから。今なら、僕に勝てるって分かっているんだ——」

 震えながら呟いた彼は、いきなり、身を翻すと、眉を張って城の方面と対峙した。

「僕、行って、彼らと話してくる!」

「おいミッキー、待てよ! 気持ちは分かるけど、話が通じる相手じゃねえだろ!」

「それじゃあ、デイビスはいいの!? この王国が、この国の平和が、奴らの好きにされてもいいの!?」

 服の裾が、不吉にばたばたとはためく。風に負けないように声を張りあげ、ミッキーは大声で叫び返した。

「僕、ゲストを守れるなら。ヴィランズたちに、どんなに酷いことをされたっていいんだ!」

「馬鹿ッ!!」

 ぱしっ、と軽く彼の頬を叩くデイビス。ミッキーは尻餅をついて、初めて友人に叩かれた頰をおさえ、涙を浮かべながら、デイビスを見あげた。

「死んだら、この世の誰のことも守れるわけねえんだぞ。あいつらに好き放題されて、止められる奴なんか、どこにもいなくなるんだぞ! くだらねえ自己犠牲精神なんざ、今すぐ捨てろッ!!」

 劇しい翠緑の瞳に覗き込まれ、目を揺らめかせるミッキー。いつもは軽薄に笑っている彼の、こんなに激情に駆られた姿など、今までに目の当たりにしたことはなかったのだった。

「俺は、嘘をつかねえ。命を賭ける気でいる。ちったあ、俺たちのことを信用しろよ——」

 狂おしいほどに、二人の眼差しが絡み合う。互いに、何を信念としているかは分かっていた。そしてその妥協点は、必ずあるのだとも。

「スコット!」

 出し抜けに振り向いたデイビスは、ごそ、と尻ポケットから無線機を取り出すと、乱暴にスコットに押しつけ、その目を真剣に光らせた。

「考えた、策。一回こっきりの博打だけどな。だけどそろそろ、馬券を選り好みできる状況でもなくなってきただろ」

「何を思いついたんだ?」

「良いか、これから、それぞれ三手に分かれるんだ。スコット、あんたはここに残れ。ミッキー、お前は後から、俺に合流するんだぞ——」

 そうして彼は、手短に作戦のすべてを伝え、軽い意見交換をしながら、素早く策を練りあげていった。風の音がどんどんと強くなってくる中、紙もペンもない状況下で、全員がその内容を頭に叩き入れ、綻びがないかを念入りに確認する。

「本当に、大丈夫か?」

「ああ、やってみせる。どの道、俺たちにはそれしか手立てが残されていないからな」

 作戦会議を終わらせて、デイビスは立ちあがると、真夜中の如く暗い城の方角を見つめた。

 この策のうち、どう考えても一番危険なのは、彼の役だ。命を落としうるどころか、無事に帰ってこれる可能性の方が希少かもしれない。それでも——その責務を引き受けないわけにはいかなかった。

 怖がるな。果たされるべきことを果たして、誇りを持って、死ぬ。

 ————これは、俺にしかできない仕事だ。

「じゃあな、スコット。あー、俺が死んだら、宿舎のベッドの下の荷物は、全部処分しておいてくれよ。見られたくねーもんばっかだから」

「……死ぬなよ、デイビス」

「あんたに言われるまでもねえよ」

 ひら、といつものように浮薄に手を振って——デイビスは歯を食い縛って、前を向いた。そして、次々と逃げ惑い、絶望的な悲鳴が響き渡る群衆を掻き分け、ひとり反対方向へと歩いてゆく。

 顔をあげる。
 足を向ける先は、天蓋が消え去るワールドバザールの出口。地獄のような光景が広がっているとはいえ、まだ、メインストリートと比べて、微かな外光が漏れている。手を差し出せば、その輪郭が照らし出されて見えるほどに。

(行くぜ、キャプテン・デイビス。覚悟はできているよな)

 心を澄ませて、自分にそう語りかける。だから、見失ってはならない、己の歩くべき道を。

 アーケードの三連アーチに、夜空を額縁の如く切り取られ——その後ろ姿は、闇に立ち向かう、儚い陽炎を纏った人間のように見えた。





 さて——ディズニーパークにおいて、「ゲスト」とは何か。
 そもそもが、パークとは「青空を背景にした巨大なステージ」という思想。そしてそこで繰り広げられるすべてのものは、「テーマショー」として捉えられるのである。

 となれば、「キャスト」も「ゲスト」も、ともにこのテーマショーの一員。実際、例えばホーンテッド・マンションに蠢く人影、スプラッシュ・マウンテンの大落下など、ゲストを「演者」としてショーに組み込む演出は数多く仕掛けられている。

 なんとなれば、この数万人が出口に殺到する大移動——それ自体が、現在のこのパークの恐怖を引き立てる演出ともいえる。ヴィランズたちの影や哄笑を凌ぐ衝撃を与えるのは、実のところ、彼らの終わることのない悲鳴であった。パーク内でふざけてあげる叫びとは、根本的に異なる絶叫。耳にしただけで髪が逆立つであろう。それもそのはず、本物の悲鳴を聞くという経験をした者は、この世でも、ほんの一握りの連中に限られるのだから。

 まさにヴィランズがゲストに手出ししないのも、それが理由だった。少し群衆に目をそそぐだけでも、泣き叫ぶ子ども、震えて立てない女性、こんな時でさえ押した引いたでいがみ合う人々、などなど——人間の裏面の縮図が、こうも面白いほどに見渡せることなど、滅多にない。やがてこれが、絶望に顔を歪め、粉微塵に希望を叩き潰された表情になるかと思うと、ぞくぞくと震える期待が、背筋をのぼってゆく。

 ———彼らはとっておきのメイン・ディッシュ。まずは、前菜から片付ける必要がある。

 ゲストを人質に脅迫されては、いつまでも隠れていられるはずもなく。出口へとごった返すワールドバザールから、たったひとり、プラザへと向かってくる影が見えた。

「現れおったな、ミッキー・マウス!」

 鞭のようにしなる毒蛇の尾が向かう先は、特徴的な、丸く黒い耳。



 ————の、カチューシャをつけた、デイビスであった。



 蛇尾が、躊躇して止まった。ついでに、目元にはスコットから借りたサングラスをぴかりと光らせているため、とてつもなく浮かれたゲストのように見える。
 白けた沈黙。キリリと眉を吊りあげ、精悍な表情をしているが、率直にいうと、すげえ似合わない。どうすればいいんだ、この空気、とでも言いたげな気まずさに、デイビスも我に返ったように、慌てて手を振り、必死の弁明をした。

