やさしさが邪魔をする
ピンポーン……
電気が消えた薄暗い部屋で僕はソファから立ち上がって玄関に向かった。ドアの向こうにはさっき電話をくれた君がいた。
「入って」
「お邪魔します」
ふたりは部屋の中に入っていった。
「何か飲む?」
「ううん、要らない……ねぇ、こっち来て?」
僕はソファに座ってる君の横に座った。君は僕の肩に頭を乗せてきた。
「……寒くない?」
「寒くないよ」
僕からは何も言い出せなかった。君から話してくれるのをただ待つしか出来なかった。
「……ロンドンの部屋がね、すごいおしゃれなんだ」
「そっか。写真送ってよ」
「うん」
「…………」
「…………」
また沈黙に包まれた。もしこの沈黙が愛ならもう少し救われたのかもしれない。
「…………やっぱり私ね、不安もあるんだ」
「うん」
「でもね、楽しみもあるんだ」
「へぇ、どんな?」
「ご飯とかね。あと、もう向こうにも友達ができたんだ」
「そうなんだ」
君は少し寂しそうに笑った。
「…………頑張らなきゃだね」
「うん。頑張ってね」
「…………」
君はまた黙り込んでしまった。本当は僕に止めて欲しかったのかもしれない。それには気付いていた。でも君の夢があるのはここではないことにも気付いていた。
僕と一緒なら君の夢は叶わない。だから僕はこのまま我慢するって決めたんだ。
「…………スゥ……スゥ……」
気付けば君は寝息を立て始めていた。僕は君を抱きかかえてベッドに運んだ。
僕はしばらくベッドの脇で君の寝顔を見ていた。君の寝顔を見ていると悲しみがあふれ出してきた。僕が止めないことが君のためになると思った。それが強がりだということもわかっていた。
君を失いたくないわがままと君のために我慢すると決めた思いやりが胸の奥で綱引きしているようだった。それでも泣き言は言えない、言わないって決めたんだから。
「…………ん、好きだよ……」
君が寝言を呟いた。君の閉じた瞼の隙間から涙が零れてきた。僕も溢れそうになる涙をこらえて君の涙を拭いた。
「おやすみ……」
シェイドの隙間から差し込んできた朝日で目を覚ました僕はソファから体を起こした。いつもと何も変わらない。窓の外で鳥が鳴いている。
キッチンに立ってコーヒーを淹れる準備をした。戸棚から取り出したキリマンジャロの粉をコーヒーメーカーにセットした。君が好きだと言っていたから僕の家でも淹れ始めたキリマンジャロ。
「今日が最後かな……」
その時君が目を覚ました。
「ん……おはよ……」
「おはよう。コーヒー飲む?」
「うん。飲む」
君はベッドから降りてテーブルに腰を下ろした。僕はコーヒーの入ったマグカップを君の前に置いた。
「はい」
「ありがと……」
口の中に染みる酸味は僕に君のことを忘れさせない。涙が溢れそうになった。
ふたりは会話が少なく朝食をとると君が発つ時間になった。君は荷物を持って立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「うん……」
ゆっくり玄関に向かって歩く君の背中を見て手を伸ばしたくなった。それでも君を幸せにできるならどんな悲しみも耐えるって決めたから、君が待ってたとしてもその背中は追いかけない。
開けたドアから柔らかい光が入ってきた。寂しい顔をするわけにはいかなかった、君に後悔をさせたくなかったから。微笑んで見送るしかなかった。
「……元気でね」
「……向こう着いたら手紙書くよ」
「待ってる」
君は別れの言葉を言わずに振り向いた。
「サヨナラ……」
君は僕に聞こえないように独り言のように呟いた。僕は耐えられなくて君を後ろから抱きしめた。
「…………さようなら」
「……うん」
僕から離れた君は振り返らず歩いて行った。想いは一緒だと思った。顔を見たらもう我慢できなくなると思ったんだ。だからどうか君の潤んでいるその瞳から涙が溢れる前に……
閉めたドアにもたれかかった。糸が切れたように涙が溢れて止まらなかった。本当は引き留めたい。それでも君を想う
やさしさが邪魔をする。
<完>
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