エンタメ異人伝 VOL.14 三上真司
実際に会うと全然イメージが違うって言われる
三上 僕ってインタビューを読んだ人とかから、実際に会うと全然イメージと違うって言われることが多いんですよ(笑)。
――やはりホラーとかゴアな部分のイメージを持っている人が多いのでしょうか。
三上 ああいうものを作っている人は、だいたいこうなんだろうなっていう先入観があって、僕はそういうイメージからかけ離れているんでしょうね。でも、ホラー・エンターテインメント系の人って、割とサービス精神旺盛ですよ。
――確かに。トビー・フーパーさんとかジョージ・A・ロメロさん(注1)とかもそうですね。
注1:どちらもレジェンド的なホラー映画監督で、トビー・フーパーはスラッシャー映画の元祖とされる『悪魔のいけにえ』を手がけたことで知られる。ジョージ・A・ロメロは現代のゾンビのひな形を作ったとされる人物で、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に始まるゾンビ映画のシリーズはあまりに有名。
三上 懐かしい顔ぶれですね。
――僕はトビー・フーパーさんの『悪魔のいけにえ』(注2)のリマスター版のDVDコンプリートボックスを自分の会社で発売したことがあるんですよ。
注2:異様な館に住む謎の一家に襲われる5人の若者たちの恐怖を描いたトビー・フーパー監督の代表作。人の皮で作ったマスクをかぶってチェーンソーを振り回すレザーフェイスの存在感は絶大で、以降さまざまなフォロワーを生んだ。
三上 リメイク版も映像がきれいでよかったんですけど、やっぱり1作目が一番いいですよね。
――僕もそう思います。『悪魔のいけにえ』は1作目が一番面白いですよね。やはり昔からそういったホラーがお好きだったんですか?
横溝正史さんの小説にハマったんです
三上 最初のホラー体験は日本の怪談ですね。『東海道四谷怪談』のお岩さんとか『番町皿屋敷』とか、あのあたりの定番のヤツを小学生ぐらいのときに。で、小学校の5、6年生のときにホラーって言っていいのか微妙なんですけど、横溝正史さん(注3)にハマったんです。『犬神家の一族』とか『悪魔の手毬唄』とかって、ちょっとホラーに近いところがあるじゃないですか。僕はそんなにたくさん本を読むほうじゃないんですけど、あれは読んでいましたね。
注3:名探偵・金田一耕助を生み出したことで知られる探偵小説作家。角川映画『犬神家の一族』が大ヒットしたことから70年代に一大ブームが巻き起こった。怪奇色の強い作品が多く、角川文庫の表紙の絵がグロテスクだったこともあってホラーファンからも愛好された。
――角川が出していた黒の表紙にちょっと怖いイラストが描かれていたやつですよね。
三上 そうです、そうです。小学4年生ぐらいから読み始めたのかな。小学校の4年か5年のときに、絵の授業で『八つ墓村』(注4)の登場人物を想像して描いたことがあります。マタギみたいな服を着て、頭にロウソクつけて、返り血でビッチャビチャになっているヤツを。でも、それが授業参観か何かのときで。
注4:「八つ墓村」と呼ばれる寒村を舞台に巻き起こる異様な連続殺人を描いた横溝正史の代表作のひとつ。何度か映像化されているが、77年公開の松竹映画版は特に有名で、山崎努さん演じる大量殺人犯が画面に向かって走ってくるCMがインパクト抜群だったこともあって「たたりじゃ~」のキャッチコピーが流行語になった。
――ちょっと危険な感じがしますね(笑)。
三上 お母さんたちの前で、先生が「この作品はここが良くて」とか言っていくんですけど、僕のはボロカスですよ。保護者の手前もあったんでしょうけど、「こういうのは、よろしくないですよね」とか、すごい言われ方をしました。僕は「そんなにまずいの、コレ?」って感じでしたけど。
――横溝正史の小説はご自身で買われていたんですか。それともお兄さんなどの影響があったとか?
三上 自分で買いました。でも、なんでそこに魅かれたのかは記憶にないですね。ぱっと見て雰囲気的になんかって感じだと思います。
――角川映画全盛の頃ですが、映画から入ったわけではないんですか。
三上 横溝正史さんの映画は小学生のときは見たことがなかったと思います。ただ、テレビドラマもやっていましたよね。古谷一行さんが金田一耕助をやっていたやつ。あれは見ていましたね。あれも確か小学校5、6年ぐらいで、小説を読み始めたのとほぼ同時期ぐらいだと思うんですけど、小説のほうが早かったような気がします。
ポケットのなかで死んでしまったミドリガメ
――そこにいたるきっかけみたいなものはあったんですか? 幼少期のことをうかがいたいんですけど。
三上 こういう仕事をしている人って、小さい頃の思い出が濃い人が多いですけど、僕は一部しか残ってないんですよね。ただ、幼稚園にミドリガメを持って行ったときのことは強烈に覚えています。めずらしいから、みんなに見せたいって思ったんですよ。幼稚園で着るカバンみたいなポケットの付いた服があるじゃないですか。あれにミドリガメを入れて、幼稚園でみんなに見せて自慢して。で、またポケットに入れて家に帰ったら死んでた、みたいな。
――それはホラーですね。
三上 すっごい悲しかった。いまだに、ちょっとした心の傷になっていますね。あと、だいたい朝の8時半ぐらいに幼稚園に着くんですけど、ちょうど幼稚園のテレビで『キャプテンウルトラ』(注5)をやっていて、それを意味も分からず見ていましたね。余談ですが僕は『ウルトラQ』とかの世代じゃないんですよ。
注5:「キャプテンウルトラ」と呼ばれる宇宙ステーションの隊員の活躍を描いた特撮ドラマ。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』に続くウルトラシリーズ第3弾として1967年に放映された。
「『仮面ライダー』は見とけ」といった父との恐怖感と緊張感
――もうちょっと後ですよね。
三上 『仮面ライダー』が小学校1年生のときです(注6)。ウチの親父は厳しくてテレビなんか見せてくれなかったんですけど、そのときは2階にいる僕を呼んで「これ見とけ」って言ってきたんですよ。それが『仮面ライダー』の第1話ですよ。
注6:藤岡弘、が本郷猛を演じた初代『仮面ライダー』は1971年に放映が開始された。
――なんで『仮面ライダー』は大丈夫だったんですかね。
三上 分かんないです。親父が新しいもの好きだったからかもしれませんね。普段はテレビを見ていたら殴られましたから。幼稚園の頃からずっとそうです。だから、『仮面ライダー』を見とけって言われたときは「なんで?」ってなりました。
――見られてどう思われましたか。やっぱり面白かったですか?
三上 いや、まだ小学1年生でしたから、内容なんか全然分かってないです。それに、親父と一緒にテレビを見る恐怖感、緊張感がただただすごくて。
おじいちゃんはハダカのまま線路の中まで親父を追っかけてきた(笑)
――そんなにお父様は厳しかったのですか。
三上 そうです。ウチはゴハンも親父とは別だったんですよ。親父は稼ぎ頭だから一番いいモノを食って、僕たちはすごく庶民的な料理。その頃の僕らのごちそうって前の日の親父の残りモンでしたからね。
――厳しい御家庭だったんですね。お父様は何かご商売をされていたんですか?
三上 サラ金と不動産をやっていましたね。
三上 ウチの親父が言うには癇癪がすごかったらしいです。今の言葉で言うと「キレる」ですね。おじいちゃんが風呂に入っているときにブチギレちゃったことがあったそうで、親父は捕まったらボコボコにされると思って逃げたらしいんですよ。で、歩いて10分足らずのところに岩国駅があるんですけど、そこまで逃げて駅の線路の中に入り込んだそうです。ここまで逃げたら、もう追ってこないだろうって。ところが、おじいちゃんはハダカのまま線路の中まで親父を追っかけてきたらしくて(笑)。
「これ見つかったら半殺しにされる」って…
――はぁ~~すごい話ですねえ~。でも、お父様も厳しかったわけですよね。
三上 そうです。親父は車で通勤していたんですけど、帰ってきたら僕らが車庫入れの誘導をしなきゃいけなくて、遅れたら殴られるんです。クラクションが鳴らされたら、もうキレてるっていう。「ビビビーッ」ってきたら「ああ、今日は殴られる」みたいな。
――もうその段階で、ですか。
三上 親父の車の吹かし方があるんですよ。ウチは男兄弟3人なんですけどリビングで待機していて、その音が聞こえてきたら「あ、帰ってきた」ってダッシュで行くと。で、オーライ、オーライってやるわけです。
――厳しいですねえ。
三上 ニッサンのグロリアってあったじゃないですか。あの車に乗り換えたとき、親父が車庫入れのとき、ミラーをカベにちょっとこすっちゃったことがあったんですよ。「もうちょっと右、右」って言ってるのに、聞こえなかったのか、そのままバックしちゃって。その瞬間、「殺される!」と思って、うしろの勝手口から飛び出して、塀を乗り換えて逃げました。捕まったら半殺しですから、ハハハハ。
――半殺しですか……(苦笑)。
三上 兄貴たちとよく言っていましたよ。「これ見つかったら半殺しにされる」って。ホントに殺されることはないですけど、かなり殴られたり蹴られたりするんでね。ウチってちょっと構造が変わっていて、3階なんだけど2.5階建てみたいになっているんです。駐車場の部分が1階で、その上が3階になるんですよね。で、ほかの部分が2階になっているっていう。
インターホンの押し方で機嫌がちょっと分かるんですよ
――2階と3階が段差になっているみたいな。
三上 そう。それで、3階が寝室になっていて、いつも親父はそこに居座っているんですけど、その寝室にインターホンのブザーを設置していて、「ビーッ」って押して2階にいる僕らを呼ぶんです。で、押し方でもう機嫌がちょっと分かるんですよ。
――押し方で!