「えーっと。俺も似合わねえことは自覚しているんだが、とりあえず話を聞いてくれるか? 丸腰で出たら格好がつかないと思ってな、とりあえずそのへんのワゴンを漁ってみたら、頭部を守れそうなのはこのくらいしか」

《誰だい、この身の程知らずの馬鹿は?》

《見たことがないねえ》

《儂も知りはせん》

 マレフィセントが訊ね、女王もジャファーも首を振る。ところが、TDSを普段の根城にしているアースラは、その太い腕をずい、とあげて牽制した。

《待ちな、あたしゃこいつに見覚えがあるよ。ここんとこ数年は見かけなかったが——あんたもしかして、キャプテン・デイビスじゃないのかい?》

《キャプテン・デイビス?》

《ああ、ヴィランズたちはどいつもこいつも、海側の事情に疎い奴ばかりだねえ。誰か、2016年以前のガイドブックを寄越しな!》

《公式のガイドブックは手持ちにないよ。今持っているのは、これだけさ》

 と女王がマントの中から取り出したのは、付箋がたくさんついた、『東京ディズニーリゾート便利帖〈第3版〉』(堀井憲一郎、新潮社、2015年)。全員で寄り添って、ぱらり、とページをめくり、覗き込む。ストームライダーの章を開いてみると、そこには、「おれが乗ると、いつもデービスの2号機になってしまって、大変な目にあうよ。へへ」と書かれていた。

「そうさ。そいつこそがこの俺、ストームライダーパイロット、キャプテン・デイビスだッ!!」

 腰に手を当て、胸を張って、堂々と誇示するデイビス。それほど名誉なことが書かれているわけでもないのだが、とにかく自分が書物に名を刻んでいるという事実が誇らしかったらしい。改めて眼差しをそそぐ、ヴィランズ一同。

《へえ。それでクローズしたアトラクションのヒーローが——このあたしたちに喧嘩を売ろうっていうのかい》

「そうだ!」

 城を取り巻く、巨大化したヴィランズと比較したらミジンコ程度しかならない大きさで——デイビスが喚きながら、ぶんぶんと腕を振りあげる。

《恐れる必要など、微塵もないねえ。お前は過去の栄光に縋りつく、終わったヒーローだよ。人々の記憶からは消えかかっているのに、自分はまだ愛されているのだと、惨めったらしく妄想しているんだね》

 挑発を入り混じらせた、その、言葉に。

 ぴく、とデイビスの片眉が跳ねあがった。肩を震わせるほど強大な稲妻が鳴り響く中、彼の唇に咥えられた煙草の火だけが、じじ、と橙色の火の粉を落として焦げてゆく。

《お前は知らないのかい? ゲストなど、新しいアトラクションにすぐに目移りして、過去のものなど忘却してゆくばかりさ。愚かだねえ、そのまま大人しく引退していれば、苦しんで死なずに済んだものを——我々に逆らったからには、どんな恐ろしい苦痛が待ち受けているのか、その身で思い知るしかないだろうよ》

「へっ、ところがどっこい、TDSのゲストは、俺のことをちっとも忘れていないみたいでよお。クローズしたからって、ハイそうですかと、舞台からさっさと退場するわけにはいかねえよな」

 彼は乾いた唇を舐め、恐怖に震えたがる腕を掴んで、押し隠す。気取られるな。胸を張れ、けして舐められるな。そして、煙草を指に持ち替え、大きく息を吸うと、そのよく通るテノールで、ヴィランズに向かって高らかに宣言する。


「よく聞けッ!! 俺のいなくなったTDSはなあ——」

 デイビスは威風堂々と、その言葉を放つ。



「オッサンしか、いねえんだッ!!!!」



 その叫びに。
 ヴィランズの全員が眉根を寄せ、首を傾げた。デイビスはどこからか取り出した黒板に、各ポートの代表的人物と年齢の対応表を素早く記述すると、ドンと彼らに見せつける。


  • ネモ船長……少なくとも五十代半ば以上

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ……霊魂? 寿命は六十七歳

  • ハイタワー三世……六十五歳

  • インディ・ジョーンズ……映画『クリスタル・スカルの王国』だと五十八歳

  • ジーニー……一万年は生きてる

  • トリトン……不明だが白髭が立派


「どうだ、分かるかっ! 俺という若々しい存在が、TDSでどんなに貴重だったのか! これこそが、ゲストたちがストームライダーのクローズにいつまでもぐちぐちと文句を言い続ける、一番の理由だ!」

 ばしばし、と黒板を叩くデイビス。果たして真偽の程は分かりかねるが——鼻高々に語るデイビスの説は、根拠を示しただけに、謎の迫真性をともなって響く。

「だから俺は永遠に、TDSのヒーローなんだよ。少なくとも、次のイケメン枠が埋まるまではな!」

《しゃらくさいねえ、鼻垂れの若造というだけで、よくもそんなに胸を張れたもんだよ! あたしたちに逆らったからには、お前に未来はないよ!》

 アースラがぬめる触手を一閃すると、彼の両側から一気にそれが迫り、呆気なく彼の胴を絡むように掴んだ。

 握り潰される——!

 窒息しそうなほどの握力で握られながら、足が浮き、巨大なアースラの顔の真正面まで持ちあがってゆく。その薄紫色の満面に、気味の悪い笑みを浮かべていた。心底ぞっとさせられたが、それとともに、こんな奴に俺の命を譲り渡すものか、という折れようもない凄まじい焰が膨れてくる。

(俺の人生は、俺のものだ。こんなところで死んで、たまるかよ——!)

 ぎり、と歯を食い縛るデイビス。その目は獣のように怒りを激らせていた。

「さあさあ、ご立派なキャプテン様。あんたが記念すべき、ゲストへの見せしめの第一号だよ!」

 内臓や骨の軋むような感覚とともに、胃液の迫り上がってくる嘔吐感、次いで骨がひしゃげ、悶絶するような激痛が全身を駆け抜ける。デイビスは、悲鳴を噛み殺すと、ぐっと俯き、持っていた煙草の火を、思いきり触手に押しつけた。

 びくりと、波打つような衝撃が触手に走ると、怒り狂った声を放ちながら、彼を空高く放り投げるアースラ。一瞬、頭が真っ白になり、すべてが虚構のように感じられた。そして、後ろ髪を引かれるような浮遊感を湛えると、重力のままに落下してゆく——落下してゆく——際限なく、地の底まで落ちてゆく。そのまま、ワールドバザールのアーケードに叩きつけられるかと思ったが、寸前でうまく身を捻り、アイスクリームコーンのテラス席に並ぶパラソルにダイブしたおかげで、衝撃の大部分を吸収されたらしい。傘の骨が次々と折れる音が響いた挙句、支柱自体までへし折られ、乱暴に地面に放り出される。それを、背中を丸めて転がることで、なんとか打撲と擦り傷のみで耐えられた。

