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元寇を破った国 日本とベトナム

 先日投稿しましたこちらの記事→「安南民族運動史」(7)~ベトナム略史・呉朝からフランス東侵まで~|何祐子|note、で、大岩誠氏著『安南民族運動史概説』(1941)の一節をご紹介しましたが、その中で大岩氏が
 「陳(チャン)朝の時代に蒙古軍が前後2回に亘って来襲したが、能く之を撃退し」
 と、「ベトナムの元寇襲来」に言及されていました。

 日本と同じくベトナムも、世界最強と謳われた当時の『モンゴル軍』を2度に亘り撃退しましたが、何故か日本では😅この史実が殆ど知られてませんので、ベトナムの歴史書『ベトナム史略』とその他の書籍から色々抜粋して少しご紹介したいと思います。

 日本の鎌倉時代中期、ベトナムは『陳(チャン)朝』の統治時代です。
 李(リ)朝の後、陳朝の祖は陳太祖(チャン・タイ・ト)、その子の陳太宗(チャン・タイ・トン)が初代皇帝に即位します。その孫で三代目皇帝の仁宗(ニャン・トン)帝(在位1285-1293)の時に、1279年に南宋を滅ぼして中国大陸を制覇した元(げん)が、1284年北方から襲来しました。

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 陳太宗帝崩御の報を聞いた元帝(フ(ク)ビライ・ハン)は、使者の柴椿を遣わし、仁宗帝の伺候と朝貢を求めたが、仁宗帝は応じなかった。伺候の代わりに金、真珠、賢人、陰陽師、優秀な技師などを朝貢するよう求めたが、仁宗帝がこれにも応えなかった為、安南征伐へ大軍を送ることを決定した。
 モンゴル軍の将、脱驩を鎮南王に任じて、唆都と烏馬兒(ウマル)に50万兵を預け、「占城(チャンパ)征伐の為」と嘘の理由をつけ、安南国土内の大軍通過を申し込れて来た。        
『ベトナム史略』より

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 この報を聞いた仁宗帝は、各諸侯を集めて会議を開きます。噂に聞くモンゴル軍だ、、”通らせてあげたらいいじゃないか、、、”とか、”早く朝貢して兵を引き上げてもらおう、、、”という弱気な意見が出たそうです。その中で威勢よく徹底抗戦を主張する2人がいました。その名は、『陳国峻(チャン・クオック・トアン)と陳慶餘(チャン・カイン・ズ)。仁宗帝は2人の意見を入れ、1283年10月陳国峻を興道王(フン・ダオ・ブオン)に奉じました。これが、有名な陳興道(チャン・フン・ダオ)将軍です。現在ホーチミン市一区ベン・タイン市場ロータリーから5区へ続く大通りの名と、川沿いに銅像も建ってますね。ベトナムで最も有名な民族英雄の一人です。
 興道王は、部下を北部国境各地の警備に配置し、自身の大軍を海洋(ハイ・ズォン)省の萬刼(バン・キエップ)に置きました。

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 元軍は2手に分かれて来た。一方は、唆都率いる10万兵が広州から海路を取り中部の占城(チャンパ)領地から侵入。もう一方は脱驩の大軍が、鎮南関まで来て使者を出し、またも占城征伐の為と称して通過許可を願い出た。
 仁宗帝は、”我が国から占城へ行くには、水陸両路とも不便でございます”と返事をした。これに怒った脱驩は、ラン・ソンまで兵を進め、使者を送ってこう脅しをかけた。”占城征伐に行くにただ道を借りたいと申し出ておるのだ、何も他意はない。それでも、関を開けぬ、天兵に敵対すと申すならもう容赦はせぬ、ぶち壊して通るまで。その時になって後悔しても知らぬぞ”            
 『ベトナム史略』より

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 この脅し文句に、なんと興道王の闘志は更に燃え上がりました。各要所でせっせと要塞を固め始めます。この様子を見た元軍の脱驩は、安南軍への攻撃を開始します。この初戦の各所で興道王と家来の将らは負けてしまい、萬刼(バン・キエップ)陣地一か所へ全軍後退しました。興道王が負け帰ったと聞いた仁宗帝は、元への降伏を口にします。