三上 「ブッ、ブーッ!」とかいう感じだったら、「あ、もうちょっとイラついてるわ」みたいな。で、すぐ行かないと、また殴られるんで階段ダッシュです。一番イヤだったのは歯磨きをしている最中に呼ばれたときですね。いまだになんで怒られたか分からないんですけど、クチュクチュ、ペッってしていたら絶対殴られると思って、口の中に歯磨き粉が残ったままダッシュで行ったんです。そうしたら、いきなり「歯ァ、食いしばれ!」って言われてパーン、パーンですよ。
――ええ~~!?
三上 しかも、1回呼ばれると親父の「行ってよし」が出るまで、そこを動けないんですよ。そのときも親父の側で1時間ぐらい、ずうっと立ちっぱなしです。それで、やっと「行ってよし」が出たんですけど、口の中は歯磨き粉でネバネバするし、ペッて吐いたら血も混じっているしで、ほんとタイミング悪かったです。あれは強烈に覚えていますね。
――…………(絶句)。
三上 で、僕は中学から剣道を始めまして、家に素振り用の竹刀を置いていたんですよ。その頃になると親父もちょっと年が行って、殴ったりすると手が痛いみたいなことをたまに言うようになりまして、その素振り用の竹刀で僕を殴るようになったんです。自分がシバかれる用の竹刀を自分で置いとくって、こんなバカなことはないじゃないですか。だから、椅子に乗って一番上の棚に隠したんですね。そこで、また親父がバーッて僕の部屋に入って来たんですけど、いつも立て掛けている竹刀がないことに気づいて「竹刀出せ」みたいな。「ええ~?」ってなりましたけど、椅子を持ってきて棚から取り出し、「はい」って竹刀を渡して、結局それでバーンって。
木刀が当る瞬間にカラダをよじるんですよ…痛そうなフリをしながらね
――……何かいろいろ話が強烈すぎて……。
三上 でも、殴られること自体が日常でしたからね。2、3日に1回ぐらいのペースだったんで、そんなに大したことだとは思っていなかったです。ただ、木刀のときはさすがに緊張が走りましたね。木刀って重たいんで筋力を鍛えようと思って、家でもアレで練習していた時期があったんですよ。
――木刀で殴られたらヘタしたら骨とか折れますよね。
三上 だから背中で受けるんですよ。親父が木刀を振りかぶったとき、こうくるなっていうのを予測して、当たる瞬間にカラダをよじるんですよ。「アアーッ!」とか言って痛そうなフリをしながらね。
――そうすると、ちょっとは痛みが軽くなるんですか?
三上 なります、なります。でも、右と左のどっちから殴りかかってくるか、ムチャクチャ分かりにくいんです。受け方を間違えるとダメージが全然違うんで、どっちからくるかがすごい大事なんです。
オカンにもっとアドバイスしてもらっときゃよかった
――はあ~~(呆然)。
三上 (部屋にも)だいたい何も言わないで突然入って来くるんですよ。後ろに気配がしたと思ったら入ってきてバーンです。部屋で寝ていると「なんで勉強してない!」って殴られて蹴られて起こされてとか。でも、僕は殴られるより勉強のほうがイヤなんです。殴られるほうがマシなんですけど、でも殴られるのもイヤじゃないですか。だから、寝ていても親父がダッダッダッダッダッて来たら、その足音で目が覚めるようになったんです。ところが、ドアの上の部分がすりガラスになっていて、ベッドから机に直接行くと、そこに映っちゃうんですよ。だから、映らないように腰を落として前転で移動し机に座るんです。
――やっぱりそうなるんですね。そうじゃないかと思ったんですよ。
三上 そうです。音を立てずに前転して、オレ今勉強してるぜっていう体勢に入るわけです。で、今日もうまくいったぜって思っていたら、親父の顔がすぐ横にきて、次の瞬間思いっ切りバーンってやられていました。「あれ、完璧なはずなのに、なんで?」ってなりましたね。で、「なんでバレたんやろ?」って、あとでオカンに聞いたら「アンタ、寝起きは目が赤いで」って。
――アハハハハハ(一同爆笑)
三上 それでバレたんですよ。すぐ横にいたのは目を見ていたんやと。目を見て「こいつ寝起きや、勉強やってへんな」っていう。うわ~オカンやっぱりすごいわ、オカンにもっとアドバイスしてもらっときゃよかったって思いましたね(笑)。
――大変ですね。でも、お母さまは優しかったんですね。
三上 オカンは割と優しめでしたね。でも、それが日常だったから、特にどうこうみたいなのはなかったですよ。中学ぐらいから、親父が帰ってきたら「殿が帰った」って兄貴と陰口叩いていましたしね。
中高6年間、無遅刻無欠席の理由は家にいたくなかったから
――すごい環境でしたね。
三上 だから僕は中学、高校の6年間皆勤だったりするんですよね。無遅刻無欠席です。理由は簡単ですよ、家にいたくないから。家にいたら昼に親父がメシを食いに帰ってくるんですよ。そうしたら空気が凍るじゃないですか。
――ああ~そうか、そうか。もう家にいたくないと。
三上 だから大学に行った理由も、まず「家を出たい」でした。
――でも、高校生ぐらいになると、ある程度お父様と対峙できるようになりますよね。
三上 高校では無理でしたね。ただ、高2あたりから殴られる回数は激減しました。ムチャクチャ減りましたね、やっぱり。
――それは、ある程度大人になったからということでしょうか。
三上 僕のほうが大人になったんでしょうね。そこらあたりからなんとなく親父のことを理解……まあまあ怖いのは刷り込まれているんで、そんなに変わらないですけど、理解はできるようになりましたね。それまでは理解できなかったです。だって説教が禅問答なんですよ、殴った理由も言わないし。だから小さい頃はなんで殴られたか分かんなかったです。うん、全然分かんなかった。
親父が帰ったとき、家にいなかったらマズイんですよ
――なんだかエンタテインメントに無縁な話ばかりになってしまいましたが、その時期に触れたものは何かおありになるんですか?
三上 いや、普通の遊びはよくしていましたよ。鬼ごっこしたり、かくれんぼしたりっていう。正月前後になったら1カ月ぐらいずっとコマ回をしていたし、チャリンコ乗り回して秘密基地を作ったりとか、落とし穴作って人を落としたりとか。あと、カニのハサミに爆竹を挟ませて吹っ飛ばしたりとか、昔はよくありましたよね。
――幼少期の定番ですよね。
三上 そういうのは普通にやっていましたね。あのときはドッチボールが流行っていたのかな。野球もたまにソフトボールで。だから、わりと一般的な遊びをしていたけど、唯一違うのが、親父が帰宅するときです。親父が仕事から戻る夕方6時過ぎ前後が、ちょっと危険なゾーンになるんです。
――アハハハ
三上 親父が帰ったとき、家にいなかったらマズイんですよ。だから、公園で遊んでいても、もう遅いからオレんちの近所で遊ぼうって友達に言うんです。必ずそうでしたね。でも、親父の車が曲がり角を曲がって来た時点で家に入ると、もう間に合わないんです。じゃあ、どうするかっていうと、車庫入れのときと同じでエンジン音で聞き分けるわけです。で、親父の車の音が聞こえてきたら、「あ、親父帰ってきた! ゴメン、もう今日は終わり! みんな解散!」って言って、バーッて家に入って、リビングに座って何もなかったかのように「あ、おかえり」みたいな。それが日常ですよ。
――日常ですか……。
三上 うん、だからテレビを見て「ギャハハー」って笑っていても、親父の車のエンジン音が聞こえてきたら、プッて切って「見てないよ?」みたいな。
――先ほどおっしゃられていましたが、早く家から出たかったということで同志社大学に入られるわけですよね。
三上 極端な話、家から離れたところだったらどこでもよかったんです。そりゃ欲はありましたよ。いい大学のほうが、やっぱりいいじゃないですか。
同志社大学の入学試験に遅刻したのはゲームをやっていたから
――でも、同志社はかなりハイレベルだと思います。
三上 マークシートの運が良かっただけです。僕、立命館は落ちていますから。立命がダメで、同志社の試験日もゲーセンでセガの「メジャーリーグ」っていう野球ゲームをやっていました。タマを転がすヤツがあったじゃないですか。アレって得点を取ったり、ホームランを打ったりするとポイントがたまるんですよ。もうすぐ試験が始まるから、「ちょっと雑プレイするか」みたいな感じだったんですけど、そのポイントがなかなか減らなくて。しかも、試験日に学生紛争かなんかやっていて、入れる門が限定されていたんです。「オレ、入られへんやん」、「どっから入れんの?」ってなって遅刻しました、10分ぐらい。
――ええっ、そうだったんですか?
三上 うん、幸先悪かったのを覚えていますね。で、私立だから3教科でしたっけ。英語、国語、社会か数学みたいな。僕は日本史で受験するつもりだったんですけど、問題を見た瞬間に「これ、半分も分からへんわ」ってなって土壇場で数学にチェンジしたんです。
――よく数学でいけましたね。
三上 高校までは理系だったんですよ。でも、話を聞くと大学の理系は面倒くさいと。親元を離れて自由の身になりたいのに、なんで一番嫌いな、殴られるよりもイヤな勉強をせなあかんねんって思って、それで文系に変えたんですよね。だから、よくアレで通ったなと思いますよ、ホントに。
――京都に行きたかったとか、そういうわけでもないんですか?
三上 ないです。行くなら関西圏と関東圏のどっちかやな、みたいな。家から離れるっていう意味では、どっちでも一緒だと思っていましたね。
中国武術にハマって毎日朝晩練習していた大学時代
――大学生活はどうでしたか?