 数秒の静寂の後、じゃり、と微かに砂埃の舞う中で、髪の擦れ合う音がする。震えながら起きあがろうとするも、当分は痛みで、力を込められそうになかった。かろうじて、弾け飛んだスコットのサングラスに手を伸ばし、震える力で、かちゃ、と懐のポケットにそれを押し込める。

 ま、マジで死ぬかと思った。地面に倒れ伏して数秒後、遅れて、ドッドッドッ、と血流をめぐらせ始める心臓。呻き声ひとつ出せないが、一応、まだ天国に行ったわけではない——らしい。口の中に広がる鉄錆の味を掠めて、まだ地面にかすかに残っていたパン屑と、甘いブレッドの香りが、妙に気味悪く風に流れてゆく。

《おやおや、骨の一本や二本、折れたのかと思ったが。なかなかしぶとそうな男だねえ——》

 惨状を覗き込まれるようにして呟かれたそれを聞き、デイビスは背筋が寒くなった。ばたばたと旗が打ち靡く下、猫に射竦められた鼠のように、その嬉しそうな発言の意図を悟る。

 こいつら、俺のこと、嬲って、嬲って、嬲り殺す気だ。一思いに死を贈ってやろうという気など、さらさらない。

 だからこれからが、楽しい、楽しい拷問の始まり。遊び道具が壊れて、狂って、泣きながら命乞いをするまで。苦痛に歪む顔は、最高の愉悦。

 それを骨の髄まで叩き込まれたデイビスは——




 —————にや、と壮絶な笑みを引いた。



(見ろよ、ミッキー。魔法を使えなくたって、できることはあるんだぜ——)

 砂粒の混じった血液。口角から滴るそれを拭うと、ぺっと、血の混じった唾を吐き捨て、高らかに反駁する。

「未来ならあるさ——俺の手の中にな!」

 言うなり、ふたたび煙草を咥えると、アイスクリームコーンのテラス席に花咲く、白と黄色のパラソルを素早く引き抜くと——重すぎて、思わず蹈鞴を踏んだ——長大なそれを、剣の如く構える。

「お前らなんか、怖かねえッ!!」

 デイビスの口から飛び出す、精一杯の啖呵。

 対する城の征服者の面々に、一瞬の沈黙が過ぎると——爆発的な嘲笑が沸き起こった。

《そーんな可愛いパラソルでどうするんだい、キャプテン・デイビスちゃん? メリー・ポピンズの物真似でもする気かい?》

 じり、と後退し、追い詰められながら——金縛りにあったように、体が凍りつく。ゆるりと、アースラの冷たい触手が伸ばされて、たった一度の攻撃で満身創痍となった彼の輪郭を、ぴたぴたと緩慢に撫でていった。まるで、獲物の活きを検分し、どこからバラバラにするのが面白いだろう——そんなことを、見定めているかのように。

 しかしそこへ、小さな影が、風のように飛び込んでくると、ぬめつく触手を鋭く叩き、デイビスの前から追い払った。そして、あの慣れ親しんだ、甲高い鼻声が、堂々たる台詞を吐く。

「デイビスには僕がついている! 彼には指一本、触れさせはしないぞ!」

 息を荒げながらも、デイビスを守ろうと、その小さな体でいっぱいに両腕を広げるミッキー。その頭の上には、青い布地に月や星を描いた、神秘的な光をキラキラと撒き散らす三角帽子が、不思議に人の目を魅する色合いで輝いていた。

「彼はディズニーシーからやってきた、大切なゲストだ! 僕はゲストを守り、彼らに夢を授ける義務があるんだ!」

《これはこれは、待ち侘びたよ、我らが偉大なるミッキー・マウス。本日の主役のお出ましというわけだね》

 舌舐めずりするような口調で、マレフィセントが囁いた。

《この小僧を囮にして、いつのまにソーサラーハットを取りに行っていたのかい——賢しいネズミが、小癪な真似をするよ》

「き、君がどんなに強くとも、僕のゲストに手出しするというのなら、容赦しないぞ!」

《ふふん、馬鹿な正義感を振りかざしたお前たちが、後悔と絶望に塗れながら息絶えてゆく姿は、さぞかし見物だろうねえ。さて、どんな風に甚振ってみせよう。じわじわとディップ漬けにしてやろうか、骨までじっくり、炎で炙ってやろうか——》

 吹きつけられる、悪意に。
 通常なら血も凍るほどの、殺気に。

 けして身を翻さず、ミッキーとデイビスは、改めて目を交わし合った。今や闘う者は、ひとりではなく、二人だった。それがどれほど孤独な心を救う光となるか、当事者でなければ、けして理解できることはないだろう。

 ミッキーは目を瞑り、暗雲の向こう側に輝く星に、願いをかける。風が色とりどりの燐光をちりばめ、二人の衣服を舞いあがらせると、青く魅惑的な輝きを放つ魔法の帽子へ、渦巻きながら吸い込まれてゆく。どこまでも胸が透き通って、壮大な勇気が流れ込んでくる感覚。その神秘的な魔力に、各地から共鳴するものがあった。大きなものではない——けれどもパークを支え続ける、ささやかなものたち。黄金の紋章を描かれたトラッシュカンが震え、二階からこぼれ咲く無数の鉢植えの花が揺れ動き、ワールドバザールの上に突き立つアメリカ国旗すら、静謐にはためいて、微かな夢の気配に、身を委ねるかのようだった。

 心を澄ませて、水のように。
 まだ、この想いに応えるものは残っている。

 後ろでもなく、ここでもなく、その向こうのシンデレラ城。闇を切り裂いてこそ、彼らの生きる道はある。

《お行き! 奴らを捕まえな、イタチども!》

「ディップの雨だよー!」

「行くぜ、ミッキー!」

「オーケー! さあ僕が相手だ、ヴィランズ!」


 —————そして、シンデレラ城を舞台に、二つの勢力が真っ向から激突した。


 地面を蹴り飛ばした瞬間、凄まじい風音と烈風が襲い、どくん、と指先に至るまで血が鼓動した。世界が変わる。その疾走感は鮮烈で、恍惚とも呼べるようなもの。魔法の鏡の中からは、イタチ軍団の乗った、巨大なディップ散布車が姿を現す——しかしもはや恐れる必要はない。量り知れぬほど深い夜空を頭上に、プラザ・ガーデンを回り込むと、王国の中央を占める、曠大なる広場へ。焼き焦げた花の匂い、そして紅玉のような火の粉が撒き荒れるほかは、不気味に照らし出された巨城と、黒洞々たる闇が広がっているだけだ。迎撃の黒魔法を避けながら、直線距離にしても約二百メートル、そこへ城の放つ威圧感も加わって、途方もなく遠い道のりに見える——そこを、全身の勇気を奮い起こしながら、全速力で駆け抜ける。頭上を遮るものは、何ひとつなかった。アスファルトも、石畳も力強く蹴り飛ばすと、停電で死んだように冷たいテールグリーンの街灯が、脇から迫っては流れてゆく。迷宮のように入り組んだ花壇の彼方を抜けると、見るも豪奢に佇む悪の孤城、その射程範囲に突入する。

