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スピリチュアルという言葉に思うこと

GARYUのshoです。
今日は「スピリチュアル」をテーマに、書いていきます。

わたしたちGARYUは龍神という見えない存在を媒介して龍神にまつわる様々なサービスやアイテムで、つながる人すべてをサポートする活動をしています。そしてわたしはこの活動を今日のテーマである「スピリチュアル」という得体の知れない、でもふしぎに癒しを感じさせる言葉に対して逆にアレルギーを感じる方々に。そんな方々にも向けてもGARYUの取り組みを伝えていきたいという想いがあります。

この言葉に全く興味をしめさない人もいます。あるいは逆にスピリチュアルにどっぷり浸かってきている人など、ワードへの反応、感じ方は人様々ではないでしょうか。ちなみに日本でのこのスピリチュアルへの一般的な認識は、「見えないものを信じる人たちが傾倒するもの」というところでしょうか。ただ、これも不思議なもので昨今問わず日本では昔から、非常に多くのひとたちが年末年始に神社へ参拝して見えない存在に対して祈願をします。しっかりお守りも買います。でもスピリチュアルには興味がない。うちの母なんかもまさにこのタイプです。おもしろいですよね。
もっと昔、情報がもっと少なかった時代、人が農業主体で生きていた時代というか、エンタメの海がおしよせる前、天気予報が放送される前の時代はもっと「スピリチュアル」に傾倒していたのかもしれません。
ちなみに、スピリチュアルという言葉に対してわたしが思うことは、「見えない世界を信じる研究」というところでしょうか。実証されにくい自然現象と深く関わりがあるためか、アカデミックな「学問」とはカテゴライズがむずかしく、「研究」あるいは「探究」というのがふさわしいのかと思います。それを追い求める方々はいわば「探求者」でしょうか。

では、少し視点をずらして、面白い体験談をひとつ。

わたしは以前、地球の裏側の声を知覚したり、天気を変えたり、悪魔やもののけという見えない存在からの結界をはれるほどの特殊能力をもった人と知り合ったことがありました。その方と私の間には2つの水の入ったコップがあり、私がそれを飲む瞬間だけ水が水色に変わると言われました。そこでまわりの人のコップの水もその色に見えるのかうかがうと、そうでないらしく、人のニーズによって水の色が変化するそうなんです。。こうした色はその人がその瞬間に水に対して無意識に求めているものを反映して色がおのず変わるということでした。
もちろんその様子はわたしの目ではとらえられません。ただその方には見えていました。
こうした人は稀有です。その人は嘘をついていると思えず、わたしはそれを信じました。
一般のわたしたちの知覚機能は非常に鈍く世界の一部しか捉えることができないわけですが、人には見えないもの、聞こえないもの、触れられないものというものが想像以上にあるんじゃないのかと思うんです。では。


知覚できないものは存在しないのか?

もちろん、そんなことありませんよね? わたしたちは見えない「可能性」というエネルギーにとりかこまれています。
わたしたちが動けばその可能性も動き、わたしたちが止まればその可能性もともに静止します。ただ可能性はべつに死にはしません。わたしたちは皆、見えない可能性の中で生きて呼吸します。期待をして想像を行い、モノゴトを知覚できるものに実現化していき、その経験の中で成長や進化をとげていきます。
いま見えている世界がすべてと信じた場合、人が生きる世界はここまで進化しません。変化と進化は似たようでいて違います。わたしたちの手持ちのスマホも車もTVもインターネットも宇宙ステーションもAIも数百年前は異次元の絵空事でした。つまり絵空事が現実になってわたしたちの生活を豊に??してきた。
それはすべて「想像という名の創造」です。



世界は知覚できるもの

世界は知覚できないもの



わたしが思うこの世の中は、すべてこの2つでなりたっていると思ってます。絵にしろと言われたら、中国の陰陽マークみたいなものが思い浮かびます。
ですがいずれの2つも「可能性のいう傘」でまとめられます。知覚できないものも、知覚できるものも、実現の可能性をひめたエネルギーの中に存在するものだと思うんです。そして次にわたしたがとる反応はこれです。


それが
信じられるものか
信じられないものか



信じられないものは可能性として存在しても形にできないと思いますし、信じることができるものは、形にできるとわたしは信じます。つまり、目的地まで車でいけると信じるからたどりつけますし、渋滞か事故があって道が塞がっていると信じればたどりつけません。

ひとが自己の成長であったり、癒しであったり、お金であったり、何かの経験を求めるときに、わたしたちは知覚できない「無」と対峙します。知覚できる「有」が生まれるまでは、不安と恐れが起こるかもしれません。見えないからです。
そこで必要になるのが、「信じる」という行為です。信じて、想像という創造を行うことだと思います。無の中で感情と期待をこめて想像という創造を行うことで、自分の世界をつくり、自分の世界がさらに大きな世界に波及効果で影響をあたえ、さらにその先の大きな世界をつくりあげていく。


最後に結論としてまとめておきます。
「スピリチュアル」という言葉は、あちらとこちらを分け隔てるカテゴリーとして存在しますが、一見隔てられて見えるもの、見えないものの間には実のところ壁などなく、その言葉に興味を持つ持たないという枠組みを超えて、わたしたちはすでにその一つの隔たりのないエネルギーの中で生きているんだと思うんです。


ではここで、わたしたちGARYUが取り組む「龍神」の話にふれますが、龍神というのは、わたしが思うには、この「エネルギーを動かす知覚できない存在」だということでしょうか。
その動かす力が強くて速いからこそ、ここまで世界中で崇められ恐れられながらも、愛されて、絵や彫刻や逸話で伝えられ続けているんだと思うんです。

龍神の微かな形跡や、声とは言えない耳が知覚できない微かな声をひろい、形や言葉にして、みなさんの自己実現、自己成長、何かの気づきのきっかけをつくるために、GARYUもエネルギーを動かす一つの宇宙を形成したい。

そんな思いがあるんです。

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