三上 1回生、2回生のときはほとんど行っていないですね。
――それはアルバイトをされていたからとかですか?
三上 バイトはたまに某酒造メーカーで日雇いの仕事をしていましたね。そこそこハードなんですけど、朝から晩までで日当8000円から8500円ぐらいもらえるんですよ。
――その頃だったら、けっこうもらえたほうじゃないですか?
三上 でも、けっこうハードでしたよ。5、6種類ぐらい仕事があるんですよね。で、朝に詰め所に入って名前を呼ばれて、お前はあっちのバスに乗れ、お前はこっちのバスにって言われるんですよ。その酒造メーカーはけっこう広くて、仕事場までバスで移動するんですよね。だから、何の仕事をするかは行ってみないと分からない。
――その日はラベルを貼るかもしれないし、別の日はビンにお酒を詰めてガラガラ運ぶかもしれない、みたいな。
三上 あと、余った日本酒の廃棄ですね。ビンは全部洗わなきゃいけないんで、水がはね返ってビチョビチョになるんですよ。これが冷たくて、冬は最悪でしたね。肉体労働気味の仕事なんで、ただでさえ疲れるのに、そこに水を浴びるからカゼひきそうで「ヤダなあ」と思いながらやっていました。
――1、2年生の頃はそうしたバイトに明け暮れていた感じですか。
三上 いや、そんなことはないです。週イチぐらいしかやってないですよ。
――では、大学に行く以外に興味のあるものができたとか?
三上 中国武術にハマって毎日朝晩練習していました。それと、ゲームにもハマっちゃいまして。ファミコンを買ったのが大学2年生ぐらいですから、そこらへんからですね。もともとは浪人していたときにゲーセンに行くようになったのがきっかけです。僕、二浪しているんですよ。
プロレスゲーム『アッポー』でゲーセン開眼
――あ、そうだったんですか。
三上 うん。で、一浪目のときは広島の河合塾に通っていたんですけど、同じ予備校に通う高校時代からの友達にやたらゲーセン好きなヤツがいて。正直、それまではゲームに興味なかったんですよ。その友達に「ゲーセン、行かへん?」って誘われても「イヤ、オレ遠慮しとくわ」みたいなクチだったんです。ただ、プロレスや格闘技は大好きなんですよね。で、『ゲーメスト』(注7)っていう雑誌が当時あって、そこに『アッポー』(注8)っていうプロレスゲームの記事が。あの馬場さんとか、初代タイガーマスクとか、ブッチャーとかが出てくるやつ。
注7:新声社から発刊されていたアーケードゲーム専門のゲーム雑誌。攻略情報が非常に充実しており、1990年代初頭の対戦格闘ゲームブームの際に人気を博した。
注8:INOKE、BABU、TIGERMANなど実在のプロレスラーを模したキャラクターが登場するセガのプロレスゲーム。稼働年月は1984年6月。
――ハハハ、ありましたね。
三上 で、そのゲーム好きの友達が、『アッポー』が載っているページを雑誌から切り離して、わざと僕の家に忘れていくんですよ。
――ああ~これを読んで興味持てよっていう。
三上 そうです。それで、ワナとは分かっているけど「でもプロレス好きやしなあ」、「これだけはちょっと遊びたいな」って思って。それが手を染めるきっかけじゃないですかね。
――それが最初のゲーム体験ですか?
三上 いや、最初に触れたのは中学時代。空手の道場に一緒に通っていた塾の先生がいて、その人が道場からの帰り際に「ゲーセン寄るか」って言ってきたんです。いわゆる喫茶店です。当時、喫茶店はいかがわしい的なイメージがあって、学校で禁止されていたんですけど、その塾の先生が連れていってくれて。で、100円ポンて置いて「インベーダーやれや」って。
――やっぱり、最初は『インベーダーゲーム』だったんですね。
三上 そう。あれが最初に触れたゲームといえばゲームなんですけど、それ1回こっきりですからね。
――じゃあ、そのときはあまり魅力を感じなかったわけですか。
三上 いや、面白かったですよ。「これがそうか~」って感じでした。学校で禁止されているところに入って、いけないことをしているっていう背徳感もけっこうよかったですよね。
『拳児』に影響されて蟷螂拳(とうろうけん)道場に入門
――そうでしょうね。中国武術は少林寺ですか、それとも違うものだったんですか?
三上 蟷螂拳(注9)っていうやつをやっていました。京都に道場があったんですよ。今もあるかどうかは分かんないですけど。
注9:カマキリの動きを模したといわれる中国拳法のひとつ。
――蟷螂拳って日本でやっている人は少ないですよね。なぜやろうと思われたんですか?
三上 もともと興味があったんですけど、その頃の田舎に中国武術の道場なんてないじゃないですか。だから、もう亡くなれていますけど松田隆智さん(注10)っていう方の本を買って。『拳児』(注11)っていうマンガの原作とか監修をされていた方で、蟷螂拳の本も出されているんですよね。それを読んで、見よう見まねで始めて。で、大学が京都なんで探したら道場があったんですよね。
注10:中国武術研究の第一人者として知られ、八極拳や蟷螂拳など中国武術に関する数々の著作を残した。武田鉄矢主演の映画『刑事物語』シリーズの武術指導をつとめたことでも有名。2013年に死去。
注11:祖父の影響で中国拳法の修行を始めた少年の成長を描いた「週刊少年サンデー」連載の大河マンガ。原作は松田隆智氏、作画は『ジーザス』や『闇のイージス』などで知られる藤原芳秀氏。
――ということは、かなり極められた?
三上 いや、全然極めてないです。けっこうやっていましたけど、組手とかすると体格差が出るんですよね。やっている人の母数が少ないから階級とかないんですよ。で、やっぱりデカいヤツには勝てないです。
――やっぱりそうですか。
三上 道場に新人で体重100kgぐらいのヤツが入ってきたことがあったんですよ。こっちはもう3年ぐらいやっているから、「ちょっと稽古したろうか」みたいな感じで組手をしたんですけど、素人の蹴りに押されたりしましたからね。
――ちょっとうがった見方かもしれませんけど、武術にハマったのは、お父様に勝ちたかったからというのはありませんか?
三上 ありますよ。中学のときに空手を始めたのもきっかけはそれです。ただ、勝ちたいというよりも、う~ん……。
――負けたくないとか、対等になれるとかですか?
三上 勝ち負けではなく、単に強くなりたいっていうところを加速させたんじゃないのかなあと思います。だから、親父とケンカして勝ちたいっていう気は別になかったですよ。ただ暴力三昧の日常だったんで、強くなりたいっていう意志は強かった気がしますね。
勉強には向いていなかったと思う
――ちなみに二浪されたとき、お父様の反応はどうだったんですか?
三上 正直覚えてないですけど、ブチ切れみたいな感じはなかったと思いますね。どうしても受かりたいんだったらチャンスをやる、みたいなノリで淡々と説教というか、禅問答的というか。そんなニュアンスだったと思います。
――さきほど広島の予備校とおっしゃられていましたが、そのときはご自宅で浪人生活ですか?
三上 1年目は自宅から通っていました。でも、勉強は嫌いだし不真面目だしで、予備校に通っていても、まあ上の空ですよ。今となっては親父に悪いことをしたなって思います。カネ出してもらってんのに何しとんねん、みたいな。
――今となってはそう思うと…。
三上 で、また失敗したんで親父に頭下げて、寮に入れてくれって頼んだんです。ある程度自分のことが見えてきて、進んで勉強することは多分できない。でも、必死になって受験勉強しているヤツらと生活をともにしたら多少はやるんじゃないかっていう。
――なるほど。
三上 それが割とよかったのかな……でも、多分一番よかったのは京都の駿台に入ったことですね。当時の駿台って席が狭くて、3人掛けにビッチリ詰められるんで、互いのノートの中身が見えるんです。で、初日の授業のときにノートを開くと、両側はビッシリ予習していて僕だけ白紙なんですよ。
――そりゃそうですよね。
三上 それで「え、みんな予習やってんの?」って聞いたら「普通やるでしょ」、「お前、予習もせずして、なんでココに来てんの?」みたいな、すごい言われ方をして。あまりにも恥ずかしくて、そのときから予習をするようになりました。それが人生初めての予習です。それまで予習ってやったことなかったんですよ、ウン。
――真面目になられましたね。
三上 いや、寮に帰ったら友達の部屋に入り浸って、くだらん話をずっとしていましたよ。あまりに勉強のジャマばっかりしていたんで、「もう帰れよ!」って何回か言われた覚えがありますね。でもまあオマケ的な効果はあった気がします。普通の人はそれぐらい勉強するんや、みたいな。
――ホントに勉強したくなかったんですね。
三上 向いてなかったですね、本っっっ当に向いてなかったですね。
――大学もほとんど行かなかったとおっしゃられていましたが、やはりそれが原因でしょうか。
三上 大学はもっと本当に勉強が分かっている人が、それ専門のプロが教えるんだと思っていたんですよ。で、入学して最初の1週間はいろんな講座を受けられるんで、出られる限り全部出たんですけど面白かったのは1コだけ。あとはどれもつまんなくて。
――ちなみに面白かったという、その授業はなんだったんですか。
三上 「環境と健康の科学」っていう、ハハハハ。
――そんな授業があったんですか。それは何がそんなにお心に触れたんですか?
