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ベトナム華僑の歴史と・仏印客家(はっか)華僑の陳(チャン)家のこと

 以前、私の婚家『Hà(何、ハー)家』の歴史について、あれこれ想像を巡らしベトナム・サイゴンの婚家 ”HÀ(ハー)GIA=何(が)家”の歴史を辿るを纏めましたが、今日は以前より温めていた掲題、義母の母方の家系『Trần(陳、チャン)家』について想い出を交えつつ深堀りしてみたいと思います。。。😊😊

 義母の父は『Đỗ(杜、ド)』姓のベトナム人、母は『Trần(陳、チャン)』姓の華僑であり、幼い時に両親が早死にした為、より裕福だった母方の華僑・陳(チャン)家に引き取られて養育されたそうです。
 丁度、1945年頃ですね。。

 両親が早逝したので、漢語教育を受けられなかったそうで、義母はベトナム語のみでした。
 1975年以降、本家筋の親戚は殆どがフランスかアメリカに渡り越僑になってしまい、残った分家筋はホーチミン一区の近所に住んでましたが、もう全然裕福では無かったです。
 「その昔は、近辺一帯の土地・家屋は全部陳(チャン)の大叔母の所有だったねぇ。。」や、「大叔父はブン・タウで手広く漁業の元締めをしていたのよ。。」等々の昔話を聞いたことはありますが、、、
 私は、数年前からベトナム抗仏史を懸命に調べ始め、やっと『仏印の華僑』の存在を再認識しましたが後の祭りで、義母は既に他界し、詳しく話を聞くことはもう出来ません。。。

 えーと、、、😅
 ベトナム料理に、魚の塩辛とひき肉を混ぜた表面にとき卵を掛けて蒸した『Mắm chưng(マム・チュン)』という料理があります。
 夫と結婚してから、我が婚家『ハー家』マム・チュンが、街中の食堂で食べるマム・チュンとなんか違うなぁ。。どこのレストランにもないなぁ。。と思いつつも、20年近くそれほど気に掛けて来なかった、そんな数年前の或る日。。。
 懐かしいハノイ人の年配の友人が、久しぶりにホーチミン市に来るので、昔何度か連れて行って貰ったサイゴンとチョロンの丁度中間位置にある中華料理レストランに久々に行く事になりました。
 出て来た料理は、なんとびっくり、亡くなった義母の手料理の『Mắm chưng(マム・チュン)』ではないですか。。。😅
 ”あっーー!!”
とこの時初めて😅気が付き、レストランの表看板を見たら、『XXXX客家料理XXXX』と書いて有りました。。。

 それで、やっと義母の母方『Trần(陳、チャン)家』は、華僑は華僑でも客家(はっか)華僑だったのかーー、と解ったのでした。。。(笑)

 それが解かると、今まで夫や家族から聞いた母の親戚に纏わる話が全部辻褄が合って来る。。。ということで今日は、『仏印の華僑』に関する戦前日本の資料から『仏印の客家華僑』を見てみたいと思いますが、その前に、『仏印の華僑史』を、昭和15年中興館発行の『地理歴史 印度支那研究号』から要約、抜粋しておきます。⇩

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 「支那と仏印との間は、他の南洋地方と同様に、古来相互の交通があり、所謂朝貢貿易が行われた外に、支那勢力の南方進出に伴い、秦、漢前から唐、宋の交まで一千有余年を通じ、支那は今日のトンキン地方を中心に地方官を駐派し、植民地を建設し、その後19世紀の末葉から仏領時代前まではなお宗主権を有したようにその関係は密接であった。
 史に徴すれば
秦の始皇帝の時代(BC214年)…(中略)。支那人の仏印地方へ移住したのは、宋末から漸く多く、明末清初にその数を頓に増加したのである。即ち、宋が元に亡されたときには、宋の遺臣文武官の多くは難を占城(チャンパ=ダナン辺り)、交趾(=当時はトンキン辺り)に避け、又広東、福建等人民の移住するものは土民婦女と結婚し家を為したのである。
 而して本格的に支那人が仏印に対し集団移民を開拓した史実は清初1680年に明の遺臣約3千名がツーラン(=ダナン)に上陸し、フエ王朝の帰順を申し出、(中略)この移民は自治制を施くことを得、相当繁栄した。
 …その後太平乱当時(1856年)安南王は、フランス軍と事を構えるに及んでトンキン方面の叛乱を鎮圧するに雲南の太平乱の徒党を利用し、クアン・エン、ソン・タイ、タイ・グエンなどを平定し、その功に依って彼らはその地方へ移住を認められた。
 …安南朝時代は華僑に対して1814年に郷貫別又は言語別に依って一種のギルドである幫(ほう)の組織を認め、華僑部落の自治的職務を行わしめたのである。」

