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アルコール依存症だった両親。

私の両親は恋愛結婚だったそうだ。
ただ、いろいろと障害がありました。ひとつは父がまだ大学生だったこと。もうひとつは、母が身体障がいである、脳性麻痺だったこと。

まぁ、それは置いといて。
今回はその中で受けた、虐待案件。

父と母は普段は仲が良く、睦まじい感じではありましたが、お互いにお酒が入ると(しかも体質的には強いが酒乱の部類)時々ケンカをしたりしていた。
父は母からの口撃(なにしろ脳性麻痺で身体がそこまで動かない、少し手を降ったり、頭を振ったりその程度しか自分で動けませんでした)に対し、口数では勝てないと判断すると、アンガーマネジメントの範囲内に収まる時は、パチンコなどで出ていく。

その頃にはきょうだい唯一の小学生前後だったので、その出て行っている間、私が生命維持の為の補助(トイレ、水分補給)をしなければならなかった。
そのくらいならまだこんな家庭なので虐待とは言えない。ただ、自分の意思でこの家庭を選んだ訳ではないので、正直なところまだ遊びたい盛り。イヤではあった。
小さかったきょうだいの、ミルクもあげたりした。
悪い姉なので、母の排泄分は仕方ないとしても、きょうだいはオムツだったので、そこまではしたくなかった。今こそ思う。本当に申し訳ない。幼い自分ではそれくらいもううんざりしている部分があったのだ。

問題は夜中など、父に頭を冷やすストレスの発散のない時間のケンカだ。

時効だし、当事者たちはすでに亡くなったので今日は書きます。

幼くて何もできない(というか自分が手出しをしたら自分に矛先が向かったら太刀打ちできない)、そんな時に父は母を暴行したりなんて事、何度かあった。
そんな時は自分の存在を消すように、頭から布団を被る。目を背ける。
翌日とか、父がひととおり暴れたあと、寝たりした時、何度、母は生きているのか?大丈夫なのか?そんな心配をした日もあったし、バチ当たりだが、母の方が悪いよな…と思う日もありました。
顔が殴られて内出血していた時もあった。窒息させられて唇が紫だったぐらい、本当に父が殺人未遂を起こしたこともあった。
でも、幼い私(その頃は祖父母ともにまだ健在でしたが、車で1時間かかるくらいの距離でした)は、誰にも言えない。弱かった。そして父が怖かった。

母も母で、緊張型の脳性麻痺だったので、睡眠薬などを処方されていました。
世間一般の脳性麻痺のイメージと逆で、何もしなくても、普通の人と同じ丈夫さというか、語彙力がないのでこの表現は不適切は承知ですが、誤嚥して亡くなるという心配は少ないので、ちょっとの放置が命取りという訳ではなかった。

もうひとつの問題は、父が出て行った時。
母の指示で『ありったけの薬を飲ませて』と懇願されたことも幾度かありました。
本当に情けないですが、無力な子どもの頃。
酒も入っていてケンカの熱も冷めやらない、父も頭を冷やしに出ていっている間。逆らえずに飲ませざるをえませんでした。
そこまで強い薬ではなかったのか、たまたま致死量にはほど遠かったのか。それとも神様が『自分たちの子どもになんてことさせるんだ!』とお怒りだったせいかわかりません。そのうちの1〜2回くらいは、今で言うオーバードーズ状態で朦朧としていたこともありました。
記憶があまりにも昔だし、自分自身でもしっかり密封はしていないものの、蓋をしているので、ほとんどただの寝落ちで済みました。

でも、あまりにも憎い!苦しい!なんで私だけこれだけ年齢差あるんだ!ふざけるな!とふたりとも…!と思ったこともありました。
でもやっぱり、それでその頃は法律なんてわかんなかったし、それでも両親。
寝息を確認したら、『ああ、生きてるや』と、ホッとしつつも、少しガッカリしていた部分がなかったとは言いませんが、『やっぱり生きてて良かった…』と、何度も胸を撫で下ろしたか覚えていません。

そんな無茶苦茶な生活を繰り返しているうちに、母は十二指腸潰瘍で入院した。
退院した後からは、ケンカ自体も少しは減った記憶があります。お酒を飲み過ぎることが少なくなったのが原因かも知れません。
でも、オーバードーズの幇助はなくなったけれど、父は出ていく方が増えていたかもしれません。
無茶苦茶な暴力も減っていたと思います。

どうしても薬やお酒で過緊張の状態をほぐし、痛みなどから逃れていた生活。
母は退院から2年ほどで亡くなった。

まだ小学生の高学年の私と、未就学のきょうだい、父を残して。
私たち子どもらは、たまたま母方の祖母の住んでいる家に行っていた正月休み。
心不全だったか、心筋梗塞だったか。子どもだったので、詳しく聞かされないまま、大人たちはバタバタと葬式の準備。
私たち子ども組は事実を受け入れられていないし、きょうだいも幼いため、『死』というものを理解できていなかった。ただ、火葬場で遺骨となった母を見て、実感が初めて湧いたのは覚えている。遺骨を骨壷に納骨する前の、まだ熱が冷めやらぬ寝台。あの熱さは忘れられない。

徐々に日常を取り戻しつつ、父は今まで母の介護で、まともに働いた経験がない中、保育園の時間に間に合う仕事を始めた。
しかしまだ平成初期。周りの人たち(特に男性)はそんな社会での経験がまともにない父に心ない言葉を投げつけたらしい。

父は結果、働くことを辞めた。
まだ未就学児もいたこともあり、しばらくは生活保護で生活していた。幸い公営団地だったので、衣食住の心配は基本的になかった。

しかし、母を失った喪失感からか、元々の本人の気質もあったからなのか、アルコール依存、ギャンブル依存となった。
大きな声は言えないが、まだ現役時代の祖父母は共働きで資格の必要な仕事だったこともあり、不足分は補ってくれたり、週末の自分たちの休みの日は、年齢的にもゆっくりしたいはずなのに、自分たちの家に子どもたちを連れて帰り、面倒を見てくれていた。

しかし相変わらず父はアルコールに呑まれる。酒に呑まれて、幾度となく、生命の危機を感じたことがありました。
きょうだいでみんな空腹の中、寝たふりをしてやり過ごすこともありました。
父は元野球少年だったので、家にバットが置いてあり、そんな時はバットを廊下で引きずって歩いていた。

きょうだいたちも大きくなってくると、たまに友達の家を泊まり歩いていた。
ひとり働ける年齢に達していた私は、父がギャンブルで擦った為に止められた電気やガス代の補填、きょうだいの食費なども出した。
幸か不幸か、まともな定職につけない、しかし倫理観は中途半端にマトモな部分があったので、公共料金の滞納は酷かったが、闇金には手を出していなかったようだったので、そこは救われた。

それが影響しているのかわからないけれど、大人数でワイワイと円滑なコミュニケーションツールとしての適量のお酒は好きだが、ひとり呑みは苦手だ。

父も昨年、アルコール依存から抜け出すことなく、この世を去った。
冬の寒い日。子どもらは家庭を持ったり、仕事の都合で実家を離れていた。
孤独死だった。アルコール依存からかは詳細はわからないが、おそらく多臓器不全だという検死結果だった。

アルコール依存は何も残らない。
それ以来、もともとそんなにお酒は飲まない方だったが、さらに飲まなくなった。
たまにみんなで飲みに行ったり、ちょっと店頭で気になるフレーバーがある時くらい。
年に数回くらいしか飲もうと思わないし、なんで辛い気持ちもわかるけど、依存してしまうのかわからない。

お酒は過度に飲むとやはり人間を狂わせる。

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