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第3回「川の端から端まで泳ぐと級がもらえていた」(文=橋本倫史)

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第3回(全17回)

サンデー・インタビュアーズの活動は、ひとつの映像に対して3つのステップを踏むことになっている。ステップ1は「ひとりで“みる”」、ステップ2は「みんなで“はなす”」。最後のステップ3は、「だれかに“きく”」だ。

「今日はステップ2までを、京王プールという題材を使ってやりました。皆さんには次の回までに、ステップ3をやっていただきたいと思います」。初回のワークショップの終わりに、松本篤さんはZoom越しにそう語りかけていた。「今日見た映像について、皆さんが調べたり、身近な人に聞いてみたりしたことを、それぞれのやりかたで構いませんので、まとめてもらいたいと思っています」

参加者の手元には、ポストカードセットが届けられている。全部で84葉のポストカードは、「世田谷クロニクル1936-83」の映像のワンシーンを切り取ったものだ。参加者の皆は、誰かに話を聞いたり、ひとりで調べたりしたことを、このポストカードに書き込んで、次回のワークショップで発表することになる。

2回目のワークショップは、8月22日に開催された。ワークショップはこの日も2組に別れて進められることになった。映像に記録されているのは、佐伯さん、やながわさん、それに八木さんが参加している部屋だ。

「私は京王プールにあった遊具に興味がありまして、ひとつは公園遊具の歴史について調べてきました」。最初に発表者となった佐伯さんが切り出す。京王プールの映像には、箱ブランコが映り込んでいた。安全性に問題があるとして、この10数年ですっかり姿を消した遊具だ。古い映像を見ていると、自分が生きていた時代には存在しなかったものも記録されている。それは新奇なものとして目を引くけれど、見覚えがあるのに今ではすっかり見かけなくなったものは、それとは別種の興味を引き立てる。

「ブランコとかすべり台とか、いわゆる公園遊具が日本に入ってきたのは、幕末から明治にかけて、結構古いんですね。最初は軍事教練の道具として使われていたものが、のちに教育現場にも入ってきたそうです。トピックスとしましては、昭和31(1956)年に都市公園法が制定されて、街区にある公園にはブランコ・砂場・すべり台の設置が義務づけられていて、ここは大きなポイントかなと思いました。この3つは“公園の三種の神器”と呼ばれたそうで、僕たちがこどもの頃にあった公園にブランコと砂場とすべり台が必ず設置されていたのは、この法律に基づいてのことなのかなと思いました」

自分の記憶を辿ってみても、町内にあった公園には、ブランコと砂場、それにすべり台が設置されていた。今まで気に留めたこともなかったけれど、あれは法律に基づいて設置されていたのかと驚く。わたしたちが普段目にする風景も、法律によって規定されている。

「それからもうひとつ、私鉄沿線と遊園地についても調べてみました」。佐伯さんが発表を続ける。「ざっと調べてみたんですが、もともとは阪急の創始者・小林一三がつくった宝塚新温泉が発端だったのではないかということです。来訪者による鉄道の乗客増と、沿線のイメージアップをすることで住民を増やし、鉄道以外の収入源も作っていく──この三つの理由から、当時は風光明媚だった郊外の景勝地に遊園地がつくられたようです」

京急の花月園。東急の二子玉川園と多摩川園。西武のとしまえん。京王の京王閣。小田急の向ヶ丘遊園。いずれも大正の終わりから昭和にかけて開通している。この時期、鉄道網の発達とともに東京は拡大していったのだろう。二子玉川園や京王閣のあたりは、今ではすっかり都心への通勤圏内にある住宅地に変わっている。

「私は海水浴の歴史を調べてみたんですけど、やはり鉄道が通ったことが大きくて、鉄道とレジャー施設はすごく関係があるんだなと、今のお話を聞いてあらためて感じました」。佐伯さんの発表を受けて、やながわさんはそう語る。やながわさんが海水浴の歴史について調べようと思ったのは、先月のワークショップで同じ部屋になったラナさんの話の影響が大きいのだという。

「私はですね、自分の疑問より、皆さんと話しているなかで気になったことを調べることが多いんです。前回、一緒にお話ししたラナさんが『日本には海や川があるのに、どうして日本人はプールに行くのか?』と言っていたことが心に残っていて、海水浴とプールの歴史について調べてみました。もともと海水浴は病気治療のために始まったもので、今みたいに“泳ぐ”というよりも、海の塩が体に良いということで海に浸かっていたそうです。それが明治の頃になると避暑や娯楽が広まり始めて、海水浴という言葉も生まれ、大正時代になると電車が開通したことで海水浴客が増え始めたみたいです」

