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天皇の行方 第十章

著:GeArmy888



十 天皇の称号誕生

日本の天皇には「姓」がなく、古代シナ皇帝には「姓」があった。
古代シナ王朝が一姓であった。これがシナ皇帝と日本の天皇との、ひいては中国と日本の歴史の決定的な違いである。シナにおいて天下を取った
秦王は自らが名乗る新たな称号を考案した。それが「皇帝」であり、
皇帝の始祖である「始皇帝」であると自称した。皇帝とは全ての「王」の
上に君臨する最高の称号であり、「王」は皇帝の家来である。皇帝は臣下の者を各地を治める王として任命した。「冊書」という辞令で封じたので
これを「冊封」という。王朝が代わっても皇帝が王を封じる「冊封体制」は
引き継がれ、これはシナ本土の外の国々にまで及んだ。
周辺諸国がシナ朝廷に貢物を納めることを朝貢といい、皇帝から王に
封じてもらい、その権威で国を治めたのである。古代日本もその例外ではなく紀元五十七年に朝貢して印綬を与えたとされている。その金印には、
「漢倭奴国王」とあるが、「倭」は小人の意味であり、「奴」は奴隷の意味
であるので差別用語である。シナ皇帝は中華という世界唯一の文明に
君臨し、その周辺諸国は夷狄、蛮族であるというのがシナ王朝の世界観であった。これを「華夷秩序」という。しかし、戦乱により次々に王朝が交代
するシナに朝貢する意味も少なくなり、ワカタケル大王、雄略天皇の時代
には冊封体制から離脱したいという願望があった。実際に四百七十八年を
最後にシナへの冊封使は送られなくなった。その後、隋となったシナへ
遣隋使を派遣したのは六百年のことだが、その際にはいかなる冊封も
受けなかった。このときの天皇は推古天皇であり、その皇太子で摂政として
政治を司っていたのが聖徳太子だった。聖徳太子は六百七年に
第二回遣隋使として小野妹子を派遣する。その時に隋の皇帝にあてた
のがあの有名な国書である。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
これにより、皇帝は激怒した。日本が対等を主張してきたからである。
また、「日出ずる処」「日没する処」も対等な表現であり、「書致」も
対等な国家間の文言であった。そして、その半年後、聖徳太子は
第三回遣隋使を派遣する。そして、小野妹子を送り、国書にはこう記した。
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」
今度は相手を皇帝と記している。また、「敬白」は比較的対等な態度を維持しながら相手を尊重した表現である。ここで初めて「天皇」の名称が誕生
したのである。聖徳太子の第三回遣隋使の国書で皇帝の家来である「王」
ではなく、シナ皇帝と上下の区別がない「天皇」を名乗った。
そこに王を拒否した自前の称号を入れたのである。皇帝は天皇の称号を
正式に認めなかったが、結局は黙認の様な形で認めざるを得なかった。
こうして日本に天皇の称号が成立したのである。「天皇」とはシナの
「冊封体制」を抜け出した自主独立の君主であると宣言する称号だった
のである。


次回、第十一章「国体護持の必要性」
御清覧いただきありがとうございました。

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