見出し画像

ベトナム志士義人伝シリーズ⑤ ~鄧蔡珅(ダン・タイ・タン、Đặng Thái Thân)~

 ベトナムの独立運動家・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、「私の人生の中に於いて特別な存在と言える人が2人いる」と自伝書『自判』の中に書いています。一人は阮誠(グエン・タイン)氏(こちらをご参照ください。→ ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~|何祐子|note)。そして、もう一人が鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)氏です。

 潘佩珠は、1974年、自身が9歳の頃の『平西(ビンタイ)蜂起』の時、「仲間と共に学友らを集めて竹で銃を作りライチの種を弾にして≪平西≫ごっこ」をしていて先生に見つかりこっ酷く叱られた、と述懐しています。幼少の頃より侵略者・西洋フランス人を憎むこと甚だしく、祖国の光復、解放の志を早くから固めました。けれど、21歳から30歳の間は、「ひたすら息を潜め、身を隠していた時期」であり、老父と家族を養う為に田舎で塾を開いて生計を立てていました。しかし、「生涯の中で大得意と言える友人も、この頃の10年間に得た」と言い、文士仲間からの知己で知り合った魚海(グ・ハイ)氏(=鄧蔡珅のこと)を先の阮誠と共に、「各々個性は違えども、芯は相通ずるものがあり、両者共その精気溢れる声と姿は、誠に精彩を放っていた」、そう紹介しています。

 鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)氏は、抗仏党(=ベトナム光復会、維新会)が選出した使者・潘佩珠が日本へ渡った時の従者、曾抜虎(タン・バッ・ホー、こちら→ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子|note)以外のもう一人の使者、鄧子敬(ダン・トゥ・キン)の侄にあたります。翌年にクオン・デ候のフエ脱出を扶けダナンへ出て、そして南定(ナム・ディン)まで護衛したのが鄧蔡珅でした。
 「小舟に身を潜めてから7日目、やっと船が来ました。ダナンでの乗船時は、随行人の鄧子敬と鄧蔡珅と私の3人で商人に変装し、最下等席に乗り込みました。」     『クオン・デ候 革命の生涯』より

 ベトナム国内で『東遊運動』が宣伝され始め、どんどんとベトナム人留学生が日本に渡航して来ました。近衛文麿氏の御父上である近衛篤麿侯爵らが設立した『東亜同文書院』の『東京同文書院』に、留学生として受け入れて貰えることに決まり希望が射したも束の間、フランスが狡猾な妨害活動を開始します。フランス側からの圧力に屈した日本は、「ベトナム学生の解散命令」を出した為、これにより留学生の殆どが学業を断念して日本を退去したのです。
 フランスが国内外で開始した「ベトナム抗仏活動家潰し」は計画的且つ猛烈なものでした。その様子を伺わせるベトナムからの手紙が、日本退去後に香港に滞在していた潘佩珠の元に届きます。国内で実務を仕切っていた鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)からの手紙でした。
 「「トン・ニャムはフランスの公安に捕まえられ、孟慎翁は陣没、北部の黄花探(ホアン・ホア・タム)将軍は蕃昌屯に立てこもり孤軍奮闘、援軍と武器の到着を待っている」という、何れも鬼気胸に迫る悲壮な凶信であった。」             『潘佩珠伝』より

 そして、翌1910年、潘佩珠の元に、鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)死亡を知らせる同志からの来信が届きます。
 「さすがに豪胆な彼も、天涯憔悴、揮うべき涙も尽き、いたずらに脾肉蹉跎、生ある亦贅なり」と生きる苦しみを嘆じたのも、また無理からぬことであった。」 
 「最後の大黒柱とたのんでいた同郷の先輩魚海(=鄧蔡珅のこと)を失っては、両翼を失った鳥も同然、これ以後から彼の苦難時代が始まったと彼は言う。」
   『潘佩珠伝』より 

*************
 字は魚海(グ・ハイ)、乂安(ゲアン)省真禄県の人。
 鄧子敬(ダン・トゥ・キン)君の侄、潘巣南(=潘佩珠のこと)公門下の高弟である。
 性質は沈毅、言動は謹厳、人と交わればおだやかで誠意そのもの、附合うほどに親しみを益す、そんな人柄であった。
 天分はもとより優れ、少年の時からその文才は近隣に知れ渡り、皆君の文章を賞でた。だが文字で身を立てる気はさらさら無い。国亡び社むなしく、天も怒り人は憤る、祖国ベトナムの不幸の時、別に懐み抱く志があった。