 ゲストの混乱に紛れて取り残された子どもは、震えながらその様子を見守っていた。それはまるで、希望の光と絶望の光の、劇的な対峙。どす黒い夜の闇の中、ただひとつ、ソーサラーハットのこぼすまばゆい青の光点が、彗星のように輝きを散らして軌跡を描く。さながら、騎士物語に描かれる英雄の如く。打ち捨てられた二階建てのオムニバスにすら、その車体に、魔法の反射が煌めいている。

 伝説がある。
 鉄床に突き刺さった剣。これを抜いた者が、次の王となりし人間だと。

 心細いほど小さく、しかし勇気づけられるほど強く。身の丈にしては長大な武器を担ぎ、星屑のような光を撒き散らして立ち向かってゆく二人は、まさにその言い伝えを思い起こさせるに相応しい勇姿である。いかに闇が強大であろうとも、夢は、希望は、ここにある。

 城を取り巻くヴィランズたちは、いずれも巨大にして凶悪。対するデイビス側は、何か特攻作戦があるのだろう——と思いきや。

 彼は、バッ、と色鮮やかなパラソルを広げると————

「おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃ」


 暴走機関車のように飛び出してゆく。おかげで、散布車からディップが噴射されはするものの、すべてパラソルで防がれ、ばちばちとターポリンを震わせる音を立てながらも、あえなく地面に撒き散らされるのみ。要は策も意表も何もない、単純明快な物理作戦であった。

「あいつ、本当に馬鹿だな……」

 ポカーン、とワールドバザールにたたずむスコットの足下を、侘しい音を立てながら、枯れ葉が転がっていった。





《どこまでも鬱陶しい奴らだね。イタチども! 水圧であいつらのパラソルを吹き飛ばすんだよ!》

「ミッキー、俺の肩にのぼれ! 足元のディップに、少しも足をつけるな!」

 その言葉と同時に、ミッキーは、デイビスの背中に飛びつくと、なんとか歯を食いしばって、彼の首に腕を回し、必死に掴まった格好になる——この距離に全力を費やしたものだから、デイビスの全身には汗が滲み、息切れし始めていた。それに加え、開いたパラソルにかかる、散布車からの猛烈な水流の勢い。その場に立ち続けるだけでも、とんでもないカロリーを消費しなければならない。両足を踏み締めて受け止めようとしたものの、ディップのせいで足元が滑る。次第にパラソルは押されて、ずず、と後退していった。

 しかし突然、急激にシステムがダウンする音が鳴り響くと、カスン、とディップ散布車の噴射口が哀しい音を立てた。

「ありゃ、ディップが」

「チャンス!」

 足元までディップを撒き散らされた広場で、デイビスは勢いよくパラソルを閉じると、解放された視界の中で、城を見つめる。

 改めて見ると、とんでもない大きさだ。城に絡まる毒蛇や、巨大な蛸の姿は、間近で見れば、真上からねじ伏せるように襲い掛かってくる重圧。それに加えて、魔女や女王の禍々しい魔力も覆い被さり、まるで自分たちが、巨人の前に立った小人であるような錯覚を抱く。そして、すっ——と呆気なく血の気が引いて、頭のどこかで声がした。

 ————こいつらを倒す? この俺が? 冗談だろ?

 だって俺は、こんな奴らの対抗手段なんか持ってない。魔法も使えない、ただの一般人だぜ?

「デイビス!」

「なっ——」

 その隙を見逃すヴィランズではなく、散布車から降り立ったイタチたちが、次々にディップを積んだ高圧洗浄機を背負い、彼らを一瞬で包囲した。

 囲まれた——!

 四方を取られては、パラソル一本では、とても防ぎようがない。追い詰められて、後退する場も与えられないデイビスたち。ぎり、と歯を噛み締めると、煙草の吸い口から、苦み走った味が広がってゆく。

 糞ッ——油断は、していなかった。なのに、恐怖心にやられた。
 駄目だ。自分はまだ、目の前の光景を受け入れられないでいる——覚悟を決めたはずなのに、強大な敵を目にした瞬間にへし折られ、もはや灯火くらいしか残っていない気がした。

「大丈夫。デイビス、怖がらないで。僕を信じて」

 絶望的な状況の中——ヴィランズたちに聞こえない声量で、ミッキーがデイビスの耳許にそっと囁く。思わず、息をするのも、瞬きすらも忘れて、その言葉に聞き入った。

「正義の味方はね、困難を切り抜けてこそ、その資格があるんだ。——必ず僕が、君を守るよ」

 なぜだろう、咥えた煙草が震え、ふと、涙がこぼれ落ちそうになった。その励ましが与える力強さと、それを告げる彼の儚さに。そして、自分の背後から伝わってくる温度が、何よりも愛おしく、守りたいもののように思えてくる。

 彼は、いる。そこに。自分に背を預けて。
 だから自分も、それに応えなければならない。

(ミッキーは、今までずっと一人で闘ってきたんだ)

 デイビスは、パラソルの柄を強く握り締めた。

(俺だって、負けるわけにはいかない。友達のピンチは、俺が助けるんだ——!)

 張り詰める緊張。凌ぎを削り合うように、意識だけで、気配だけで、対立は恐ろしいほどひたりと沈黙し、互いの敵意の天秤を釣り合わせる。


 一瞬の、眼差しの交錯の後————


 イタチが飛びかかる。だが、デイビスの方が早かった。煙草の吸い殻を高く放り投げ、それを指差し、地面が震えるほどの大声で叫ぶ。


「ミッキー! あの煙草に、全力で火をつけろッ!!」

「よおぉーし——いっくぞー!」

 闇の中に微かに灯る火を標的として——刹那、ミッキーの周囲に、素晴らしく煌めく魔法の粒子が漂った。ざわり、と空気が変わる。喜びが沸き立ち、胸躍るような——それほどまでにまばゆい、めくるめく星屑の瞬き。帽子が、その青い布地に銀の鱗粉を巻きあげ、術者の呪文を数十倍にまで強化する。



「Star light, Star bright!

