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第5回「『ここがホームタウン』と感じることにはならないなと思ってしまって」(文=橋本倫史)

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第5回(全17回)

小さな路地の様子が、フィルムに記録されている。『世田谷クロニクル1936-83』のNo.66、『理容店2』の映像だ。街路表示板には「北沢二丁目31」と書かれていて、そこが下北沢駅にほど近い場所だとわかる。それが何曜日で、何時頃の映像なのかはわからないけれど、多くの人が行き交っていて、どこか賑やかだ。

映像が撮影されたのは、今から50年以上前のこと。かつて世田谷の街には、どんな時間が流れていたのだろう。映像を見つめながら、その外側──映像には記録されていないものに想像を巡らせる。

「この8ミリフィルムの映像に映っていないものって、色だと思うんです」。10月24日、4回目のワークショップでそう切り出したのは佐伯研さんだ。

「モノクロの映像を見ると、古い時代のものだと錯覚してしまうところがある、というか。今回、下北沢に出かけて、この映像と同じ場所を撮影して、モノクロに加工してみたんです。こうして見ると、昭和44年に比べると中層ビルが建ったりしてますけど、街が持っている空気感はほとんど変わらないように見えるんですね。下北沢に限らず、山手線のちょっと西側にある中規模な繁華街には共通点があって、昔からある街だから、道が狭くて入り組んでいるんですね。どの街もある程度開発が進んでるんですけど、住宅街が広がっていてごちゃごちゃしているので、開発しにくいんです。だから、街が持っている雰囲気っていうのは、そうそう変わらないんじゃないかと思うんですよね」

世田谷のまちが持っている雰囲気とは、どのようなものだったのだろう。

2年前に急逝した坪内祐三さんの「遺作」に、『玉電松原物語』がある。昭和33(1958)年に渋谷区初台に生まれ、3年後に世田谷区赤堤に引っ越した坪内さんが少年時代に目にした風景を綴った、私小説的な昭和文化論だ。この作品は、「東京で生まれ育った私ではあるが、自分のことを「東京っ子」とは言い切れぬ思いがある」と書き始められている。

私のことを、東京っ子を鼻にかけると思っている人がいる。
だが私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ。
しかも世間の人が思っている世田谷っ子ではない。
世田谷は高級住宅地だと思われていて、実際、今の世田谷はそうかもしれないが、私が引っ越してきた当時の世田谷、特に赤堤界隈は少しも高級でなかった。もちろん低級でもない。つまり、田舎だった。ブースカを見るとその田舎の風景を思い出す。
──坪内祐三『玉電松原物語』(新潮社)

『快獣ブースカ』とは、昭和41(1966)年に放送が始まった特撮テレビドラマだ。同番組は世田谷の祖師ヶ谷大蔵にある円谷プロによって制作されており、ロケがとても多く、そこには坪内さんが幼い日に目にしていた世田谷の風景が記録されているのだという。高級でも低級でもなく、まだ田舎だった世田谷の風景が。

玉電松原に限らず、たぶん、昭和三十年代、四十年代、五十年代、つまり昭和が終わる頃までは、日本の様々な場所にそのような商店街がたくさん存在していたと思う。
昭和どころか平成が終わろうとする今、それらの商店街は殆ど消えてしまった。
いや、すべて消えてしまったかもしれない。
商店街といった時、私は、本屋、おもちゃ屋、お菓子屋、文房具屋、電気屋などがある町をイメージする。
ところが今家、本屋、おもちゃ屋、文房具屋を見かけない。
私は今、世田谷の三軒茶屋に住んでいる。
少年時代から馴染の町で、少年の頃の私には三軒茶屋は街と町との中間にあるマチだった。
つまり新宿や渋谷の街ほどの繁華街ではなかったが、松原や、やはり私の近所にあった下高井戸や経堂に比べれば大きなマチだった。
──(同)

坪内さんは、「町」と「街」とを厳密に書き分けていた。町とは「規模的に地域住民のもの」であるのに対し、街とは「たしかにそこに住んでいる人たちもいるが、それ以外の通りがかりの人たちも多くいる場、それが街だ」と。それに続けて、「だから例えば下北沢は街だ。自由が丘も街だ。高田馬場も街だ」と、『東京』(太田出版)の中で坪内さんは書いている。
『東京』は『QuickJapan』の連載をまとめたものだ。この第3回はずばり「下北沢」である。
世田谷区赤堤に暮らしていた坪内少年が下北沢に通い始めたのは1969年、小学校5年の秋だった。
家族が洗礼を受け、カソリック系の幼稚園に通い、祖母の葬儀も下北沢のカソリック教会で執り行われた。そうして教会に親しんでいるうちに、自身も洗礼を受け、下北沢の教会に通い始める。

祖母の葬儀を行ったのは下北沢のその境界であったけれど、私の母が所属していたのは、実家の近くの、私の出身幼稚園のある赤堤のカソリック教会だった。
なのになぜ、私は、家から歩いて三分の距離にある教会に通わず、わざわざ、小田急経堂駅まで十五分ぐらいの道を歩いて、そこから電車を四駅乗って下北沢に出、さらにまた七〜八分の道を歩いて、下北沢カソリック教会に毎週通ったのだろうか。
それは、赤堤の教会は、ちょっと近すぎたからだ。それに私は、下北沢の教会のロケーションが好きだったからである。
──坪内祐三『東京』(太田出版)

