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「安南民族運動史」(7)~ベトナム略史・呉朝からフランス東侵まで~

 唐の末、わが(日本皇紀)1599年(939)に、呉權(ゴ・クエン、Ngô Quyền)は独立の旗を翻して支那の覇絆を脱し、初めて南越に国民国家を建設した。その後、南越王朝は丁(ディン)、前黎(レ)など、1,2代で倒れる王家が続いたが、1669年(1009)李太祖が起こって李朝を創めるに至って越南国の国礎は固まった。
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(大岩誠先生の「越南民族運動史概説」は、年代は皇紀です。。😅)

 
その(6)から続き、ベトナム略史です。
 中国大陸は後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五季時代(907‐959)、ここまで1000年間続いた北属(中国の属国)時代を終了させた「呉権(ゴ・クエン)」氏とは、一体どんな人物だったのでしょうか?

 「北部ベトナム、山西(ソン・タイ)県の唐林村出身。939年南漢軍の弘操太子率いる水軍15万を「白藤(バック・ダン)江」の河口において撃退した。呉権は、自ら王と称し、都を古螺(コ・ロア)に置いた。」
 
 これ⇧は、西川寛生氏の「ベトナム人名人物辞典」から要約しました。
 ベトナムが南漢軍を破った「白藤(バック・ダン)江の戦い」はベトナム史上大変有名な出来事です。ベトナム史では、呉権(ゴ・クエン)が呉朝を開き独立(939年)してからを「自主時代」と名付けています。
 呉朝は長く続きませんでしたが、それでもその後、丁(ディン)朝(968-980年)、前黎朝(980-1009年)、李(リ)朝(1010-1225年)と独立を守り、自主時代は続きました。
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 武威を中外に輝かして近隣諸国を征服し次いで陳、後黎の王朝が立つに及んで、愈々国運が盛んになり、交趾さてはベトナムの北部を征服し、次第に南方にも勢力を及ぼし、1800年(1140)年代から2300年代ゆう)を圧迫して、国境を中部安南地方から南へ拡大し、2374年(1714)には遂に林邑を滅して領土とした。これと前後してカンボジアもベトナム国の附庸国となった。

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 李朝の後は、前陳(チャン)朝(1225-1400年)、胡(ホ)朝(1400-1407年) 、後陳(チャン)朝(1400-1413年)まで自主時代は続きます。自主時代下で国内政治は取敢えず安定し、国運盛んとなり領土を南へ拡大したことが、『越南史略』に書かれています。⇩

 「ベトナム民族の人口は日に日に増えていくが、北方は強勢を誇る支那勢力、西方は深い森で覆われた険しい山岳地帯であり往来も困難であった。そのため、南へ南へと南下して行き、林邑、占城(チャンパ)民族を打ち払い、真臘(しんろう=古クメール)の領土を占領して現在の国土を持つに至る。」
 この⇧出来事をベトナム史では『南進(ナム・ティエン)』と呼んでいます。
 ベトナム国の皇子、クオン・デ候も、自伝の中でこの『南進』に言及しています。
 「阮淦(グエン・キム)公の次男、阮潢(グエン・ホアン)は、1611年チャンパ国領土へ進軍し、その土地に富燕(フー・イン)府を設置します。これが我々祖国南進の始動となったのです。」
          『クオン・デ 革命の生涯』より
 