ファンティリュージョンッッッ!!!!」




バウンッッッッッッッ

バウンッッッ

バウンッ……



 エコー。あまりの大爆発で、すべてがスローモーションに流れ、足が地面から離れ、体が浮いた。途方もない爆風に、空高くまで吹き飛ばされながらも、急いでデイビスの伸ばした手が、ぎりぎりで、宙に投げだされたミッキーの手を掴む。そして、もう片方の手で持っていたパラソルを、落下傘代わりに、大きく開いた。それとともに、ミッキーは残る最後の魔力を振り絞って、人差し指から青い光を迸らせ、パラソルを巨大化する。ぐうん——と大きさを増して、頭に浮かべていたイメージの、制御が効かなかったのか、数十倍もある大きさで——たちまち、その傘は風の抵抗を受け、Gのかかり具合をがくんと変えた。そしてその瞬間、一気に、清々しい風が全身を包み込む。眼下には、ミニチュアのようなパーク全体が、一度に見渡せた。なんという壮麗な景色だろう、シンデレラ城でさえ、ここからでは足元にも及ばない。闇に包まれていなければ、その花壇のひとつひとつ、街灯のひとつひとつが、美しく王国の地を彩るのを一望できたはずである。パイロット・ゴーグルよろしく、デイビスは懐のポケットからサングラスを取り出して、得意げに装着する。

「わああ、デイビス。僕たち、飛んでるぞ!」

「そりゃそうさ。なんたって俺は、天才飛行士なんでね」

 グライダーの要領で滑空してゆく——素晴らしい飛翔力だった。熱風が巻き起こす上昇気流に乗って、風を読んで傘の傾き具合を変えつつ、デイビスに抱きつくミッキーを掻き寄せながら——眼下を見下ろし、デイビスは勝利を確信した。

(魔力を制御できなきゃ、道筋を作ってやりゃあいいんだ)

 燃え盛る炎は、少し狙いを外したらしい。今はゲストなど一人もいはしない、荒漠たるプラザ、その街灯を飾るタペストリーを燃やして——しかし、問題はない。ずるりと、骸骨から剥けた皮のように垂れ下がったその布が、黒く焦がしながら、やがて、その炎の躍る端を地面に触れさせる。それが合図だった。

(暴走したミッキーの魔力は——)

 青々とした炎は、ディップの上に到達すると、矢のように燃え広がり、凄まじい火力でもって、地面に撒き散らされたディップの海を繋いでゆく。

(一気にディップの導火線を遡って——)

 アセトン、ベンジン、テレビン油。利用している材料は、すべて引火性。ストームライダーのエンジンオイルにも利用されている油だ、間違えるわけがない。そして、ディップはイタチたちの出どころである————



「—————魔法の鏡を、燃えあがらせる!」



 圧倒的な火閃が、闇に噴きあがった。轟音をあげ、一瞬で炎に包まれる様は、さながら神の怒りを浴びせられ、落雷の中に燃え盛る塔。一気にパーク全体が明るむほどに物凄い火勢で、肌から汗が噴き出るのを感じた。怒濤の光源は、網膜を切り裂き、熱とまばゆさで、ろくに目も開けていられない。そこを根城としていたヴィランズたちは、恐ろしい火熱で、暴れ狂いながら地面に身を叩きつけて——その瞬間、何かが激しく割れる音がして、ヴィランの姿が掻き消える。鏡像であった。その砕けた鋭い光も、たちまち炎に焼き尽くされ、眩さを強める膨大な反射材となる。ヴィランズたちは次々と身を投げては粉微塵となり、地面に散らばる鏡の破片は、いまだ激越な炎を照らし抜きながら、最後のひとり——巨大なコブラの末路を映し出す。首が叩きつけられた瞬間、その長大な胴体のすべてに罅が入り、ぞっとする一瞬ののちに、甲高い音を立てて砕け散った。そして、自らの守護者を失った魔法の鏡もまた、ほとばしる緑の火花を噴き散らして、無惨に打ち砕かれ——後は轟々と唸る炎の破壊と、星の瞬きのように輝く鏡のかけらが、一面に残るのみ。闇を消し飛ばすほどに苛烈な光景は、それ自体が城を焼き尽くす猛威となっている。

「デイビス、やったぞ! ヴィランズたちが、粉々になっちゃった!」

「よっしゃあ! 後はシンデレラ城の鎮火だな。えーっと、そろそろやってくるはずなんだが——」

 探すまでもなく、それらはすぐに現れた。行列をなしているのは、トゥーンタウン方面からやってくる、町が成立した際の大演奏会に使用されていた楽器たち。全員、消防隊の帽子を被って、地面を跳ね回るたび、プピプピと情けない音をひねり出していた。しかし彼らの目的は演奏ではなく、別のところにあった。

 燃え盛る城を取り囲むと、たちまち、『ウィリアム・テル序曲』の「嵐」のパートを奏で始めるオーケストラ。途端に、吹き荒れる竜巻が渦を描いて、天へと回帰し、恐ろしい雨を降りそそがせた。その頭上に戴く暗雲から、今度はありったけの水を絞り取り——凄まじい集中豪雨。そう、かつてトゥーンタウンの始まりの日に嵐を呼び、ミッキー・アベニューに記念された噴水同様、一面に破壊的な水量を撒き散らしつつ、ついでに、地面に散らばったディップやら煤やら鏡の破片やらを洗い流し、プラザはすっかり、清潔な様相を取り戻していった。

 徐々に高度を落としてきたパラソルを手放して、とん、と地面に足を触れさせる、デイビスとミッキー。すでに一帯は雨風が吹き荒れ、手の付けられないような有様となっている。そのまま、デイビスはしとどに雫を滴らせている前髪を払って、叩きつける雨粒を見あげつつ——

「さ、大演奏会には、指揮者が必要なんだろ? ミッキー、お前の出番だぜ」

 デイビスは、指揮棒——がなかったので、側の樹からぽきりと小枝を折って、ミッキーに手渡した。

「格好悪いなあ」

「仕方ねえだろ? これしかねえんだからさ」

「まあ、いいや——ありがと!」

 ウインクしたミッキーは、両手を振りあげて。楽器の性だ、現れた指揮者に吸い寄せられるようにテンポを合わせると、力強いラストを統率させて、音楽は元の希望に溢れた調子を取り戻し——聞き慣れたマーチを響かせて、素晴らしいフォルテッシモで締めくくった。チューバに嵌っていた誰かが、最後のロングトーンとともにどこかへ吹き飛んでいった気がしたけど——ま、いいか。とにかく、これで一件落着。文字通り嵐が過ぎ去った後で、ようやく、雲の切れ間が見え、元の青空が覗き始めた。