小田急線の改札を出て、教会に至るまでには、葬儀店があり、踏み切りがあり、新刊本屋がある。その先に、今度は開かずの踏み切りがあって、その右角にはペットショップがあった。坪内少年はそこで「小犬がゴロゴロしているのを眺めるのが好きだった」から、「開かずの踏み切りも私には少しも苦ではなかった」。
中学生になった坪内さんは、次第に教会に足を運ばなくなり、今度は下北沢の映画館に通い始める。日曜日になると、下北沢には新作映画の三番館である「下北沢グランドオデオン座」で洋画を観て、駅前のマクドナルドに立ち寄るのが楽しみだったと、『東京』に綴られている。

マクドナルドが銀座に日本一号店をオープンしたのは、1971年の夏のこと。1958年生まれの坪内さんが中学校に入学したのもこの年だから、下北沢にはかなり早い段階でマクドナルドが出店していたのだろう。まだ珍しい存在だったマクドナルドが、電車で通える「まち」にある。それが「ちょっと自慢だった」と坪内さんは書いている。

自分が暮らしている「町」の中で遊んでいるうちに、少しずつ行動範囲が広がり、電車で数駅離れた「街」にも足を伸ばすようになる。そうして自分なりの地図を広げて行ったのちに、新宿や渋谷といった繁華街にも出かけるようになってゆく。そうしたグラデーションが、かつては存在していたのだろう。

「私は20代のとき、古着を買いに下北沢に行っていたんですよ」。佐伯さんの話を受けて、1971年生まれのshinoさんが言う。「そのとき、渋谷みたいにキラキラした都会よりも緊張したんですよね。というのも、ラナさんや佐伯さんがおっしゃっていたみたいに、商業空間と住居が入り混じっているから、すごくヨソモノ感を感じる街だったんですね。たぶんきっと、自分の生活圏が中央線に近いからっていう、ただそれだけだと思うんですけど、世田谷に行くと疎外感を感じていたんです」

かつてはまちとまちの間に境界線があり、生活圏が分かれていたのだろう。だから中央線の近くに住んでいたshinoさんが世田谷を訪れると、どこか疎外感を感じてしまっていたのだろう。でも、昔に比べると、そうした距離感は薄まっているように感じる。インターネットが普及した今、自分の生活圏とは遠く離れたまちのことを容易に調べることができるし、下調べした情報をもとに気軽にアクセスできるようになった。

「世田谷に住んでいた時期のあるラナさんや佐伯さんからすると、下北沢に対して『ここはホームタウンだ』っていう感覚はありますか?」とshinoさんが尋ねる。

「下北沢は、とにかく客層が若いですよね」と佐伯さん。「古着屋が多くて、演劇関係者も多いので、独特の空気感がありますよね。そこに自分がほんとに馴染めるのかというと、馴染めないんじゃないかと思います。それで言うと、下北沢と三軒茶屋はなんとなく同じ規模なんですけど、三軒茶屋は商店街が昔からあって、ずっと住んでいる人が多いので、本質的な部分が違っていて。三軒茶屋は住みやすくて、ホームタウンと言える場所です」

「今の話を聞いて思い出したのは、私が下北沢に住んでいたのは20代の頃だったんですね」とラナさん。「でも、アパートから出て街を歩くと、まわりは高校生や20代前半の人たちで、『皆、若いな』という印象がありました。日曜日の朝に、半分パジャマみたいな格好でスーパーに出かけると、すごくおしゃれな洋服を着ている若い人たちが写真を撮ってインスタに載せてたり、観光客の人たちが集まってポケモンをアプリで探してたり──その風景を見ていても、『ここがホームタウン』と感じることにはならないなと思ってしまって。私は落ち着いた日曜日のような気持ちでいるんだけど、周りはどこかにお出かけするような気持ちでいて、エネルギーがまったく違っているなと思っていました」

ラナさんの話を受けて、「それぞれの日曜日が混ざっているんですね」と松本篤さんが言う。

サンデー・インタビュアーズというプロジェクトは、「私たちは今、どんな時代を生きているのか?」という問いを探求する“ロスト・ジェネレーション”世代の余暇活動と銘打たれている。

街の面影が同じだったとしても、「ここが私のホームタウンだ」と呼べるような感覚が薄らげば、故郷と呼べる場所はうしなわれてゆく。その意味では、今の時代を生きるわたしたちは、誰もがロスト・ジェネレーションとなりつつあるのかもしれない。でも、そのかわりに、どんな土地にだって気軽に出かけることができるし、どこか知らない土地の日曜日と出会うことだってできる。それぞれの日曜日が混ざり合う。そんな時代をわたしたちは生きている。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録とメディアと表現のための組織[remo]

サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント(文=橋本倫史)

第1回誰かが残した記録に触れることで、自分のことを語れたりするんじゃないか
第2回この時代の写真を見るとすれば、ベトナムの風景が多かったんです
第3回川の端から端まで泳ぐと級がもらえていた
第4回これはプライベートな映像だから、何をコメントしたらいいかわからない
第5回『ここがホームタウン』と感じることにはならないなと思ってしまって
第6回なんだか2021年に書かれた記事みたいだなと思った
第7回仲良く付き合える家族が近所にたまたま集まるって、幸せな奇跡というか