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 仁宗帝は、自国の軍が負け帰った様子を見て怖れを抱き、興道王にこう言った。”敵は大軍で押し寄せて来ている。抵抗すれば、民に被害が出るだろう。この期に及んでは、民を救う為、朕が降伏を受け入れよう” 
 興道王は、これに応えて言った。”陛下のお言葉は誠に仁徳に叶っております。しかし、宗廟(そうびょう)社稷(しゃしょく)は如何なさるおつもりか? もし陛下が降伏なさりたいなら、行く前に私の首を刎ね、それから降伏しに行かれたし!
                                 『ベトナム史略』より

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 仁宗帝は、興道王の忠烈な迫力に圧倒されました。興道王は、各諸侯将士らを呼び集め、20万兵で軍の建て直しをします。そして自ら『兵書要略』『檄将士文』を記し各将士に訴えました。原文は漢語で、ベトナム語(『Binh thư yếu lược』『Hịch tướng sĩ văn』)に翻訳もされています。『檄将士文』の長い文章の中に、「あれ?これ今の日本の事、、??」と思う様な興味深い部分がありますので、抜粋してみます。。

 「…今の皆々は、主が辱めを受けても心を痛めず、国士ともあろうに恥を忘れた者、将の身でありながら敵に伺候する者、怒りを忘れ、耳に偽使者の言を聞くもこれを拒まず、闘鶏にうつつを抜かしたり、賭博で気晴らしをしたり、或いは田畑を耕すを世情の歓びとし、或いは妻子供に愛情を注ぎ、或いは私欲のみに走って国を忘れ、或いは狩猟に夢中で兵役を忘れ、或いは美酒に酔い、或いは歌を愛好する。
 もし敵が来たらどうなろうか? 鶏の爪で、敵の鎧兜を突き刺すのか? 博打のルールが何か軍策に役立つのか? 田畑は豊かに広がるが、金で買わせてなどくれないだろう、しかも妻は子供を抱っこしながら、国の大惨事に至って何を考える? 金銀財産で敵の頭を買うつもりか? 猟犬を使って仇敵を殺るつもりか? 美酒で敵を酔殺するか? 歌声は敵の鼓膜を破れるか? 
 はたと気が付いた時には、我等の領地は消え失せ、皆々の俸給も尽き果てて、我等眷属が追い出されるだけでは済まない、皆々の妻子供は危険な目に遭うだろう、今現在の我等だけが辱めを受けるだけではない、百年後までこの汚名が語り継がれ、それでも家名は汚れたまま、いつまでもこれを払拭出来得ずに、そうなった頃に皆々は、もう何かを楽しもうとか、私欲を満たそうなど、そんな気力はとっくに消え失せていることだろう。」
   
陳興道(チャン・フン・ダオ)『檄将士文』より

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 興道王の訓諭に心動かされた各諸侯、将士らは、その日より祖国防衛の軍備強化に取り組みます。各自の腕には、『殺韃(サッ・ダッ)』(=モンゴル軍を殺せ)の腕章を巻きました。既にラン・ソン地方の鎮南関を落とした脱驩が、安南側陣地、萬刼(バン・キエップ)へ攻め込み訓練の未熟な安南兵を蹴散らし捕えますが、安南兵の腕には「殺韃」の2文字。即座に殺されてしまいます。脱驩のモンゴル元軍は昇龍(タン・ロン)(=ハノイのこと)城下に迫り、城を落としますが、上帝と仁宗帝は城外へ逃れ無事でした。
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 唆都のモンゴル第2軍は、海路から占城(チャンパ)に侵入したが、占城軍の防衛が固いため、陸路で乂安(ゲ・アン)まで出て脱驩軍に合流した。そこでモンゴル軍は、烏馬兒軍が海岸からこれに加勢して、一気に安南軍へ総攻撃をかけることにした。
 陳光啓(チャン・クアン・カイ)将軍の軍がゲ・アンに入るが、元軍の勢に敵わず後退すると、味方の官は元軍へ投降してしまった。
 しかしこの時、ラン・ソンの地侯阮世禄(グエン・テ・ロック)と阮領(グエン・リン)が、手勢の兵を出し元軍を攻め立てた為、元軍はこの勢いに押されて敗走した。
 だが、モンゴル元軍の勢はますます膨張し、各地に兵営した。この様子を見た陳皇族の中には敵将へ降伏する者も出た。そのような状況になっても興道王は、帝を匿った小船を護衛し、雨風に耐え、ますます心を固く千載一遇の機を伺っていた。
 正に大将の器、救民救国の英雄の名声、千年も語り継がれるに相応しい人物だと言えるだろう。      
『ベトナム史略』より