 ほう、とため息をついて、ミッキーもデイビスも、濡れた地面に構わず、二人揃ってその場に尻餅をつく。そして、期せずして背中合わせに座り込んでいるのに気づくと、目を合わせ——けらけらと、腹を抱えて笑い合った。輝く笑い声が水たまりに掻き乱れ、陽光の反射の上に幾つもの波紋を生み出す。ようやく、自分たちの成し遂げたことを実感する余裕が戻ってきたらしい。そして折りから、太陽の筋が彼らを照らし出し、その濡れそぼった体に、黄金の暖かさを運んできた。秋風が、磨かれたような水たまりを静かに揺らしていった。

 少しずつ、勝利を理解して、ざわざわと喧騒を取り戻してゆくワールドバザール。その中で、スコットは、デイビスから受け取った無線機の電源を入れると、念じた相手へと語りかける。

「ミニー? こちらスコット。ありがとう、どうやら間に合ったようだ」

《よかったわ、あなたからの連絡を受け取って、急いでトゥーンタウンの消防署に電話したの。ミッキーは、無事でいる?》

 スコットは、すでに晴れあがりつつある蒼穹を振り向くと、陽射しの降りそそぐ下、地面に残った水たまりを無闇に跳ねあげてはしゃいでいる、ミッキーとデイビスを見つめ——深く目を閉じて、微笑んだ。


「ああ、大丈夫さ。デイビスのいる限り、いつだって、あの子を守ってくれるからな」


 ゲストは、ワールドバザールから恐々と顔を覗かせ、今しがた起きた激戦が終わったことを確かめるように、眩しげに目を細め、太陽を見あげた。おどおどと、城の方面から吹き抜けてくる、爽やかな風を浴びる群衆の隙間を、猫のようにすり抜けつつ、スコットは遠いキャッスル・フォア・コートへと歩み寄ってゆく。遠くから、白雪姫の願いの井戸に響く歌声が聞こえてきて、雀が太陽を遮るように飛び立つ。清らかな水たまりが鳥の囀りに躍り、青空を、そしてそれを背景に佇む、シンデレラ城を逆さに映していた。

「デイビス」

「おー、スコット。サンキュー、助かったぜ」

 背後からの声に気づいたデイビスは、借りていたサングラスを外して放り投げながら、軽薄に笑った。まだ煤などで汚れており、それに全身が擦り傷だらけだったが、命に別状はないのであろう。スコットは無言で、受け取ったサングラスを、顔に装着し直した。

「なー、スコット、なにか褒め言葉は? 俺に言うことがあるんじゃねえの?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、濡れそぼった肘でつついてくるデイビスの腕を払いのけ、スコットはうんざりとした口調で言った。

「ああ。よくやったな、デイビス、ミッキー」

「スコット!」

 ミッキーは、スコットの背中に抱きつくと、嬉しそうに温かい鼻を擦りつけた。

「ありがとう。僕と一緒に行くって言ってくれて、嬉しかった」

「んだよー、実際に一緒に闘ったのは、俺の方だろ?」

「もっちろん、デイビスにも感謝しているよ!」

「くっそー、ついでのように言いやがって」

「ま、人徳の差というやつだろうな」

 スコットは肩をすくめると、目線を移して、五十メートル以上の高さを誇るシンデレラ城を見あげた。

 ヴィランズの魔力によって塗り替えられていた壁は、呪いを解かれ、元通り、綿雲を思わせる純白の城壁に、槍の如く鋭く聳え立つ尖塔——その屋根の煉瓦は青く鮮やかで、蒼穹よりも濃い色合いをしている。先ほどまで、ここが悪に支配されたいたとは、とても信じられない壮麗さだった。天空から降りそそいでくる黄金の粒が、きらめく露をしたたらせる城を、目に吸いつくように輝かせている。

 しかしよく目を凝らすと、もうひとつだけ、別の青が混じっているのに、スコットは気づく。塔の先端の、旗が棚引く様に紛れて。それは最も高い塔のテラスに、風と関係なく、不思議な静かさでちらちらと蠢いているのだった。

「ん? 消防隊の連中、あそこだけ、火を消し忘れていったようだな」

「えー、そんなはずねえよ? ここ一帯に、あれだけの大雨が降ったんだぜ?」

「だが、まだあそこに青い火が燃えているだろう。お前には見えないか?」

 デイビスも目を細くしてそちらを眺めると、そこには確かに、たったひとつ、置き去りにされたような薄青い蠢きがある。そして、息も荒げながら、その青い炎を頭部に燃やし、ずるりと浮かびあがってくるのは————

《よくも邪魔したな——》

 ハデス。屍のような肌に、死神の衣服を纏った男。血の気のない唇を震わせて、その冥府の番人は、瞬く間に黒い天馬に引かせた馬車を駆ると、激しい声色で宣告した。

《しかし、ひとつだけ土産をもらってゆくぞ。お前の彼女だ! 俺に会いたがっているんだとさ——死ぬほどにな!》

 その瞬間、ミッキーはさっと顔を蒼白にさせ、トゥーンタウンの方角を振り返る。

「ミニー?」

 返事など、あるわけもない。プラザのスピーカーからは、すっかり、明るい音楽が流れ始めていた。けれども、その途方もなく広がる、別の沈黙に胸騒ぎを感じ————

「ミニー!」

 ミッキーはいきなり、脇目も振らずに走りだした。

「ミッキー!? おい、待てよ!」

「ミニーが危ない! ハデスは、ミニーを冥界へと連れてゆく気なんだ!」

 暴れ狂う心臓に、心が破れてしまいそうに感じながら。

 駆けてゆく。
 トゥーンタウンへの道のりを。それがどうしようもなく遠い。松林が揺れ動いて、葉の隙間からまばゆい光線を透かし、まだらの光と影を、アスファルトにちらつかせている。その光景が、妙に目に焼きついた。

 暗闇の中で、ゆるりと、一本の萎びた手が糸を手繰る。
 緩慢に伸びてゆき、真っ直ぐに張り詰めたそれは、懸命に生きる生命の象徴のよう。そしてその細さは、ほんの少しの衝撃で、呆気なく千切れ飛んでしまいそうなほど。