     井出季和太著『仏印の華僑 華僑略史』より

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 長い歴史の中で、地続きの支那大陸で政変のある度に相当数の移民が入って来たことは、ベトナム歴史家である陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』にも書いて有りますが、なかでも特筆すべき集団大移動が何度かありました。

 元(モンゴル)に滅ぼされた宋の将軍が、チャン・フン・ダオ軍の加勢をし、陳朝ベトナムがモンゴル襲来を2度に亘って撃退した歴史はこちら⇒元寇を破った国 日本とベトナムに書きました。

 明末清初の移動は、明の遺臣、楊彦迪と陳安平に率いられた3千人の集団移住のこと。初めは、現在の南部ビエン・ホアとミト地方に定住、土地を開拓し、商売も繁栄し、コーチシナの河川合流地にも町を築きました、それが堤岸(ショロン)=現在のホーチミン市5区の中華人街チョ・ロン(Chợ Lớn)です。
 1715年頃には、当時カンボジア領のハ・ティエンを占領し、ラック・ザー、カ・マウに進出しました。

 続いて清国時代、太平天国の黒旗軍引き入る劉永福将軍黄旗軍など、敗残兵が流れ込んで来て北部ベトナムで乱暴狼藉を働いたり、時には清越軍に雇われて侵略者フランス軍と戦った史実あり。主に広西省・雲南省出身だった兵士達は、そのまま北部ベトナムに住み着いた者も多く、現地女子と結婚し、その子孫は主に農業に従事したそうです。

 さて、私の義母の、『仏印の客家華僑』はどこだ~?ですケド、、⇩

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 「仏印の華僑は主に広東、潮州及び福建より来たものであるが、その他客家、海南島の出身者も若干ある。広東出身の華僑は、商工業に従事するものが最も多く、サイゴン、チョロンの米店、布店、材木店、磚瓦製造、石灰製造、小舟製造、毛皮獣骨類、その他各種の土産物の製造及び販売、その他石工、木工、裁縫、製靴等の大多数は広東人の経営に属する。(中略)客家人(広東省東北部一帯の出身者)は、サイゴン、チョロンに於いて商店の経営に当たり、殊に茶商は殆ど彼等の独占するところである。又農業労働、各種の工芸に従事している者もある。」
 
 満鉄東亜経済調査局『南洋叢書 仏領印度支那篇』

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 。。。『仏印の客家』発見です。。😅 
 確かに義母は『お茶の味』には煩くて拘りがあったなぁ。。
 大叔父の漁業に関しては、同書中にこんな記述も発見。⇩

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 「華僑が直接生産に従事する職業としては、農業と漁業がある。
 農業に於いては、彼等は胡椒、蔬菜類の栽培に従事し、漁業に於いてはトンキン湾、安南沿岸、更に暹羅(シャム)漁業に活躍している。遠洋漁業で安南人が宗教的慣習に災いされ、近海漁業で甘んじていることは既に述べた。斯くて遠洋漁業に於ける華僑の地位が明かになってくる。」

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 。。。ということで、1975年以前のブン・タウ漁業組合の大元締めの一人は、義母方、陳(チャン)の大叔父で間違いなさそうです。。😅😅

 さて、次は上述の「安南朝時代は華僑に対して1814年に郷貫別又は言語別に依って一種のギルドである幫(ほう)の組織を認め、華僑部落の自治的職務を行わしめたのである。」とある、
 『一種のギルドである幫(ほう)の組織』
です。