三上 食品添加物は本当に体に悪いのかとか、お焦げは本当に発ガン性があるのかとか。その先生がそういうことをいろいろ研究していて、一生懸命しゃべってくれるんです。雑学的なテーマばっかりなんですけど「なるほど、そういうことか」、「ひょっとしたら役に立つかも」って普通に楽しめたんですよね。それ以外の講座は何の意味があるのか分からへん、みたいな。「これ何が面白いの?」、「何の役に立つの?」っていう。
僕は駿台で初めてプロとして教えるテクニックを持った人たちに触れたんですけど、その人たちはすごい理路整然と、分かりやすく体系化して教えてくれたんです。日本史の授業を受けていたときも、何年に何が起きたかなんか、どうでもいいんだと言うんです。この事件が原因で、この人が死んで、それがこっちの別の事件に繋がってっていう因果関係の順番が大事で、年号なんか覚える必要ないんだよって。そういう教え方って心に刺さりますよね。
――確かにそうですね。
三上 この事件のせいでこういうことが起きたんだよ、連鎖していったんだよっていう。そうした歴史から学べることは多いじゃないですか。人間の業とかね。これを知っているとタメになるよなっていうのが実感として分かる。歴史から何を学ばなきゃいけないのか、みたいな本質的なことを知っていて、しっかり自信を持って教えられる人が、なぜか義務教育の場にはそんなにいなくて、なんで予備校にいるんだろうっていうね。だって日本は英語の授業を中学で3年、高校で3年、大学で2年と8年間もやるのに、しゃべれる人はあんまりいないじゃないですか。
歴史の勉強も必ず縄文時代から。あんなの意味あんのかって。興味がある人は勝手に興味を持って、「縄文の歴史」みたいな本を読んだり、史跡を訪ねていったり勝手にするでしょって。歴女とかそうじゃないですか。もちろん、学校でそういうことに触れたことがきっかけで興味を持つこともあります。それは否定できないですよ。でも、この情報化社会でインターネットもあるんだから、好きなことにはいくらでも食いつきますよね。
第一志望は新日鉄…「鉄鋼がメインなのにバイオをやるなんてブッ飛んでるな」
――ゲームとの出会いは大学の頃ですよね。それで、そのあとカプコンに入られるわけですが、他の選択肢はなかったんですか。
三上 商学部だったんで就職活動はおもに商社でしたね。あと親父のコネで銀行。そこの支店長とパイプがあったみたいで、「お前、受けろや」みたいな話になったんです。で、地元に戻って個別面接みたいなのを受けて、コネ入社みたいなものですから、ほぼ内定みたいな。でも、そのとき一番入りたかったのは実は新日鉄さんだったんですよね。
――そうなんですか?
三上 新日鉄は当時バイオ研究をやっていたんですよね。「鉄鋼がメインなのにバイオをやるなんてブッ飛んでるな」、「そんなすごいことをする会社に入りてえな」とか思って。
――新日鉄のバイオ商品ってどういうものだったんですか?
三上 商品は出ていなかったです。バイオ生物学が将来どういうものになるか分かんないけど、研究はやっているっていう。ホンダのアシモとかあるじゃないですか。ああいった類のことと同じです。ただ、ホンダは自動車ですから、アシモはメカで繋がりがあるじゃないですか。でも、鉄とバイオはね。
――確かに、まったく繋がりがないですよね。
三上 ブッ飛びすぎやんってね。で、ゼミの先生に興味ありますって話して、京都のホテルのカフェで新日鉄にいる卒業生の面接を受けることになったんです。
――あ、OB訪問みたいな。
三上 そうそう。特別面接の場を作ってもらったんですけど、席に座るなり「商品の二面性って言える?」って聞かれて「……分からないです(小声)」って(笑)。これってゼミのテーマのひとつだから、覚えとかなきゃいけないことなんです。しかも、僕はゼミの幹事をやっていましたからね。それで、一気に空気がおかしくなっちゃって、結局落ちました。
任天堂も一次面接には受かっていたんです
――そのあと最終的にどうされたんですか。つまり、どうしてカプコンを選ぶことになったんですか?
三上 メシを食っていくために商社か銀行に就職しよう、まともな商売に就こう……そう思ってはいたんですけど、ゲームがめっちゃ好きで、ものづくりも好きで。ものづくりをする仕事に携わりたいっていう個人的な願望もあって、自分の中で二分していましたね、ホントはソッチ(ものづくり)がいいんだけど、社会人になって生活していくんだったら普通はコッチ(商社・銀行)でしょっていう。新日鉄さんはその真ん中ぐらいですね。で、そんな中で任天堂さんを受けたんですよ。任天堂も一次面接には受かっていたんですよ。
――そこでなぜ任天堂を選ばれたのでしょうか。
三上 ゲーム業界っていうと普通に任天堂の名前は知っているじゃないですか。正直、その頃はカプコンって知らなかったです。『魔界村』も『1942』も知っているし、よく遊んでいましたよ。けど、どこが作っているのかなんて、まったく興味なかったからゲーム画面に出てくる「CAPCOM」ってロゴも脳がスルーみたいな。だから、最初はカプコンさんを受ける予定はなかったんです。
「ああ、ああ、ああ、『魔界村』とか、アレね~」って
――では、どうしてカプコンを受けることになったんですか?
三上 学生のときの友達が僕の下宿先のアパートに来て、チラシを置いていったんですよ。「ヒルトン立食パーティー、カプコン会社説明会」みたいな。それで「カプコンって何?」ってなって、「ああ、ああ、ああ、『魔界村』とか、アレね~」って。
――そのときに初めてカプコンと『魔界村』が……。
三上 繋がりました。そういえば山田康雄さんの声で『魔界村』のファミコン版の宣伝とかしていましたよね。ルパンの声で「デビューが6月13日になっちゃった~」(注12)みたいな。今思うとありえないですよね。
注12:ファミコン版『魔界村』は発売が延期になった際、ナレーションをつとめる声優の山田康雄氏がテレビCMの中で「デビューが6月13日になっちゃった」と延期のアナウンスをした。
辻本憲三さんが「ウチは一部上場するんだよ!」って、この会社好きかも!って
――ハハハハハ。ちなみに、それはどこの大阪のヒルトンホテルですか?
三上 大阪の梅田のです。貧乏学生ですから「やったぜ、タダ飯食える」って万々歳ですよ。ゲーム業界は好きだし、ついでに面白い話も聞けたらまあいいかな、みたいな感じで、正直カプコンという会社自体には、そこまで興味はなかったです。それで、その説明会を受けに行ったんですけど、今の会長である辻本憲三さん(注13)が「ウチは一部上場するんだよ!」とか言っているんです。当時のカプコンは多分社員300人ちょいくらいですよ。で、「何をぬかしとんねん、このオッサン。風呂敷の広げ方、ハンパないな。ていうか、めちゃめちゃオモロイやん! オレ、この会社好きかも!」ってなっちゃったんです(笑)。
注13:カプコンの代表取締役会長兼CEO。一代でカプコンを巨大ゲームメーカーへと育て上げた実業家で、現在はコンピュータソフトウェア著作権協会の理事長なども務める。
――そうだったんですか。
三上 この会長の言葉を聞いてから、がぜん意欲が出てきて。結局、メシなんか食わなかったですよ。岡本(吉起)さん(注14)をつかまえて、どんな仕事をするのかっていうのを根掘り葉掘り聞いて。もちろん、当時は岡本さんのことを知らなかったですけど、この人が重要なポジションの人なんやなっていうのはすぐに分かりましたからね。それから、もう亡くなられましたけど、開発のトップだった坂井昭夫さん(注15)。
注14:『モンスターストライク』の開発を手がけたことで知られるクリエイター。コナミに所属していたが辻本憲三氏に誘われてカプコンに入社。『ストリートファイターⅡ』シリーズなど数々のヒット作を世に送り出した。
注15:岡本吉起氏らとともに勃興期のカプコンを支え、営業から開発関連部署までを取りまとめた重要な人物。故人。
任天堂の二次面接の日とかぶっていたんですけど、迷わずカプコンですよ
――坂井さん、存じ上げていました。
三上 坂井さんをつかまえて「どんな仕事をするんですか、教えてください」って聞いたんです。そうしたら「シューティングゲームの弾の調整とかやな」、「3年ぐらいで、給料倍になったヤツもおるで」って言うんですよ。それを聞いて「おい、一攫千金やないなかい。好きなゲームをして、3年で給料が倍になる可能性もあるってすごいやん」と。それで「面接試験はこの日やけど、ぜひ来てくれよ」って言われたら、「ああ、お願いします」ってなりますよね。あとで調べたら、その日は任天堂の二次面接の日とかぶっていたんですけど、もう迷わずカプコンですよ。
――任天堂に未練はなかったんですか?
三上 任天堂さんの一次面接のとき、人事の方が軽く会社の案内をしてくれたんですけど、すでに成功した感が出ているんですよ。僕は会社にぶら下がって歯車とかになるんじゃなくて、エンジンやモーターになって自分が回していきたいっていうのがあったんです。やっぱり、ものづくりはクリエイティブなんで、歯車はイヤだったんですよね。だから、今さら任天堂さんに入ったところで僕がやることはなさそうやなって。
1回死んだところから復活したってことで「ゾンビ組」って言われてました
――なるほど、そう思われたんですか。
三上 そうです。カプコンさんはまだ小さい会社で、この先どうなるか分からへんけど、社長は大風呂敷を広げてバカなことばっかり言っているし、「なんか面白そうやん」みたいな。当時はゲーム業界、10年持つかどうかも分からなかったしね。みんなそう思っていましたよ。僕らがカプコンさんに入ったとき、飲み屋に行ったらそんな話ばっかりしていました。「お前らゲーム業界はオレらが30歳になるまで続くと思う?」、「いや~正直分からへんわ。好きな仕事を一生懸命やって、30歳になってから考えたらええんちゃうか」って。当時はみんな若くて、30代の先輩ってひとりぐらいしかいなかったですからね。
――日本では、まだできたばかりの産業でしたもんね。
三上 そうなんですよね。それで、カプコンの試験を受けたんですけど、午前中にペーパーテストがあって、昼から面接だったんですよ。で、面接のあとにペーパーの結果が出るんです。50人ぐらいが座って待っているところに人事の方が来て、「今から名前を呼ばれる方は前に出てきてください」って。20人ぐらいが呼ばれたのかな。僕の名前も呼ばれたので前に出たら、「以上の方はご縁がなかったと思って、お引き取り願えますか」って言われたんですよ。そんな告知の仕方あるかい、みたいな(笑)。
――ダメだったんですか!?