 余談ですが、上の⇧「自主時代」の中に胡(ホ)朝(1400-1407年)がありますね。開祖は元の名を胡興逸(ホ・フン・ダット)と言い、五季時代の頃に浙江省から移り住み、何代目かで黎性となり黎季犂(レ・クイ・リ)を名乗っていました。陳朝皇帝の親戚筋となって重用され、結局幼帝を廃帝し自ら皇帝を名乗ります。要するに『皇位簒奪』しまして、黎(レ)性から元の性の胡(ホ)性に戻り「胡」性の中国出自は「虞(グ)」なので、胡朝の国号は「大虞(ダイ・グ)」です。
 割と有名なその史実があり、ベトナム史の中では呉権(ゴ・クエン)とか、黎利(レ・ロイ)などの様な華々しい英雄伝も何も無く、、、しかもあろうことに元寇から祖国を守った陳(チャン)朝の幼帝から皇位を簒奪したという、ちょっと残念な、しかも非常な短期王朝の朝。。
 ベトナム史から見ますと、元々は阮悉誠(グエン・タッ・タイン)→ 阮愛国(グエン・アイ・コック)と、立派な阮性を持っていた(とされる😅😅)のに、わざわざよりによって「胡志明(ホー・チ・ミン)」に変名したホーおじさんの真理は如何に? と、田舎の主婦はまだこの謎が解けません。😵‍💫😵‍💫

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 陳朝の時代に蒙古軍が前後2回に亘って来襲したが、能く之を撃退し、また陳朝の亡びたとき其の国内の紛乱に乗じて、明の永楽帝が平定して自国の郡県としたが、箕年ならずして叛乱相次ぎ、後黎王朝の祖たる黎太祖が民衆のなかに漲る民族感情の力を以て支那に抗し、遂に独立して大越国と号したように自主精神は頗る盛んであった。この精神は常に国民のうちに承け継がれていて、王朝はその後、権臣の内乱によって廃せられ、現在の王朝阮(グエン)家が支配者となったが、依然として民衆のもつ固有の民族精神は失われていず、常にフランスの圧力の間隙を縫って奔り出るのであった。

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 当時のモンゴル元軍襲来を撃退した国が、世界で2つだけありました。はい、そうです、日本とベトナムです。 。。
 ええと、、、、💦💦何故かベトナムの元寇撃退は案外知られていませんので、いつか別途記事に纏めてみたいと思います。💦💦

 後黎(レ)朝の1414年に、支那大陸を制覇した明から支配を受けましたが、その4年後、抵抗に立ち上がり抗戦10年、再び自主を取り戻したベトナム民族的英雄が黎利(レ・ロイ、黎太祖) です。
 この抗戦10年間は、『ベトナム人名人物辞典』によりますと明軍の連戦連敗なんですね。。💦 1427年の最後は、明軍から書を送り講和を申し込んで、明軍の全面撤退後、黎利は皇帝に就き、国号を「大越(ダイべト)」、都を「東京(トンキン)」に置きました。

 『ベトナム史略』のチャン・チョン・キム氏は、ベトナム民族の独立精神について、
 「北部から南部に至るまで、同じ風習を持ち、同じ言語を使用して来た我国は、全国民で民族の記念をずっと分かち合って来たのだ。我々の祖国統一への思いは、古代興隆期より最期に至るまで微塵も変わる事はないだろう。」
 大変力強いこのような言葉で表現しています。
 私もベトナムに長く暮らして実感しましたが、ベトナム人は一見ふわっとしていながら内側は本当に忍耐強く、志はちょっとやそっとでは簡単に曲げない人達です。。。
 
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 2260年代(1600)、フランスは英国と争ってインドの攻略を志したが、国力殊に海軍力の相違によって脆くも圧倒せられ、矛先を一転して支那を南部から衝く戦略を樹て、インドシナ半島をその前進基地として選んだのである。
 近年まで国家の存続を保ち得て来たベトナム国も、2千年(14世紀)以来ヨーロッパ諸国が東侵の行動を起こし、相競ってアジアの蛮食に功を争う時代に入るや、忽ち南支を狙うフランスの餌食となった。現在(昭和16年頃)のベトナム民族運動の端緒は、言うまでもなくこのフランスの侵略と圧抑とに源を発しており、これに抗する民族自立の精神が時代とともに様々な形を具えて顕現し来り、且つ現在も現れているわけである。

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 最も早い時期にベトナムの東京(トンキン)に着岸した船は、フランス印度支那会社(1665年創設)の船で、1669年8月30日、ベリート司教ド・ラ・モット・ランベールと、2人の同行者ブールジュ及びブシャール両司祭が乗っていました。これが、安南の地に最初の根拠地を築く結果になったそうでして、この件についての協会の報告書がこちらです。⇩