 息が切れても、ミッキーは足を止めなかった。どれだけ地面を蹴っても、求める姿はどんどんと遠のいて、彼の手の届かない場所へと行ってしまうようだった。橋を渡り、トゥモロー・テラスも、ニューファンタジーランドも飛びすさって。胸に滑り込んでくるのは、甘いハニーレモンの香りに混じる、乾燥した枯れ葉の匂い。やがて近づいてくる、トゥーンタウンの見慣れたゲート。いつもは、家に帰ってきた安心感を覚えるのに、今日は、より一層焦燥が強くなるばかり。

 薄暗いシンデレラ城の地下では、錆びついた鋏がゆっくりと開かれて、何度となく息の根を奪ってきたのと同様に、その日も、選ばれし犠牲者の糸へと忍び寄ってゆく。

 不気味な黒衣に身を包んだ、運命の三女神——クロト紡ぐ者ラケシス長さを測る者アトロポス不可避なる者。すべての者の運命は、彼女らが割り当て、寿命を決定するのである。クロトが糸巻き棒から運命の糸を紡げば、その長さを計量し、決定づけるのはラケシス。そして最後に、アトロポスが糸を切断し、命を絶たれた者は冥界へと送られる。

 渦巻く魂の鏡に映し出されるのは、大きな耳に、ぱっちりとした睫毛、水玉模様のリボンをつけた、愛らしい鼠の姿。自らの待ち受ける運命も知らず、その優しい顔は、無邪気に笑っている。

「ミニー! ミニー! ミニー!」

 ほとんど、半狂乱のようになりながら、ミッキーは叫び続ける。自らの恋人の名を。九十年以上前から、ひと時も離れずに時間を過ごしてきた、彼女の名前を。

 アトロポスは、静かに音を立てて鋏の両刃を開き、ゆっくりと、その狭間に命の糸を持っていった。

「ミニー! いやだ! 逝っちゃいやだ——」

 悲痛な叫び声が、王国の空気を震わせる。




「僕をひとりにしないでよ! ミニーッ!!」




 そしてその瞬間、ついに鋏の刃が閉じ合わさり、命の糸を両断する。


「ん?」

 ——————かと思ったのだが。

 糸はその時、神聖な黄金の光を放ち、強靭な力で鋏を跳ね返した。そこで、命の糸を真っ二つに切り落とすどころか、鋏を無闇にちょきちょきと動かすたび、刃先の方こそが、どんどんとボロボロになってゆくのだった。

「どーおしたのさ、この鋏!」

 ラケシスが鋏を奪うと、切れ味を確かめるように数度切り合わせ、その目玉の嵌まっていない眼窩で刃を見つめた。

 困惑したように、クロトが、ポツリと呟く。

「命の糸が、切れないよ——?」

 沈黙。糸を引っ張ったり、微振動させたりしながら、全員がこの珍妙な出来事に、首を傾げる。そして、はたと思いついたように、三人は顔を見合わせた。

「このネズミはもしかして、トゥーンじゃないのかい?」

「おや、まあ!」

「いやぁーだ!」

 キャッキャ、ウフフ、と大笑いする魔女たち。一瞬、その場が女子会のように華やいだ。

「じゃ、直接、誘拐するしかないねえ。さあ、お前の出番だよ、ヤマネコ!」

 薄闇の中で頷くのは、縦にも横にも大きな体に、ぴんと立った耳、そして鋭い眼光。呻くような笑い声とともに、髭を震わせ、その歯がぎらりと光った。


 そして——————


「ミニーッ!!」

 ミッキーが、ミニーの家を大きく開け放つ。しかしそこには、誰もいない。すでにもぬけの殻であった。

 絶句する。すぐに——何が起きたのかを理解した。窓ガラスは砕け散り、哀しくカーテンが揺れていた。愛らしいインテリアで揃えたその家は、見る影もなかった。奥の部屋にある、大きなハート型のドレッサーには、まだライトが点っていて、そばの床に散らばる、白粉のついたパフや、割れた香水瓶を照らし出す。惨状、というのが相応しかろう。まだ生活の気配も濃いだけに、その踏み荒らされた様相が、妙になまなましく目に焼きついた。

 へたり込み、香水瓶のかけらを拾い集める。ゆっくりと——何も考えられない頭で。割れ目を繋ぎ合わせれば、戻ってくるような気がした。椅子だって、まだ温かかった。まるで彼女が今もそこにいるように、大好きな匂いが漂ってくる。キッチンには、鉄板の上に、クッキーが並べられている。きっと、彼が帰ってくるのを待っていたのだ——そしてそれを振る舞うこともなく、彼女だけが、忽然と、いなくなってしまった。

「ミッキー……」

 彼の足元に、ぽたり、と床の一点が、黒い染みを生んだ。それを慮るように、ようやく彼に追いついたデイビスとスコットが、遠慮がちに声をかける。ミッキーは、彼らに見えないように、袖で素早く自分の頰をぬぐうと、家に残されていた足跡を指差した。

「この足跡は、ピートだ。彼が、ミニーを攫っていったんだ」

 消しゴムで片足を消されて以来、彼の装着していた、義足の痕がある。庭から忍び込んだせいだろう、泥が付着していて、ミニーが大切にしていた絨毯は、虚しく汚されていた。

「僕が、ミニーのそばにいなかったから。ワールドバザールに、遊びになんか行ったから——」

「何言ってるんだ」

 デイビスは膝をつくと、彼の肩に手をかける。

「誰かと四六時中一緒にいるなんて、できっこないだろ? 今日でなければ、きっと別の日に、あいつはここにやってきたんだよ。お前のせいじゃない」

 それは慰めのつもりで告げられた言葉だったが、ふっとミッキーは顔をあげて、頼りなく揺れ動くカーテンの影を浴びながら、茫然とした口調で、尋ね返した。

「誰かとずっと一緒にいるというのは、できないことなの?」

 その言葉は、がらんどうの部屋に、異様な調子をともなって響いた。切ないような——しかし、半ばこの世から消え入っているような。覚えず気圧されたデイビスは、しばらく躊躇したが、やがて、自分の真実と思うことを口にする。


「——————できないよ……」


 カーテンが、さながら幽霊のように縺れ合い、宙を漂っていた。ぱらぱらと、テーブルの上に置かれたレシピ本がページをめくり、冷蔵庫に貼り付けられたメモや、折り目のついたテーブルクロスまでもを揺らした。

 しかし、儚く吹き流れる風の中で、ただひとつだけ、彼の頭上で、生き生きと輝きをこぼすものがあった。

 魔法使いの帽子。

 青い、蒼い、海のような、宇宙のような、無限の時空を孕んだ帽子。どこまでも深く、天鵞絨のようなマジェスティック・ブルー。そこにはイマジネーションが遊んで、絶えず銀の火花が散り、まるでペンキを跳ねあげるように、不思議な霊感を弾けさせた。