三上 面接の感触はそんなに悪くなかったんですけど、どうもペーパーがダメやったみたいで。「ああ、なかったか。じゃあ商社か銀行かな」って、そのときは思っていました。そうしたら1週間後ぐらいに人事の方から電話があって「手違いがありましたが、内定ですので来てください」って言ってきたんです。
――そういう経緯だったんですか。
三上 なんであんなことになったんですかって、入社してだいぶたってから岡本さんに聞いたら、藤原(得郎)さん(注16)とか、岡本さんとかは欲しかったんだけどペーパーで落とされたと。ペーパーは人事が管理をやっているんですよね。でも、どうしても欲しいって、岡本さんたちが人事を説得してくれて、それで採用になったっていう。後から聞いた話ですよ。だから、僕らは1回死んだところから復活したってことで「ゾンビ組」って言われていました。
注16:『魔界村』、『戦場の狼』の開発を手がけたほか、『ロックマン』シリーズ、『スウィートホーム』など数々のカプコンの名作をプロデュース。岡本吉起氏らとともに勃興期のカプコンを牽引した。
生意気なことを言いましたよ…「評価は他人がするものですから」って
――ということは岡本さんや藤原さんは、三上さんには可能性があると思われたということですよね。
三上 う~~ん、どうですかね。僕は入社後、藤原さんの部下になったんですが、藤原さんが買ってくれたのか、可能性があると思ってくれたのか……まあ分かんないです。でも、ホントにあのふたりが救ってくれた感はありますよね。人事は「お前なんか、いらん」だったわけですから。
――でも、人事を説得してまで採ったということは、やっぱり岡本さん、藤原さんには三上さんが魅力的に映ったってことじゃないですか?
三上 でも、僕は面接での態度が悪かったですからね。僕を面接したのは坂井さんと岡本さんと藤原さんの3人ぐらいだったと思うんですけど、「どんなゲームが好きか」、「どんなゲームを作りたいか」、「みんなと普通に仲良くできるか」みたいなことを聞かれて。で、最後に「自分のことをどう評価するか」って聞かれたんですけど、生意気なことを言いましたよ、「評価は他人がするものですから」って。
――あ、けっこうなことを言われたんですね(笑)。
三上 いまだに覚えています、最後にいらんことを言うたなって。やっぱりチームワークって大事じゃないですか。で、ちょっと匂ったというか、協調性がなさそうっていうのがバレていたんでしょうね。だから、「自分のことをどう思う?」みたいなことを聞かれたんじゃないかと思います。それで「評価は他人がするもの」ってね。生意気でしたよ、ウン。
――でも、逆にその印象が強かったのかもしれませんよ。
三上 そこで、いい印象を持つ人はいないと思いますよ(笑)。多分、「まあ、ええか。ちょっと不安やけど採用してみようか」みたいなことだったんじゃないかなと思います。
先輩社員は、みんな仕事で忙しいから新人は1カ月間ほったらかし
――実際に入られてみてどうでしたか。
三上 最初の1カ月は倉庫みたいな部屋に閉じ込められていましたね。
――倉庫?
三上 同期の企画マンが4人いたんですけど、倉庫みたいな物置部屋に全員閉じ込められていたんです。で、企画書を作るとか、ゲーセンに行ってレポートを書くみたいな課題が毎日何個かあってっていう。だから、最初の1カ月は残業もちょっとしかなくて、超余裕で定時に帰っていましたよ。
――物置というのは、いわゆる会議室を潰したような部屋なわけですか?
三上 いや、そんな小ギレイなもんじゃないですね。会社の倉庫みたいなところで、そこにボロボロの机を4つほど運んで。しかも、先輩たちは誰も見に来てくれないんですよ。みんな仕事で忙しいから1カ月間ほったらかし。でも、1回ずつぐらいは……の三並(達也)さん(注17)も1回来てくれましたね。多分、スリーリングスの竹中(善則)さん(注18)が一番多くて2、3回来たかも。
注17:数々のカプコン作品のプロデュースを手がけたゲームクリエイター。カプコン退社後にプラチナゲームズを立ち上げるが、2016年に代表取締役社長を退任した。
注18:カプコン時代に『ロックマン』、『ブレスオブファイア』シリーズなどのプロデュースを担当。岡本吉起氏の立ち上げたゲームリパブリックを経て、ゲーム制作会社・スリーリングスを設立した。
――それでも2、3回ですか。その倉庫にカンヅメというのは、新人にプランナーとしての企画力を養ってほしいというような意図が会社側にあったのでしょうか。
三上 いやいやいや、そんなんじゃないです。研修はさせなきゃいけないし、ちゃんと面倒見ろやって、藤原さんから絶対指示が下りていたはずです。でも、現場は忙しいから。だって、みんな毎日泊まりじゃないですか。
――ええ、ええ。当時はそうでしょうね。
三上 みんな(会社に)住んでいる状態で、週2回ぐらいしか家に帰らない。で、毎日夜中の2時、3時まで仕事をしているんだから新人の面倒を見ているヒマなんかないですよ。そのときの僕らはそんなこと分からないから、「オレたち、メチャメチャ放置されているよな」って言っていましたけど、その1カ月が終わって現場入ると、いきなり泊まりの連続に。で、「こら、大変やわ」みたいな。
――最初はクイズゲームなどを手がけられたそうですが(注19)。
三上 最初のクイズゲームは『ヒットラーの復活』(注20)とか『スウィートホーム』(注21)を作られた長谷川さんがついてくれたんです。で、クイズの問題はもうあるから1カ月で作れって言われたんですよね。
注19:ゲームボーイ向けのクイズゲーム『カプコンクイズ ハテナ?の大冒険』のこと。
注20:ヒットラーの復活をもくろむ帝国軍に戦いを挑む横スクロールアクションゲーム。アーケードゲーム『トップシークレット』をベースに、1988年にファミコン向けに発売された。
注21:伊丹十三氏が製作総指揮をつとめた同名ホラー映画を原作とした1989年発売のホラーRPG。限られたアイテムをやりくりしたり、屋敷内のさまざまな仕掛けを突破したりと、『バイオハザード』の原形というべき内容になっている。
――1カ月!?
三上 僕らまだ右も左も分からないのにね。しかも、入社したときの説明では、ゲーム制作って半年から1年かかるって話だったんです。だから「本当に1カ月でできるものなんですか?」って聞いたら、「できるんちゃう?」って軽く返されて。「そっか、先輩が言っているんやから、そうなんやな」って信じましたけど大ウソですよ! 3カ月かかりましたよ。
――3カ月でも、かなり早いでしょう。
三上 締め切り前は毎朝5時、6時まで仕事をしていましたね。4人で作っていて先輩プログラマーはひとりだったんですけど、その方は目から血が出そうなほどの充血っぷりで、毎朝真っ赤な目をして「三上ク~ン」って。
クイズゲームの問題を作られた方が飯野賢治さんだった
――すごいですね。最初の頃はずっとそういう感じだったわけですよね。
三上 入社して5年ぐらいはそんな感じでしたね。そういえば、そのクイズゲームの問題を作られた方が飯野賢治さん(注22)だったらしいんですよ。
注22:『Dの食卓』、『エネミー・ゼロ』、『リアルサンド~風のリグレット~』など、数々の個性的なゲームを作り出したゲームクリエイター。歯に衣着せぬ言動もあってカリスマ的な人気を誇った。故人。
――ええっ、飯野さん?
三上 そうなんです。何年後かにどこかで飯野さんにお会いしたとき、「あのクイズゲームの問題を作ったのはボクなんですよ」って言われて「え、そうなんですか? すっごい奇遇ですよね。業界、狭いっスよねえ」みたいな。
「『スウィートホーム』のシステム使ってホラーゲーム作れへんか?」って言われて
――そうだったんですか。その4、5年間、現場で血のにじむような仕事をされて、ある日藤原さんから「お前、怖いもの得意なのか」というような話を受けたということですが。
三上 そうです、入社して4年前後ぐらいですかね。藤原さんに呼び出されて「『スウィートホーム』って、あれ、ええゲームやんな」って言われたんです。「うん、名作だと思います」って答えたら「あのシステム使ってホラーゲーム作れへんか?」って。で、「やりたいです」って言って「じゃあ、任せた」みたいな。それだけで、もう決定です。
――ええ~っ、それでいきなりですか。
三上 呼び出されて、それだけの会話で終わりですよ。「ああいうシステムを使ってホラーゲームやりたい?」、「うん、やりたいです」って。最初の半年間はひとりでしたね。
「そんなヒマあるわけないやろが、オラァ! 何甘いこと言うてんねん!」(笑)
――ひとりだけですか!