 「ド・ベリト閣下(=ランベールのこと)…は商人に変装した己が2人の同僚が当地に滞在し、好きな所に家を建てる権利を国王に認めさせたので、当人共はフランス商社が同じ土地にその拠点を設けに来られるわけだと楽しみに致しております。…愚納の閣下に願いまするは、宗門及び商社の安泰の為、また世にも尊き基督教国王の名誉と光栄の為、商社取締役に申し付けられ、当王国に商館を設けるか乃至は少なくとも当地に出張いたすに必要なる手段を直ちに尽くすべきよう御取り計らい下されたきことにござります。こうは商社にとり莫大なる利益となるでありませう」
   (1672年1月2日附、コルベール、パリリュ司祭往復書簡)

 「商人に変装したよ、本物の商人よ、早く来て根拠地を作ってよ、貿易したら凄い儲かるよー。」💦💦と言ってますかね、、、司祭らね。。😵‍💫😵‍💫😵‍💫

 そして、1755年頃フランス海事外務省にこんな投書が何通か届いていたそうです。
 「イギリスが現に印度に於いて行っている征服事業は、欧州の財政・政治上の問題について、フランス人を凌駕する勢いを与えている。従ってこれは、我が国の大臣諸卿の注意と警戒を促しているわけである。何等かの手段を講じてフランスのためにアジアにおける基地を獲得し、以て彼等(イギリス人)の優位に対し均衡を保たしめなければならない。
 イギリス人は既にボルネオの近辺のみならず支那及び印度の一部においても莫大な利益を齎している。…見渡したところ、残るは交趾支那だけがイギリス人の見落としている土地である。しかし、彼等は容易にこの土地に侵入しはしないなどと、我等は自ら欺いて済ませられるものだろうか。彼等が我々に一歩先じて侵入しようと決めれば、我々は永久に排除されてしまうであろう。我々に指導的地位を与え、戦時にはイギリス人を制圧しその通商を阻害し、同時に印度にある我国の領地を守る力を与えるアジアの此の部分における重要な根拠地を失うことになるであろう。この行動は、イギリス人を困惑させるに違いない。彼等が進んでこの地に拠点を設ければ、アジア海岸の到るところで彼等は我々を己が家臣と目するに至るは必定である。」
                   
(1920年パリ発刊の”Histoire moderne du pays d'Annam”)

  正に「仁義なき戦い」!!!!😵‍💫😵‍💫😵‍💫 ヤルかヤラレルか、、、で、フランスはベトナムを取りに来ていた訳ですから、フランスのベトナム侵略と土民統治が暴虐、残虐だった理由がちょっと繋がってしまいますね。こんなヤクザのような(いや、本物のヤクザかも、、)人達が来たら。。。。考えただけで悲鳴が出そうなくらい恐ろしいです。。。

 そんな「崖っぷち」状態でベトナムに襲い掛かったフランスでしたが、このベトナムが、想像を遥かに超えて強かったのでしょう。何と言っても、長い年月外敵からの侵略と支配と闘い続けて来た民族です。

 『越南史略』の 「ベトナムの歴史」項にはこう書いてあります。

 「建国から現在に至るまでの何千年間の歴史において、幾度も支那の支配を受けた。艱難辛苦の時代であっただろうが、それでもその後自主国家を建設し、民族の独自性も保つことが出来たのだ。だから、その事からも判るように、我々民族が他のどの民族と比べても気力において劣るということは無い。しかしながら、現在も未だ「ベトナム民族」が輝かしい確固たる地位を築くには至っていない。だが、いつの日か、我々の手で、強い国家を建設する希望を持ち続けよう。」

 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏編『越南史略』の初版発刊年は、1921年です。
 何度も戦い、何度も負け、それでも祖国を失わずに来たベトナムの人々の自国に対する誇りの源は、やはり命を掛けて国を守った英雄への感謝だと感じます。戦後生まれの私にとっては、見習いたい面の一つでもあります。
 

 


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