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 ゲ・アンでの戦いが長引いた為、食料に欠乏し始めたモンゴル元軍は海路で北上します。この報を聞いた安南軍は、一計を案じ、ャン・ニャット・ズァット、陳国瓚(チャン・クオック・トアン)、阮蒯(グエン・コァイ)に5万兵を授けて海洋(ハイ・ズォン)省へ向かわせました。

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 1285年4月、フン・イン省の川岸で元の唆都軍と出くわしたが、この時の安南軍側には、宋の将、趙忠(ちょう・ちゅう)がいた。宋から加勢に来た趙忠は、宋の軍人と全く同じ様に弓を掛けた軍服を着ていたので、戦の中でこの趙忠の姿を見たモンゴル軍は、宋が支那を恢復し安南を扶けに来たのだと思い込み、敵兵は怖れを成して皆逃げ出してしまった。逃げ出す兵を安南軍が追撃したため、敵軍は甚大な被害を出し北へ後退した。
 この勝利の報が伝わると、興道王は喜んで帝へ奏上した。”我が軍が初めて勝ちました、軍の士気は極めて盛んで、敵は負けを引いたばかり。今こそ大軍を出して昇龍を奪回できましょう”

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 この後、安南軍は章揚(チュォン・ズォン)渡の戦いでも勝利を納め、昇龍(ハノイ)城を恢復しました。この時の安南軍の将は范五老(ファン・グー・ラオ)。現在のホーチミン市1区の西洋人バックパッカー街通りでおなじみの名前です。。😅

 しかし、ここまでずっと劣勢だった安南軍を勝利に導いたのは、先に支那で滅んだ「南宋」の将軍、趙忠とその軍勢だったとは、あまり知られていない史実です。
 実は、明治時代末に日本に渡航して来たベトナムの皇子、クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』には、宋に関するこんな一節があるのです。
 「西湖十景以外にも名勝地が沢山有るが、最も有名なのは岳王廟。宋代の忠臣、岳飛(がくひ)の墓です。尽忠報国の臣、岳飛は、金族(女真族)を打ち破った名将だっ たが、佞臣泰檜(しんかい)の諜計に掛かり殺されてしまった。けれど、この現代に於いては、廟を訪れる誰もが岳飛の墓前に来ると、皆お辞儀をして敬慕の礼を表して行きます。反対に、岳飛の墓の出口付近に置かれた泰檜夫婦の像は、皆が小石を投げつけるので、鉄製の像にも関わらず鼻や顔が欠け崩れ落ち薄汚れてしまっている。
 廟に、支那人のこんな対句があります。
 『黄泉(青山)有幸埋忠骨 黒(白)鐵無 (无)辜鋳佞臣』
 -黄泉は忠骨(忠義の臣の骨)が埋められて幸せだ。無辜の鉄は佞臣に鋳造され殊更不運である-」

 第14章「シナに渡り、そして再び日本へ」の中で、1923年頃に当時の北洋軍閥の一人、呉佩孚(ご・はいふ)に会いに洛陽へ行った時のことが書いてあります。洛陽滞在は3日間のみですぐに杭州へ戻ったそうですが、自伝の全篇を通して、滅多に昔話とかセンチメンタルな感傷を軽々しく語らない実に男臭い性格が滲み出るクオン・デ候ですが、この章だけは例外で、杭州の観光地『西湖十景』と『岳王廟』について特に詳しく触れているのが、上⇧の文章です。
 幼少の頃から聡明で非常な読書家だったようですので、国許で読んだ偉人伝に言及しています。
 「…ベトナム史の中で、私が最も敬愛する人物は、李常傑(リ・トゥン・キェット)、陳国峻(チャン・クォッ ク・トアン=陳興道 チャン・フン・ダオ)。中国史では、張良、諸葛亮(=諸葛孔明)、日本史では、楠正成、豊臣秀吉、吉田松陰、西郷隆盛。西洋史では、カブール、ビスマルク、ワシントン、リンカーンがとても好きでした。」