三上 初めてでしたよ、ひとりで企画の練り込みをする時間を半年間ももらえるなんて。もう夢のようでしたね。これまでは2、3日で企画出してこい、みたいなノリでしたから。それでいつも時間が足りなくなっていたんで、先輩だった三並さんのところに行って、「これが終わったら、サブとして誰か先輩の下で勉強させてもらえないですか」って言ったんですよ。「オレ、まだ何も教わっていないですから」って。そうしたら「そんなヒマあるわけないやろが、オラァ! 何甘いこと言うてんねん!」みたいな(笑)。
――そう言われちゃったんですか。
三上 言われました。でも、毎日みんな泊まって仕事をしていましたからね。言われてみれば、確かにそんなヒマはなかったと思います。
――じゃあ、その『スウィートホーム』のシステムを使ったホラーゲームも全部自分で考えろっていう感じだったわけですか。
三上 そうです。で、最初の1カ月は心霊モノ、『エクソシスト』(注23)みたいなイメージで考えていました。でも、国内でミリオンヒットを飛ばしたいっていう欲もけっこう強くて。心霊系のホラーゲームでは100万本は売れへん。もっとエンターテインメント性の強い、ゲームとして面白いホラー・エンターテインメントを考えようと。
やっぱりゲームはエンディングでスカッとしたいじゃないですか。ハッピーエンドっていうか、救われた感っていうか。これが心霊系だとなかなか出ないんですよね。そのときに考えたのが、人が動物にやたら食われるやつ。『ジョーズ』(注24)とか『グリズリー』(注25)とかあったじゃないですか。最後はああいう終わり方をしたいなって。
注23:悪魔にとりつかれた少女と悪魔祓いの神父の壮絶な戦いを描いた1974年公開のオカルト映画。主人公の少女・リーガンのグロテスクなメイクや首が180度回転するなどの恐怖演出が話題を呼び世界的ヒットとなった。
注24:海水浴客でにぎわうビーチに突如出現した巨大人食いザメとの戦いを壮大なスケールで描いたスティーブン・スピルバーグ監督の傑作映画。サメ映画の始祖にして最大の名作と名高く、現代においてもなお数々のフォロワーを生み出し続けている。
注25:国立公園に出現した巨大な人喰いグマの恐怖を描いた1976年公開の動物パニックもの。『ジョーズ』の記録的ヒットを受けて数々の亜流作が生み出されたが、本作もそのひとつで、クライマックスをはじめ『ジョーズ』と似通った部分が多い。
映画ではできない、ゲームならではだからイケるんじゃないかと言う感覚
――なるほど。
三上 要は『ジョーズ』とか『グリズリー』とかのラストシーンみたいなエッセンス。ライフルだかショットガンだかで引き寄せてアタマをバーンってやるヤツですよ。で、最後にサメやクマがスイカのように破裂するじゃないですか。あの瞬間、「うわっ、エグっ」ってなるのと、ホッとするのと、スカッとするのが混ざり合った独自の感情になりますよね。これをホラーゲームとして消化するなら、ただ逃げ回るだけじゃなくて、ゲームの主人公として恐怖に立ち向かって、それをブッ壊せるんだっていうものが必要だと。心霊系は実体がないから、物理的に破壊してカタルシスを得るっていうのが難しいんですよね。そうなるとクリーチャーだよなって……当時はまだ「クリーチャー」っていう言葉はなくて、モンスターとか怪物系とか言っていましたけどね。クマとかサメとかもちょっと違うよねってことで、そこからはすぐにゾンビにいきつきましたね。
これは多分映画ではできない、ゲームならではだからイケるんじゃないかっていう。純粋なホラーじゃないかもしれないけど、ゲームのホラーとしてはすごくいいんじゃないかなって考えたわけです。ゾンビの出現はバイオウィルスによるものっていう設定の根拠づけも柱になっていますね。『ドーン・オブ・ザ・デッド(邦題『ゾンビ』)』(注26)は隕石が降ってきて、宇宙のウィルスか生命体かなんか分からないけど、それが原因でしばらくしたらゾンビだらけにっていう話だったじゃないですか(注27)。それで、ウィルスってありえそうじゃん、コレはけっこういいかもなって思ったんです。そこらへんが核になってスタートしたのかな。
注26:ジョージ・A・ロメロ監督が手がけたゾンビ映画の名作。ショッピングモールに立てこもり、迫りくるゾンビの大群と激しい攻防を繰り広げるなど、以降のゾンビ映画に多大な影響を与えた。2004年に同名のリメイク版も公開されている。
注27:『ドーン・オブ・ザ・デッド(『ゾンビ』)』の日本公開版の冒頭部には惑星爆発の映像と、これがゾンビ発生の原因であるというテロップが入っていた。
――わずかな期間でよくそこまで考えられましたね(感心)。
三上 ホントはどっちかっていうと、ピュアホラーのほうが好きなんですけどね。でも、そっちだとやっぱ売れなさそうで(笑)。
立ち向かうんだよっていう…ホラーとしては邪道なんですよね
――「サバイバルホラー」という、ひとつのジャンルを作っちゃったわけですからね。
三上 そうですね。だいたいのホラーって怖いから逃げまわるんですけど、立ち向かうんだよっていう…ホラーとしては邪道なんですよね、矛盾しているんですよ。だから、若いプランナーたちにけっこう反対を食いましたよ。最初は僕ひとりで始めたんですが、途中から増えていって4人ぐらいになったんですよ。で、途中から入ってきた人たちに言われるわけです。ホラーゲームで怖がらせたいのに、なんで主人公がある程度訓練を受けた人で、しかも銃を持っているんだと。普通だったらか弱い子供や女性を主人公にするとか、武器を持たせないとか、そういう設定にしませんかって。
――やっぱりそう言われたんですか。
三上 言われました。最初の1カ月ぐらいはそれで考えていたし、確かに怖いんですよ。「怖い」だけを追及するんだったら、手も足も出ないほうがいいんです。でも、それってわざわざゲームでやりたいかなあ、それは映画でええやんって。で、言ったんですよ。「ホラー映画で追っかけ回されて、何人かで一緒に逃げていたら、誰かが「あーっ!」とか言って絶対コケるやん。イライラせえへん、あれ?」って。
――よくありますよね(笑)
三上 「もう置いてけや」って思うし、あんなのゲームじゃ絶対したくないですよね。「ああいうことはせんでええねん」って。でも、みんなまだ納得できない顔をしていましたよ。あと、『バイオハザード』ってホラーなのに比較的絵が明るいんですよ。
豪華な洋館のもつきらびやかさと隠微なる恐怖の饗宴
――確かに明るいですね。
三上 あれもそうで、怖がらせるんだったら暗がりのほうがいいんですけど、僕は洋風の建築がすごい好きなんですよ。自分でもちょっと分厚い本を何冊か持っているぐらいで。だから、そのすごくカッコよくて、おしゃれな洋館を歩き回る楽しみもエンターテインメントとして提供したいと。そこもホラーと矛盾しているんですよね。豪華な洋館ってきらびやかですから。でも、けっこう暗いところもあって、そこに隠微なる恐怖があるっていう。それこそ横溝正史さんのような世界観で、僕の中ではある種の接点があったりします。
――僕はゾンビ犬が襲ってくるところがすごい怖かったですね。野生動物がゾンビ化して飛びかかってくるところに制御できない怖さみたいなものを感じました。
三上 あれはゲームらしいところですよね。やっぱり敵に慣れて対処ができるようになったら精神的に安心するじゃないですか。だから、ちょっと変化をつけて。ゾンビは遅くて二足だけど、こっちは動きが早くて四つんばいでっていうね。そうした部分で犬はもってこいだなっていうのがありました。
折り合いをつけているヤツって一流になれないんじゃないのか…
――3Dで作られたわけですが、その点でも相当なご苦労があったんじゃないですか?
