俺たちはどう生きるのか

この世は等価交換で成り立っている。
何かを得たいならば、何かを差し出さなければならない。得るものが大きければ大きいほど、捨てなければいけないものも大きくなる。
「夢」を追うということは、その犠牲も並大抵のものではない。

代償は大きかった。

高級車が買える程の借金、愛する人との別離、ダチとの亀裂。程度の差はあれ、各々なにかしらの傷を背負ってしまった。
そして、気付いた時には全員が独りになっていた。
見渡す限りの鉛色の曇り空の下、独りぼっちだった。
何が原因だったのだろうか?
どこで選択を誤ってしまったのだろうか?
答えの出ない問いが、脳内を渦のように回り続ける。
もう少し自分にできたことはなかったのかと、何度も悔し涙を流した。
滴る涙は滝のように止めどなく溢れ出る事もあった。
他責にもしてしまった。周囲を憎んだりもした。歪んだ見方をしてしまったのも事実だ。
そうでもしなきゃ自分自身があふれ出る滝に飲まれ、溺れ死んでしまっていたから。

俺たちの生き方は、間違っていたのだろうか?

日々働き、生活をするためのお金を稼ぐ。
食費に困る事もなければ、消費者金融にお世話になったり、返済催促の電話に追われることもない。好きな女には飯を奢ってやれるし、ましてやお金が底を尽きて悪事を働く必要もない。それは「正しい」生き方なのかもしれない。

でも自分のため、夢のために、あらゆるものを切り捨てて道を歩んでいく。そこには確かにそいつ自身の「美学」が光っており、それこそが「美しさ」なのではないだろうか。
俺たちは「正しさ」よりも「美しさ」を求めている奴らばかりだったじゃないか。
だから皆が皆揃って、自分の飯よりも仲間の飯のことを考えていたし、最後の1本を仲間に分け与えていたんだろう。
利己的なやつなんて1人もいなかった。
社会に出たらどうだ。
自分の金や、自分の利益になることしか考えられねぇカスばかりだ。汚ねぇ。反吐が出る。

大人になってから「友達」は得ることができても、共通の目的のために、同じ船に乗ることのできる「仲間」という存在を味わえる人は限られているんじゃないのかな。
何かを目指していたアイツや、昔カッコよかったあの人はいつしか「夢」を口にしなくなった。
夢を諦めていく友達を見るたびに、お前はモラトリアムの世界に浸っていたいだけだったのかと思うことが何度もあった。
でも俺たちは、未だに「何か」を求め続けている奴らばかりじゃないか。
水たまりに落ちてしまった蟻のように苦しみながらも、もがき続けている奴らばかりじゃないか。
こんな奴らが、同世代で同じ場所に集まるなんて奇跡としか言いようがない。
あの頃、背負った負債を未だに返している。
しかし、そんな仲間たちと過ごした「時間」に対して払ったと考えるなら、俺の負債は0がいくつあっても足りないだろう。

かの有名なメジャーリーガーも言っていた。
「人生が夢を作るんじゃない、夢が人生を作るのだ」と。
どうだ、俺たちが抱いた夢は、確かに俺たちの人生を彩り鮮やかに創ったのではないだろうか。
あの頃の夢は色褪せることなく、いつまでも俺たちの人生の核になり続けているじゃないか。

社会の通例に倣った生き方などするべきではない。周りと同じように生きたら楽なんだよ。それが俗にいう普通であり、「正しさ」であるから、間違いだと否定をされない。何かあっても、周りにいる大多数の存在がその不安をかき消してくれる。
しかし、それは本当にお前が望んだ生き方なのだろうか。社会や親に敷かれたレールの上でしかないのではないだろうか。
いわゆる普通や、親の期待に縛られず、心の奥底にいる自分自身と腹を割って話合った結果ならそれでいい。
そうでないのなら、墓場で後悔をするのはお前自身だ。

「美しさ」に従うということ。つまり、社会の常識や他人の意見を無視して、自分の美学に従うということ。それは荒野に立たされたような孤独を味わうかもしれない。
それでも俺たちはどこへ行こうと、何をしていようと「夢」を抱いていれば、必ず繋がっている。
太陽の見えない鉛色の曇り空が永遠と続いていても、あの頃の日々が灯火となって道を標してくれる。もう、一人でも怖くない。
だから俺は俺の道の奴隷になる。

世間から外れた夢の中で、夢中になって生きていこうじゃないか。
正しさよりも美しさに従って生きていこうじゃないか。
そして、人生を「イカれた旅」にしよう。
お前はどうする?

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