そういえば明治末を舞台とする夏目漱石「こころ」の主人公が「先生」と出会うのは鎌倉の海だ。鎌倉が別荘地として注目され、海水浴客が訪れるようになったのも、東海道本線の開通がきっかけとなっていたはずだ。新しい“道”ができると、そこを行き交う人が増え、新しい場所が生み出される。今では海水浴場として定番の海にも、賑わい始める最初の一日があったのだ。

「二点目は、学校のプールの歴史を調べたんですけれども、戦後は海や川で水泳の授業をやっているときに、かなり水難事故が起きているんですね。それと、修学旅行中のこどもたちが乗った船が沈没して、大勢のこどもたちが亡くなってしまって、文部省は学校にプールを設置して、こどもが泳げるようにと授業を義務化したそうです。京王プールの映像を見ると、こどもが準備体操しているシーンがありますけど、学校教育で水泳を習うときには必ず準備体操をするので、その延長だったのかなと思いました」

海や川で泳ぐのが一般的だった時代から、いくつかの痛ましい水難事故を経て、学校にプールが設置されてゆく。当時は日本が復興期を抜け、高度成長期を迎える時代でもあり、プールに出かけることがレジャーとして普及していた時期でもあるのだろう。

「高度成長期っていうことが、ひとつのキーワードになっているような気がするんですね」。やながわさんが続ける。「1961年から1962年にかけて、レジャーって言葉が流行語になるんですけど、それはまさに京王プールの映像が撮影されたぐらいのことなんです。戦後に皆さんの収入が上がって、人が余暇を体験し始める時代に、アトラクションプールもつくられて人気になったんだと思います。あと、昔は泳げていた川が公害で泳げなくなったこともあるので、高度成長期という時代の背景が見えた気がします」

やながわさんは、ステップ3の「だれかに“きく”」の作業として、昭和19(1944)年生まれのお母さんに話を聞いてみたという。昭和19年生まれということは、プール設置のきっかけとなった沈没事故で亡くなったこどもたちとほぼ同世代だ。

「母に『学校にプールはあったのか?』と聞いてみたんですけど、当時はまだプールの設置が始まったばかりの頃なので、『まったく記憶がない』と言っていました。でも、川で泳いだ記憶はあるらしくて、『川の端から端まで泳ぐと級がもらえていた』と言っていたので、川で水泳の授業をやっていたのかもしれないです」

ワークショップの様子が記録された映像を見ていると、なんだか不思議な心地がする。作業の出発点となっているのは、昭和36(1961)年に京王プールで撮影された8ミリフィルムの映像だ。その映像をひとりで見ただけでは思い浮かばなかったことが、誰かの言葉によって、気にかかり始める。2回目のワークショップの記録映像を見終えたところで、久しぶりに母に電話をかけた。

「母さんらの頃はねえ、プールはまだなかったけん、臨海学校よ」。昭和26(1951)年生まれの母はそう言った。「あんたらの頃だと、林間学校で山へ行きよったじゃろう。あんとな感じで、海へ行くのがあったんよ。宮島じゃったか、場所は忘れたけど、そんなところに一泊してからね。同級生の悪ガキなんかは、普段から川で泳いで遊びよったけん、『海は浮くけん、楽じゃのう』と言いよったけど、母さんは怖くて怖くて、その日が嫌でねえ。あんたがプールに通い出したときに、ああ、遺伝子が移っとるのうと思うたんをおぼえとるよ」

母の言葉に、小学校低学年の頃、スイミングスクールに通っていた記憶が甦ってくる。親に言われてスイミングスクールに通うことになったものの、ぼくは水に顔をつけることも、プールという装置も、おそろしくて仕方がなかった。最初の準備運動だけ皆と一緒にやって、いざプールに入るタイミングがやってくると「トイレに行きたい」と言って、プールから逃げ出していた。その様子を2階から眺めながら、母はそんなことを思っていたのか。ある日曜日の朝、30年越しに、母の胸の内を知る。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]

サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント(文=橋本倫史)

第1回誰かが残した記録に触れることで、自分のことを語れたりするんじゃないか
第2回この時代の写真を見るとすれば、ベトナムの風景が多かったんです
第3回川の端から端まで泳ぐと級がもらえていた
第4回これはプライベートな映像だから、何をコメントしたらいいかわからない
第5回『ここがホームタウン』と感じることにはならないなと思ってしまって
第6回なんだか2021年に書かれた記事みたいだなと思った
第7回仲良く付き合える家族が近所にたまたま集まるって、幸せな奇跡というか