三上 最初はフルポリゴンでフル3Dの主観視点だったんですよね。スカっとさせたいけど、怖さっていうものもできるだけ高めたいですから。やっぱり主観視点のほう怖いし、感情移入しやすいんですよ。でも、どうも自分が思う映像……最低限必要なポリゴン数やフレーム数、解像度的なものっていうのが出なかったんですよね。で、このままいったら……自分が映像的に妥協できなかったら、ペンディングになっちゃうなって思ったんです。僕はスーファミのF1ゲームを8カ月半ぐらいでペンディングにしたことがあるんです。F1が好きだから、こだわりを捨てきれなくて。お客さん目線での落としどころというものを見つけられなくて、自分のこだわりをチームの人たちにゴリ押ししためにプロジェクトをコカしているんですよ。このままだと、また同じことになりそうな予感がしたんです。
そのF1のプロジェクトを潰したときは、まだ分かってなかったですけど、それまで自分が求めているものは点だったんですよね。コレ、コレ、コレ、コレっていうのがあって、そこからズレたら絶対ダメだと。いわば点を紡いでいく作業で、点と点だから線でしか繋がっていないわけです。ほかのクリエイターさんの協力を得ながらチームでやっていくことを考えた場合、それでは幅がないんですよね。
――なるほど、そうですね。
三上 で、当時『バイオ』をやっているときにヒッチコック(注28)の本を2、3冊ぐらい読んだんですが、その中に役者さんが言っていたらしいというヒッチコック監督の一言があったんです。「僕のコンセプトから外れない限りは、アナタたちは何をしてもいいんです。ただ、コンセプトから外れたら絶対に許さないよ」って。線じゃなくて面だったり幅だったりを持たせて現実的に着地させる、どこかで折り合いをつけてバランスを取っていかないとダメなのかなって、そのとき思いましたね。
注28:戦前から1970年代まで、長きにわたって活躍したサスペンス映画の巨匠。代表作は『サイコ』、『裏窓』、『北北西に進路を取れ』、『めまい』、『鳥』など多数。
――なるほど。
三上 ただ、その何年後かに、また違う疑問にぶつかりましたけどね。こうやって折り合いをつけているヤツって一流になれないんじゃないのか、むしろ自分の理想をビタ一文曲げないヤツ、僕がF1を潰した頃のやり方のほうが一流に近いんだろうなって。そうやって着地させたものが天才のなすワザっていう評価をされがちで、僕は二流街道にハマっちゃっている恐れがあるなあと、『バイオ』を作った2、3年後に気づきましたね。
そんなときに目についたのが『アローン・イン・ザ・ダーク』だったんですね
――そうかあ……。
三上 でも、『バイオ』を作っているときは過去の失敗から学んで同じミスをしたくないっていう一心で。確かに主観のスタイルは怖いんだけど、作りたいのはたまにスカッとするホラーで、そこの満足感をお客さんに届ければいいわけでね。主観のほうが怖いっていうのはベターチョイスではあるけど手段のひとつでしかなくて、目的はお客さんの満足のありかたなんだと。そこに強くこだわるなら手段はいくらでもあるんじゃないのか、違うやりかたで満足を提供できればいいんだって、そのときはそう思っていましたね。
主観視点のときから「身構える怖さ」っていうのが考えにあったんです。コントローラーを握って曲がり角を曲がるときに「ビクッ」ってなるけど、何もなかったら「おお、おらへんかったわ」ってなるじゃないですか。これはゲームならではの感覚ですよね。この「身構える恐怖」って立ち上げ当時は言語化できていなくて、開発を始めて1年ぐらいのときに言葉になった感じがします。だから、みんなには「おお~~っ、フゥ~~、ああっ!……ってな感じにしたいんや」みたいな説明していました。
――ハハハハ。
三上 で、そこが答えなんです。着地点はそこなんですよね。全部そのため手段だと思えば、(主観じゃなくても)そんなにガッカリしなくてもいいんじゃないのって。一生懸命そう自分に言い聞かせていました。
――あ、言い聞かせていたんですか。
三上 「ぜえ~~ったい、主観視点がいいのに」って思う自分と「それはあなたの満足であって、プロとしてお客さんのことを考えたら、答えはそれだけじゃないんじゃないの?」っていう自分がせめぎ合っていました。でも、「お前、このままいったら、もう1回同じこと(ペンディング)やるよ、どうする?」ってなって、いろいろアプローチを考えようかなと。そんなときに目についたのが『アローン・イン・ザ・ダーク』(注29)だったんですね。プリレンダだけど、お客さんはああいう空間の中でやっているんだと、フルポリゴンだと思うかもって。実際はキャラクターとか以外は全部プリレンダリングした一枚絵なんですけどね。
注29:2人の主人公が呪われた屋敷の謎に挑む1992年発売のフランスのホラーゲーム。プリレンダの2D画像をバックに3Dのキャラクターを動かすという独自システムを生み出したことから3Dホラーゲームの元祖とも呼ばれる。
妥協とは、一番大事なものを実現するために2番目、3番目のものを削るということ
――ハハハ、そうですよね。
三上 このアプローチはすごくいいなって思ったんですね。「身構える怖さ」ってところは基本的に大きく変わることはない。没入感や主観度っていうところは、ちょっと主観視点と変わってくるけど、そこは妥協の部分じゃないのかなって。そこはあきらめて「身構える恐怖」を落とし込む。いい意味での妥協と捉えるべきじゃないのかなって思ったんです。
ジョン・バーナードさん(注30)っていうF1の世界で活躍したカーデザイナーさんがいるんですが、その方が「いいF1マシンを作るためには何が必要なんですか」って聞かれて、ホントかどうかは知らないですけど「妥協できることだ」って答えたらしいんです。もちろん、いい意味でね。「何を言っているか分からへん」って最初は思ったんですけど、『バイオ』をやっているときに「ひょっとしたらコレちゃうかな」と。一番大事なものを実現するために2番目、3番目のものを削る。で、一番大事なものは絶対にやり遂げるっていう。そのための妥協だと言っているのかな、多分そうだなって。そう勝手な解釈をして自分に言い聞かせていました。「なんだかんだ言って妥協は妥協じゃねえのか?」っていう自分もいましたけどね。「カッコわる~」みたいな。
注30:マクラーレンやフェラーリなどで活躍したカーデザイナー。80年代にニキ・ラウダやアラン・プロストのチャンピオン獲得に貢献。フェラーリ時代にはF1では初となるセミオートマチック・ギアボックスを導入するなど、革新的なデザインの数々は現代でも高く評価されている
――そう思っちゃいましたか。
三上 「へえー、そこで折れちゃうんだ、ハァ~~」、「うわ、ダッサ、ダッサ」みたいなね。で、もうひとりの自分は「これ降りたら、もう2回目やで!」っていう。まあ自分との闘いでしたけど、結果オーライでしたね。
「自分だったらこうするのに」っていうのは絶対あります
――その後、三上さんはある種プロデューサー的な立場に変わられましたよね。
三上 『バイオ2』のときは神谷(英樹)(注31)の下でプランナーをやっていましたよ。
注31:『大神』、『ベヨネッタ』シリーズなどを手がけたことで知られるプラチナゲームズのクリエイター。カプコン時代に『バイオハザード2』、『デビルメイクライ』などの作品でディレクターを務めた。
――『バイオ』シリーズは、ご自身の手をじょじょに離れていきましたよね。『バイオ4』で、また現場に戻られるわけですけど、任せている間、ご自身の中で葛藤はなかったですか?
三上 ありますよ。「自分だったらこうするのに」っていうのは絶対あります。それを必要以上に出すと任せていることにならないんで、若い子にチャンスを与えるようにしていますけどね。でも、それは何10年経った今でもずっと葛藤しています。
昔も大変でしたけど、今のゲーム作りはもっと大変になっていて、経験が必要だったりするじゃないですか。どこも試行錯誤して、もがきながらやっているんだけど、若い子はそういうことを知らずに、「あそこのスタジオはこんな作り方をしていますよ」とかネットでかじってくるんですよ。本当にその通りに作っているかどうかなんて分からんし、海外の人はコレ(口)が上手いから。
――そうそうそう(笑)。
三上 日本人から見ると海外はすっごいスマートで、リテイクの少ない賢い作り方をしているように思えるけど、それはお前の経験が薄いからで、どこもだいたい一緒やって言うんですけどね。もちろん今のウチより、もうちょっとスマートな作り方をしているところは、たくさんあると思うけど、だからって計画どおり全部いくかっていったら、いかねえよって。
――若手を起用したり、いろいろな人の意見を調整したりしなければいけない立場になられたわけですが、ご自身のクリエイティブとのせめぎ合いみたいなものは今も常にあると。
三上 ありますけど、ほとんど黙っているようにしていますね。今は特にそうです。そもそも説教自体が若い人からすると死語じゃないですか。ただ、そうは言ってもゼロにはできないですよ。そうした葛藤をゼロにしたらゼロにしたで、だいたいグチャグチャになるんですよね(笑)。グチャグチャになって他のスタッフの苦情が入ってきたり、しんどすぎて人が辞めちゃったりとかね。
だから、任せ方の範囲が大事になるんですが、プロジェクトの重要なところをベテラン勢で抑えるっていうのは絶対ダメです。プロジェクトの責任を自分が全部背負っているんだって自覚があった上で、自身のクリエイティブとか、いろいろ回していかなきゃいけないのに、その一番デッカイところを外してどうすんねん、みたいな。それじゃ(人が)育たへんって。
――まさに三上さん自身が経験してきたことですもんね。
三上 そのプレッシャーっていうものがクリエイティブには必要なんです。だから、アイディアも大事だけど、同じようにHPが必要だったりするんですよね。『ドラクエ』とかで魔法使いはすごい魔法攻撃をいっぱい持っているけど、HPが少ないから最前列に出したら、そうした魔法を使う前に死んじゃうじゃないですか。ディレクターもそうで、最前線でスタッフに叩かれまくりますよね。「おもろないんやけど」とか「前はコレで良いって言ったのに、なんで変更やねん」とかって。で、「いや~アレちょっとミスで、ゴメン」とか言うたびにHPが削られていく。だから、それに耐えるためのHPが大事になると。特に、今の人ってプライドが高いですからね。失敗したことが少なくて、心の中で「オレ100%」みたいなものを持っていたりするじゃないですか。だから、道を聞くぐらいだったら迷ったほうがマシみたいな人がけっこう多いですよね。
人間に生まれた時点で、だいたいみんなアホやと僕は思いますけどね
――そうですね。
三上 で、分かんなかったら聞いたらええやんって言うと、「いや、恥ずかしい」、「アホと思われるんちゃうか」みたいな。人間に生まれた時点で、だいたいみんなアホやと僕は思いますけどね。戦争やってムチャクチャ人が死んでいるのに、何回でも同じことをするし。海の中を泳いでいる生き物で、なぜか哺乳類だけに親近感を感じて、イルカとクジラは殺しちゃダメとか「はあ~?」ですよね。
――アハハハハハ。
三上 だから、来てほしくないですけど、宇宙人が来て「人間の脳みそがウマい」とか言って食ってほしいですよね。「これがまたウマいんや」って。伊勢海老の地獄焼きってあるじゃないですか。火鉢に海老をグッと押さえつけて、グジュグジュグジュ~~って焼くやつ。ホントは残酷だって分かっているから地元の漁師さんはアレを「地獄焼き」って名付けたんですよね。で、宇宙人があんな感じで人間を生きたまま焼いて食ってね。「でも、タンパク源取らなあかんし、キミら知能低いやん?」とか「なんか知能低いなりに、いろいろ思うところあるかもしれんけど、キミらの悩みとかオレら分からへんし」とか「恨みつらみとか言われても、なんとも思わんなあ」とか言われたら、どうするんでしょうね。
――ホントですね。
三上 昔の人は食うために最低限のものだけ殺していましたけど、今の人たちはお金に換算したりしますしね。無人島に行ったら最初は自分が食うだけの量の魚を獲って「ウマい、ウマい。今日も腹いっぱいなった、幸せや~」ってなるけど、隣に誰かが来てバンバン獲り始めたら「オレも」ってなるじゃないですか。で、網でガ~って獲って「全部食うの?」って聞いたら、「いや~余った分は売りさばいてカネにしたらハッピーやん」みたいな。そうやってきたんだから、食われる側になるのはイヤだけど、されてもしょうがないかもねっていうのはありますよね。だから、クマとか狩っているときに子グマだけ助けたりするのもバカじゃねえのって……すみません、僕はよく脱線するんです。なんの話でしたっけ(笑)。
クローバースタジオをたたみたくはなかったですよ
――いえいえ、大丈夫です。ちょっとお答えしにくいかもしれませんけど、このあとカプコンをお辞めになりましたよね。一度クローバースタジオ(注32)に入られて、一部受託する形でカプコンと仕事をしつつも、最終的にお辞めになられたわけですが、何かご自身の中での思いがあったのでしょうか。
注32:ゲームの企画・開発などを目的に2004年に設立されたカプコンの子会社。『ビューティフルジョー』、『大神』、『GOD HAND』(後述)を制作したが2007年に解散となった。
三上 衝撃発言かもしれませんが、クローバースタジオをたたみたくはなかったです。僕はたたみたくはなかったですよ、ウン。
――それはご自身で自由にやれる環境だったからでしょうか。
三上 カプコンでずっと継続して頑張っている開発のスタッフには申し訳ないですけど、本体からちょっとだけ距離を置いて自由にさせてもらいたいっていう。それが狙いのひとつでしたよね。やっぱり会社なんでシリーズとか派生形とか、IPのブランディングをいろいろ考えるじゃないですか。で、オリジナルは数字が読めないですから「これ、ナンボ売れると思う?」って聞かれても「分からへん」って言うしかないんですけど、株式上場したら、それは通じませんよね。株主たちが「来季、再来期はどうなんねん」、「中長期計画を出せや、コラ」とかなっている中で、オリジナルA、B、Cっていう計画を出して「これが100万本で、こっちが200万本で」なんてね。
――言えないですよね。
三上 言ったら「は?」ってなりますよね。根拠のカケラもないですから。
――それでクローバースタジオに入られたと。カプコンと距離を置いた理由も同じと考えてよろしいんですか?