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 「幫(ほう)の制度

 この制度は1814年(嘉隆(ザー・ロン)王13年)に制定され、フランスが承継したもので、1928年9月25日総督令は安南において之を左の如く規定した。

 第一章 安南における亜細亜外国人永住条件
   第一条 安南に永住を欲する亜細亜外国人に対しては毎年1月1日更新し得べき個人在留証明書を下附せらる。
   第二条 …華僑のため認定せられたる幫は左の4種とす。 海南幫、潮州幫、広東幫、福建幫、及びクアン・ナム、ダラットにおける客家幫。…
   第三条
 幫は幫長及び幫全員の連帯責任において幫員の負う対人税の全額に対し、金銭上の責任を有す。」
  
満鉄東亜経済調査局『南洋叢書 仏領印度支那篇』

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 幫(ほう)フランス語で『Congrégation』、グループの意味です。
 
 「即ち同一地方地方語に属する華僑を以て幫(ほう)を組織せしめ、幫長に幫員の秩序の維持、人頭税の徴集の責任を負わしめ、以て華僑の監督、取り締まりを徹底せんとの意図に致したもの」
 
とありますが、元々フランスからやって来たフランス人が、フランス語でいきなりベトナム人を統治できた訳はなく、商業的才幹あり、現地慣習言語に習熟する華僑を買辨として企業で雇用するなど間接統治に大いに役立てていた訳です。しかし、後に徐々に移民規制をはじめ、仏印華僑に掛けた高額な人頭税の徴収と取り締まりの為に、『幫(ほう、はん)』という連帯責任制度を再整備した、と言う流れみたいです。。

 そういえば、陳本家の跡取りだった叔父さんは、当時在インドシナの某フランス系石油会社にお勤めで、サイゴン陥落(1975年)時はフランス政府のヘリコプターで脱出、そのままフランスへ亡命しました。息子2人も其々留学先のフランスでそのまま亡命申請したので、サイゴンの不動産と膨大な財産は全てキレイに北部共産党政府に没収されましたそうです。。😑😑🤐
 
 中華革命党の孫文も、確か客家(はっか)でしたね。孫文が一時期仏領インドシナに亡命した時、サイゴンで彼の面倒を見ただろう仏印華僑篤志家名簿には、きっと義母方の陳(チャン)家の名もあったんじゃないかなぁ。。。😅😅😅

 それはさて置き、上述⇧に、『…及びクアン・ナム、ダラットにおける客家幫』と、、、、『客家(はっか)幫』発見です。。。
 
しかし、クアン・ナム、ダラットなら、中部地方だなぁ。。。と思ったら、こんな文章も。

 「又乾隆帝43年(1778)、西山(タイ・ソン)の乱に逃れた支那人の一隊は、堤岸(ショロン)に移住したが、間もなく西山一派の跳梁に依って難に倒れた華僑は一万を超えたと云われた。」

 以前にこの、クイ・ニョン辺に起こった『西山(タイ・ソン)グエン兄弟の乱』のことをここに⇒江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝頃のベトナム その③「南瓢記(なんぴょうき)」少し書きましたが、もしかしたら、義母の陳(チャン)一族は、この頃に中部地方からサイゴンに逃れたグループの一つだった可能性も有るのかなぁ。。。

 と、、今日はあくまでも、個人的な思い出ベースに想像を膨らませて『私のサイゴン備忘録』を書いて見ました。😃

  実際、私の義母は、自分が華僑系だったことなど全然意識してなかったし、殆ど忘れてました。それはやはり、幼少時に漢語を習わなかったせいでしょうか。そう考えると、人間のアイデンティティの形勢に『言語』の役割は非常に大きいのかと思います。
 現在、陳本家の欧州越僑の方々も、もう皆さんベトナム語は片言で、元々非常に背が高い家系で眼も髪もどことなく色素が薄く、『アジア人』でもなく『白人』でもない、その中間的な雰囲気です。。
 この本家の一人娘はイタリア人と結婚してスイス在住。だから、私の義母の、仏印客家陳家の歴史は多分ここで終了かと思います。

 おまけ:一番上に張り付けた写真は昭和15年(1940)以前のサイゴン・チョロンの支那人商店の写真。ですが…、今も雰囲気は殆ど変わってないですよね。(笑) 
 
 

 

 
 

 

 

 



 
 
 
 
 

 
 

 


 


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