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ベトナム志士義人伝シリーズ⑪ ~キリスト教徒志士 黎磬(レ・カイン、Lê Khánh)

 ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note

 先日の記事、「仏領インドシナの一大”反植民地主義勢力”だったベトナム・カトリック教会」で、仏領インドシナと呼ばれた当時のベトナムに於いて、早くから反植民地主義を掲げて抗仏戦争を戦った一大勢力、ベトナム・カトリック教会のことを取り上げました。

 元東遊(ドン・ズー)留学生だった鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)氏も、カトリック教徒だったことが著書『ベトナム越南義烈史』に書かれており、同じカトリック教徒の抗仏同志、黎磬(レ・カイン)君の事を書き遺しています。

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 君は乂安(ゲ・アン)省真禄(チャン・ロク)県の人。幼い時にご両親は君を某宣教師に托した。
 そして、君は15の時、順明(トゥァン・ミン)学堂に入学した。
 天分聡明で穏和な君は、在学6年、諸学科の成績はすべて優等、西洋人教師も越人教師もみな舌を巻き、同窓の諸君は君を愛した。

 君は、キリスト教学で特に悟るところがあった。愛国の熱血と宗教への情熱とが矛盾なく君の心に漲り、祖国の沈亡とフランス人の横行を見るにつけても、身を救国に捨てる志を抱いていったのだ。
 
 君が4年生の時、私は3年生だった。ふたりは親しかった。君はため息をついてよく言ったものだ、
 ”主イエスとその弟子たちは、その血で世人の垢(つみ)を洗った。いま祖国の同胞がこんな厄難にあるときに、我等は救済に身を捨てず、国が滅びるのを座視している。宣教とは、いったい何を教えることなのか。”
 これは、君の肝胆肺腑からの言、私は今でも片時も忘れていない。

 学堂の宣教師たちは、学生が国事を談じたり、外国事情を知る事を許さなかった。愛国の思想を抱く我々は、ただ上帝(デウス)の篤い恵みをひたすら感謝するだけであった。
 癸卯甲辰の年(1904)、
日露の戦役は、全アジア洲に影響を与えた。私達の耳にも微かに聞こえて来たが、外国の新聞が着く度に、フランス宣教師は厳しく秘して、我等に知らせなかった。

 学校にいたベルギー人宣教師は、私達2人に特に目をかけてくれた。彼は時々日露戦の情報や海外の時勢を告げ、また国を憂う我等の志を褒め、励まし、こう言ってくれた。
 ”私はベトナムで3年宣教したら、いっぺん帰国する。その時は君達を連れて我が家に迎え、西洋で完全な教育を受けさせたい。”
 しかし、我達に親し過ぎるという咎を受け、このベルギー人の宣教師は、職を追われてしまった。

 1906年7月に私達は卒業し、それぞれ講師になった。この頃、復国独立の志を抱く我がベトナム宗教界の領袖である3人の宣教師が、1908年に、牧老蛑 (マイ・ラオ・バン)公を出国させ、会主(=クオン・デ候のこと)を扶ける相談役にと決めた。
 黎磬(レ・カイン)君と私は、国内で各地連絡の任務を分担することになり、香山(フォン・ソン)県で仕事を扶けた黎君は、当地のベトナム人信徒を熱誠込めて鼓舞したので、
党(=クオン・デ候達のベトナム光復会のこと)の運動に賛助する人が日増しに増えた。

 1909年、君の提案で、信徒から東遊(ドン・ズー)留学生を出すことになった。私と同志3人が代表で日本に渡ることになり、その学費は君と宣教師が募金で賄うことになった。
 同年3月、香港に着いた私が受け取った君からの手紙には、こう書いてあった。
 ”国内の風潮はすこぶる盛んだ。募金も増えている。安心して求学し、目的を達せられよ。” 
 私は勇んで日本に渡り、東京の成城学校に入学した。

 数か月経って、黎君から秘密の封書が届いた。
 「現下、党の動きが露見して、
フランスは全国に大検挙網を布いた。3人の宣教師は逮捕され、死刑告訴された。だが宣教師らは怯まず、公理正道に立って抗弁せり。検察側も、党関係を裏付ける確証なし。フランス人は死刑をあきらめ、留学生派遣を理由に、崑崙(コン・ロン)島(=現在のコン・ダオ島)に拘禁9年と宣告結審した。」
 そして同年11月、またも君から書信を得た。
 「3師の事件以来、僕も追捕の身で、危険だ。今、
魚海(グ・ハイ=鄧蔡珅(ダン・タイ・タン、Đặng Thái Thân)のこと)翁と別の行動を計画中。在日の指導者に告げてくれ、武器を急いで密送してくれと。これが吾党への最後の救援になる。たのむ。」
 1910年の正月、在日の党人は、購入した武器を船に積んで香港に着いた。陸揚げの時、イギリス人が探知、没収され、同志は香港の獄に繋がれた。そして、国内の同志諸君は、日に日に危境に落ちて行った。

 3月になって、黎金声(レ・キム・タイン)君の密書が届いた。
 「魚海(グ・ハイ)翁は2月朔日、隠れ家でフランス人数百の兵に囲まれた。翁は敵対したが克たず、銃弾を引いて自決した。黎磬(レ・カイン)君は、魚海翁の難事を聞くや、フランスの囲みの中に討って出て、銃弾に中って、殉じた。」

 祖国の為に身も心も捧げ尽し、危局にのぞんでは身命を投げうって退かず。義に殉じたこの時、まだ25歳だった。

 黎磬(レ・カイン)君こそ宗教人の榜様(かがみ)、「孝孫」だ。「孝孫」の意味を問う人がいれば、私はこう答える。
 ”上帝(デウス)が愛する子の、その子のことだ。そしてまた祖国に孝えた、という意味だ” と。

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 1910年の武器購入の話は、クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』の第7章『 支那、泰での奔走』にも詳細が書いてあります。
 タイ経由で武器をベトナムに運び入れる手筈でしたが結局敵わず、中国革命党の孫文(そん・ぶん)広西-雲南方面挙兵へ支援すると決めて運び出した香港の港で荷物検査に遭い警察に全部没収されてしまった経緯が書いてあります。

 魚海(グ・ハイ=鄧蔡珅(ダン・タイ・タン、Đặng Thái Thân)のことは、先の記事「ベトナム志士義人伝シリーズ⑤ ~鄧蔡珅(ダン・タイ・タン、Đặng Thái Thân)」に書きましたので、是非ご一読頂ければ幸いです。 
 
 1858年の仏西(フランス・スペイン)連合軍のダナン砲撃から早くも50年近い歳月が過ぎた頃。ベトナム志士の誰もが最早、宗教や主義の垣根など拘る余裕など無くなってた筈です。

 反西洋植民地主義を鮮明にし徹底抗戦を続けたベトナムカトリック教会。その象徴的な存在だった南ベトナム大統領(1955~)の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏実弟呉廷〇(王偏に柔)(ゴ・ディン・ニュー)氏は、1963年にクーデターで暗殺されましたが、その血まみれの兄弟の銃殺写真は当時ベトナムカトリック教会へ何を突きつけたと云えるでしょうか。
 この時、ベトナムカトリックの抵抗運動へ積年の恨みを晴らして勝利の狼煙を挙げたのは一体…? そして、この丁度3週間後に同じくアメリカでも大統領が暗殺されました。

 

 
 
 
 
 

 
 


 
 
 

 

 

 
 

 

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