 「宋」という国が『武士道』の源だといつか本で読んだ記憶があります。祖国を無くした宋の将、趙忠が、ベトナム亡国の危機に駆け付けてくれました。そのお蔭でモンゴル軍を撃退できた。。。この700年前の史実のことを、クオン・デ候はこの時の杭州で思い出していたのかもしれません。。。😭😭

 その後の安南軍の追討軍に大負けしたモンゴル元軍は、1285年支那に引き上げましたが、負けを取り返すべく1287年に安南国へ再襲来します。この時の元軍は、脱驩を大元帥に奉じて7万兵と5百戦船、雲南兵6千人に周辺省兵1万5千人などからなる合計30万の大軍勢でした。

 2年後再び襲来した元軍を、安南軍が完璧に打破したのが『白藤(バク・ダン)江の戦い』です。先の記事を読んで頂いた方はお気付きかもしれませんが、千年続いた『北属(=中国属国)時代』を終わらせた呉氏の呉権(ゴ・クエン)が南漢水軍を打ち破った(938年)戦いと同じ場所・同じ方法です。ですので、ベトナム人に取って『白藤江』は、歴史的に非常に大きな意味を持っています。

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 やがて1287年5月、再びモンゴル元軍が陸・海両面から来襲した。
 安南軍は、元軍侵攻を阻止し輸送船団を撃破し兵糧供給を絶つと、敵軍は総退却を始めた。
                           『ベトナム人名人物辞典』より
 
 興道王は、一計を案じた。将の阮蒯(グエン・コアイ)を白藤江上流へ先周りさせ、川中に先の尖った木の杭を沢山打ち込ませた。敵兵が来たら、伏兵が満潮時に挑発し、川中の杭を打った場所を越えさせ、干潮時に一斉に反撃に出る。さらに、范五老(ファン・グー・ラオ)らをラン・ソンの関に伏せさせて、逃げて来る元軍を待ち構えて撃つことにした。
 そうして、烏馬兒(ウマル)の戦船団が白藤江に姿を現すと、阮蒯軍は出でてこれを挑発した。この時は満潮で、一面に張った水面の中を、烏馬兒は怒りに任せどんどんと追い駆けて川中に進んで行った。敵船団が杭を打った場所を越えたのを見ると、阮蒯軍は反撃に出て、暫くは五分五分の戦いが続くうちに、興道王の大軍が到着した。それを見た元軍は、翻って退却をしようしたが、川は既に干潮、元軍の船は水面から飛び出た鋭い杭に阻まれて次々とひっくり返って破損した。この戦いで、白藤江の水面は元軍兵の血で真っ赤に染まったと云う。
             
 『ベトナム史略』より

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 白藤江の戦いでの大勝利に加え、退却する敵将の多くを生け捕り、或いは戦死させました。
 こうして2度の元寇来襲から国を守った安南=ベトナムでしたが、これで元寇が終わる訳では無い、元は強国で安南は小国だ、戦い続けてもいつ終わるか、民は常に恐怖に慄き暮らすことになるだろう、、、ということで、結局1288年10月に陳仁宗帝から元に使者を送り、昔通りに朝貢を願い出たということです。安南国兵の強さに恐れ入った元帝は、この申し込みを受け入れ和睦したそうです。

 今回は題名を『元寇を破った国 日本とベトナム』にしました。😅
 日本もベトナムも、2度の元寇襲来を2度とも打ち破りましたが、「元(げん)」が攻めて負けた国に共に「(陳氏の将)阮(げん)氏」「(北条氏の将)源(げん)氏」がいまして、現代ベトナム語(ローマ字化文字)だと判り易いですが、
 元=Nguyên=グエン=げん
 阮=Nguyễn=グエン=げん
 源=Nguyền=グエン=げん=沅

 『げん・げん・げん』で、3者仲良くほぼ同じ。「あら、偶然ねー。」💦💦😅😵‍💫😵‍💫 なのかなあ、、と暇人主婦の私はずっと考えてます。。特にベトナムの『阮(グエン)』性は、『おおざとへん』に「元」。。そして、フランスの戦前研究ではベトナム人の祖先の一部はチベット辺りから南下と、満鉄の戦前研究書物にも蒙古辺りから南下とあり。😅😅😅(!?)
 

 
 

 
 
 
 
 

 

 


 



    
 
 
 
 

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