 国内外に抗仏運動が広がり始めると、巣南を賛けて南に北に奔走し艱難辛苦を共にした。1903年に、共にフエに上京、会主クオン・デ候に謁見、候は、一目でその魁偉沈重の風格にほれ込んだ。
 一緒に日本へ渡るかと聞く潘佩珠に対して、
 「先生がお立ちになると、あとはどうなるかわかりません。私がついて行けば、誰が先生の後盾となるのですか」と辞した。国内に残り、党の組織、執務を引き受けて、険路を日々履んでゆくのである。

 1905年11月、巣南公が日本からゲアンに戻った。巣南からの書簡をフエに在る会主クオン・デ候へ届け、会主の日本渡航を謀る。翌元旦、フランスの偵察甚だ厳しかったので、ただ一人で会主を護って広南(クアン・ナム)へ、そして百余里を一日歩き通してダナンに着いた。汽船に乗船し一路海防(ハイ・フォン)、それから南定(ナム・ディン)へ向かう途上の水夫は、大抵が盗賊出身。傍に座り、一人夜通し徹夜してクオン・デ候を護った。

 南定で鄧子敬(ダン・トゥ・キン)に任を引き渡して、郷里に帰ってからは、同志の連絡、募金活動、昼夜関係なく寝食を忘れて党務に動いた。党には過激派も穏健派もあったが、この間を取り持ち党を支える幹部として、誰もが頼りにした。私心を棄てて、ひたすら国事を謀るその姿は、党の結合を日増しに厚くした。されば、その衆望に対してフランスが仕掛ける罠も日々深くなって行ったのだった。

 1910年2月のこと。ゲアンの町から一里程の村にある党の隠れ家の某宅。フランスは聞き込んで、この宅の下女を買収し、集客あれば知らせよと命じていた。
 この日、党務でこの宅の門に入り、席あたたむる間もなく、フランス兵500人が宅を取り囲んだ。一分の隙無く銃を敷き、生け捕る魂胆だった。
 一躍して屋根に潜むが、戸を蹴り破って入って来たフランスに捕らえられた。その時、危急に備えて肌身離さず持っていた6連発の短銃を構え、近寄ったフランス兵に向けて短銃を数弾放った。2人を斃し、見るとその斃れた兵の一人はベトナム人傭兵だった。
 「フランス兵と意ったに。同族同士で殺し合うなど耐え難いことだ!」
 そう叫ぶなり、その短銃を喉に当て、引き金を引いて、斃れた。
 時に37歳。

****************
 「越南義烈史」の著者、鄧搏鵬(ダン・ドアン・バン)氏
は、鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)の死に対してこう記しています。
 「自殺、それが責務を果たす魚海(グ・ハイ)君の初志だったのか。(中略)ああ、魚海君は道理、気魄、才識、どの点からもここで死んで名を残してはならなかった。しかし、このように死んで名を残した、、時勢の命運であろうか!君逝って既に十年、党勢は日に日に衰え革命の事業また失敗を重ねている。」
 「しかし君の死を鴻毛よりも軽い徒死とどうして言えよう。それは死におくれている罪、死におくれた者我らの罪なのだ。」

 鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)氏は、国内の活動に於いて、途轍もなく重要で大きな存在だったのかと思います。けれど彼は、フランスに雇われたベトナム人傭兵を殺した事を悔やんでその場で拳銃自殺を遂げてしまいました。

 クオン・デ候を護衛しながら、ダナンで船を待っていた時、悪天候の沖合を見つめ、鄧蔡珅(ダン・タイ・タン)が詠んだという詩が「越南義烈史(Việt Nam Nghĩa Liệt Sử)」に書き遺されています。

  天、人心を理むるは此の行に在り
  生霊(人民)と社稷(国家)は死か還た生か
  東宮(会主)の命運なお日に懸からば
  早かに洋船を給して彼の京(日本)に赴かしめよ

*************

ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~ |何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ② ~阮誠(グエン・タイン、Nguyễn Thành)~|何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ③ ~朱書同(チュ・トゥ・ドン)~|何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ④ ~陳東風(チャン・ドン・フォン,Trần Đông Phong)~|何祐子|note

 



 


 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?