 ミッキーは、それをそっと手に取る。さる高名な魔法使いに弟子入りした時、その記念に貰ったのだと、彼女に自慢した時、ミニーは目をキラキラと輝かせて笑い、その晩は外に出て、星空を見あげながら、二人でいつまでも終わらない話をした。手のひらからほとばしる魔力よりも、彼女の言葉の方がずっと素晴らしい魔法なのだと、その時、胸いっぱいに味わった。時間の感覚など失くしてしまって、どこまでもどこまでも、彼女となら夢幻の世界を冒険することができる。銀河も、太陽も、美しい月光も、みんなこの手の中にある。思い描けば、夢は叶う。どんなことだって。そして、永遠とも思われる夜空の下、輝きに命を燃やすような光が幾千、幾万も瞬きを撒き散らして、この地球を包み込むのを目に映し、本当に自分は、なんて素敵なひとと出逢うことができたのだろうと、隣にいるミニーを見つめた。あまりに綺麗で、膨大すぎる星の中を飛翔するように、彼女とふたりきりでいることは、信じられないほどの奇蹟だと感じたのだ。

「僕、行くよ」

 沈黙を置いて、低い、力強い声が、その喉から漏れた。その目には、魔法使いの帽子から放たれる、神秘的な青い光芒が射し込み、まるで深海に光のヴェールが移ろって、心の最も奥深くに秘めていた宝物を、海中から照らし出したかのようだった。

「ミニーを助けなくちゃ。それに、この王国を——ヴィランズの好きになんてさせやしない」

「……ミッキー」

「ここは、ウォルトの王国なんだ。そしてこれは、ウォルトの夢なんだ。
 けして穢させない、その神聖なる場所を。だって彼の魔法は、今もここに生き続けているんだから」

 そう言って立ちあがるミッキーは————

 悩みもない。曇りもない。
 伝説に謳われる、勇者そのもの。武器でもなく、武勲でもなく、胸に宿る黄金の強さ、それこそが、彼の王者たる証なのだった。

 術者の想いに応じて、帽子が星屑の嵐を噴きあげる。鈴のように清冽な音が、空間をざわめかせ、電流の走ったように、大気を鼓動させた。

 振り向いたミッキーの瞳は、今や圧倒的な魔力を波打たせて、光り輝くほどだった。デイビスもスコットも、一瞬で悟る。これが、彼の本来の強さなのだと。闇の恐怖にも誘惑にも負けず、いつもまばゆい光が差して、自らに一筋の汚れも立ち入らせない。怒濤の、輝き。それは、世界を変える、その第一歩となる善の光だった。そして、その光さえあれば、絶望の前に震えても、何度でも立ちあがることができる。


「———二人とも。力を、貸してくれるかい?」


 ほとんど威光すらともなって響く、その言葉にに。

 デイビスとスコットは、互いに見つめ合うと、ニヤッと笑って、同時にミッキーと向き直った。

「わざわざ、返事なんているのかよ?」

「何のために、東京ディズニーランドまで呼ばれたと思うんだ」

「二人とも……」

 デイビスは、おどけたようにひょいと肩をすくめると、ミッキーに向かって、その手を差し伸べた。

「そんじゃま、誓いのポーズくらいやりますかね。ヒーローらしく、な」

 ふたたび、暗雲を打ち払い、この王国に希望をもたらすために。

 三人は手を伸ばし、ひとつに重ね合う。その温かさが、胸に刻み込まれた誓約の印になった。


 ————そして、彼らの夢と魔法の冒険は、ここから始まる。


 一人の魔法使い。
 一人の英雄。
 そして、すべての鍵を握る、一人の名もなき男。

 三人の運命が絡み合い、目指すは悪が住まう地下の城。それは笑いも、涙も、対立も入り混じる、長い長い、旅路の始まり。希望という名の魔法を追い求め、仲間とともに時空を超えながら、彼らはこの広大な王国、東京ディズニーランドを走り抜ける。

「よーし、悪いやつには負けないぞ!」

「おー、その調子だ。一緒に頑張ろうぜ!」

 彼らの誓いによって、部屋には無限の勇気が満ち溢れ、妖精の粉がきらきらと駆けめぐったかに思えた。この先、何が待ち受けていようが、確かにその瞬間は心強かった。まばゆさの中に、照らし出される、何もかも。きっと、湧き起こる心の力だけは、誰の手によっても掻き消さないのだろう。信じれば信じるほど、願えば願うほど、その優しいきらめきは、魂に皓々と光を投げかける。

(待っていて、ミニー。僕が君のことを、必ず助けに行くから。シンデレラ城まで、必ず辿り着いてみせるから——!)

 強く拳を握り締めるミッキーの決意は、この先、いかなる冒険の旅路においても、夜の中を導く星のように光り続けるであろう。どんな悪意を前にしても、どんな絶望に打ちひしがれたとしても。

 心に光がある限り、きっと、負けない。

 そしてミッキーとデイビスは、それまで黙っている人物に気がつき、ちらっと、スコットの方を振り向く。

「……が、がんばろー」

 たどたどしく声を合わせるスコット。どうもこういうノリは苦手らしい。

「よし、それじゃあ僕の家で、作戦を練ろうか」

「おー。ついでにシャワー浴びていいか? 煤が凄くってさ」

「もちろん。万全の準備を整えなくっちゃ」

 わいわいと騒ぎつつ、ミニーの家を出てゆく二人を見守りながら、スコットはその背後で、もう一度だけ、無惨に荒らされたドレッサーに散らばる、瓶のかけらを見つめた。もしも、これが自分の妻子であったら——そう考えただけでも、胸が軋むように痛む。ミニーの無事も心配だが、それ以上に重くのしかかるのは、これを見てなおも明るく振る舞おうとする、目の前のちいさな子どもの方だった。

(ミッキー。あまり、無理をするなよ)

 これがますます、彼を追い詰めるような結果にならなければよいのだが。デイビスの呼び声に応じ、スコットはようやく家を出て、頭上に広がる蒼穹を見あげた。壮大なディズニーランドの上を、さやさやと、風が通り抜けてゆく。その透き通る空気は、秋に咲き誇る薔薇から花弁をもぎ取り、項垂れるように舞い散る、枯れかかった花びらを、静かに揺らしていった。




NEXT→https://note.com/gegegeno6/n/na6e011416ec5

一覧→https://note.com/gegegeno6/m/m8c160062f22e





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?