三上 そうですね。クリエイティビティの部分で新しいことへのチャレンジをしつつも、グループの一員として連結決算とかで、しっかり黒字を叩き出して貢献する立場みたいなところが一番いいかなって。そう思っていたんですけど、僕が『GOD HAND(ゴッドハンド)』(注33)を外注さんと組んで作っているときにクローバースタジオの開発がゴッソリ辞めちゃったんですよね。(笑)。
注33:三上氏がクローバースタジオ時代に制作したプレイステーション2向けのアクションゲーム。バカゲーテイスト満載のハチャメチャなノリとシビアなまでの難易度が話題を呼んだ。
「もうオリジナルを作れる可能性はない、だから出るしかない」となっちゃったわけです
――あの頃、おっしゃるような大量離脱があったわけですが、やっぱり会社がオリジナルに消極的というのがあったからでしょうか?
三上 オリジナルを一切作っちゃいけないっていうわけではないんですけど、経営側としては従業員にメシを食わせなきゃいけない。その責任を役員は持っているんだと。ビジネスでスポンサーがいてクライアントさんがいて、株式とかいろいろある中で、自分たちが生きていくためには、ちゃんと数字を出さなきゃいけない。経営側としては社員たちの生活を保証しなきゃいけないから、感情に流されないためにも、そこは厳しくなきゃいかんと。それはその通りなんですが、多分それをキツく言っちゃったんでしょうね。それで、みんな「もうオリジナルを作れる可能性はない、だから出るしかない」となっちゃったわけです。
――そうだったんですか。
三上 僕なんかは最初に話したような親父に育てられたんで、少々キツいことを言われても「本気で言うてるわけちゃうやろ」って分かるんですけど、若い人は本気にしちゃうんですよね。だから、僕も上に言ったんですよ。「みんな辞めちゃいますよ」って。でも、そこは譲れない、誰かが厳しくしないとダメなんだと。カッコいいけど、そりゃ辞めちゃうよなって思いましたね。だから、なんとなくヤバい匂いがしていましたけど、その時の自分はいちクリエイターだから知~らね、早く現場に帰って『GOD HAND』の続きつ~くろ、みたいな(笑)。
――アッハハハハ、作りたくてしようがなかったわけですね。
三上 だって8年半現場から距離を置いていたんで、僕は僕でストレスが溜まっているわけです。(机を叩きながら)今まで会社のために散々サラリーマンとして、クリエイティブ以外も頑張ってきたやんって。やっと『バイオ4』で現場90パーセントの仕事をさせてもらってね。「サバイバルホラーを作るために現場に降りたんじゃないんだけどなあ」とか思ったりもしたけど、やっぱり作り始めたら楽しいわけです。で、『GOD HAND』は勝手に好きにやっているゲームなんで、そこに早く帰りたかったんですよ。
上としては僕にフォロー役になって欲しかったんだと思います。オリジナルを作っちゃいけないわけじゃないことを伝えて、みんなを説得してくれみたいな。そこが真意だったと思うんですけど、僕としては8年半ガマンしてやっと現場に戻れたのに、そこに行ったらまた振り出しだよと。もうクリエイティブに専念するんだっていうね。新しいスタジオをまた作ったのもそこに繋がっています。それがTango(タンゴ)で、今はまたちょっと経営寄りに近い中途半端なポジションで若手にチャンスをっていう感じですね。
あっちのプロデューサー陣にその話をしたら、「アンビリーバボー」ってハモりましたよ
――ゼニマックスさんとはもともと接点があったんですか?
三上 なかったんですけど、スポンサー探しの時に高橋徹(注34)やアイキス(注35)にいた家次(栄一)さん(注36)の紹介で、じゃあゼニマックスさんを入れてプレゼンしてみようかっていう話になったんですよね。
注34:『The Elder Scrolls IV:オブリビオン』の日本版などを手がけたことで知られる元ゼニマックスのアジアゼネラルマネージャー。
注35:ゲーム関連企業やベンチャー企業のマーケティング関連事業を行っている会社
注36:有限会社アイキスに所属していた元カプコンのマーケティング担当執行役員。株式会社でらゲー代表取締役
――日本のカプコンとは作り方が違うとか、外資ならではの作りにくさみたいなものは特に感じられなかったですか。
三上 チェックは細かいですよね。昔のカプコンさんは企画チェックを通して、体験版あたりで営業とかセールスにちょっと見せたら、あとはマスターまでほとんど見せなくてもよかったんです。契約のために外資の会社に営業しに行ったときに、あっちのプロデューサー陣にその話をしたら、4人ぐらいいたんですけど「アンビリーバボー」ってハモりましたよ。
――ハハハハ、4人がそろいもそろって。
三上 テレビ番組の『アンビリーバボー』も長いことやっていますけど、「外人さんはアンビリーバボーってホンマに言うんや」って。「そんなにアンビリーバボーか?」とも思いましたけどね。
ここ5年ぐらいで最高のスベりです。「ドントスィンク、フィーール!」って
――でも、今はそのスタイルでやられているんですよね。
三上 年々細かくなってきていますから、面倒くさくて(笑)。今はマーケティングの力が強くなっていますからね。一流のマーケティングができる人って、売れるかどうか鼻でかぎ分けると思っているんですよ。で、二流は過去のデータの蓄積と蘊蓄で数字を引き出そうとするんですが、そうするとオリジナルは潰されちゃうんですよね。データは説得力がありますから。
僕は一番のボスがいる大事なミーティングで、しゃべったことがあるんですよ。オリジナルの企画を若手が頑張っているんですって。これをデータとかで杓子定規に考えるんじゃなくて、いいと思うんだったらいい、面白くないんだったら面白くないって判断してほしい、「Don't think! Feel!(考えるな、感じろ)」って。『燃えよドラゴン』(注37)のブルース・リーのセリフですよ。
注37:70年代に一大ブームを巻き起こしたカンフー映画の傑作。くだんのセリフは映画の冒頭でリーが弟子に稽古をつけていた際のもので名ゼリフとして名高い。
――『燃えよドラゴン』冒頭のシーンですよね。
三上 めちゃくちゃスベりましたよ。ここ5年ぐらいで最高のスベりです。「ドントスィンク、フィーール!」って、ちょっとブルース・リーのモノマネ風にやったのに、ダダスベりやんかって(笑)。K点軽く超えましたよ。多分、あれは一生忘れられないですね。
オリジナルがどれぐらい売れるか、占うための仕組みを僕は作りたい
――強烈ですね(笑)。オリジナルは今後どうでしょうか。やっぱり作りにくいものなんですか?
三上 作りにくいですよ。だから、オリジナルがどれぐらい売れるか、占うための仕組みを僕は作りたいなと思っていて。今考えているのは2種類あって、ひとつはすごいシンプルなやり方です。品質管理とかデバッグをしてくれる人たち、ゲーム好きな人たちがいるじゃないですか。そういう人たちを50人、100人集めて、会社が選んだ1年間のおもなタイトルが何本売れるか、数字を予測させせるんです。年間20~30タイトルぐらいね。で、実際のデータと照らし合わせて、一番成績の良かった3人ぐらいを抜擢して。そいつらにオリジナルの企画を見せて、これぐらいは売れるんじゃないかっていう予測の数字を出させるっていう。理屈なんかまったくない、すごいシンプルな誰でもできるやり方ですね。
――なるほど。
三上 もうひとつは、ある程度ゲームができあがった段階で、一般のお客さんにプレゼンして……このゲームはこういうのが好きな人がやるって、だいたい分かるじゃないですか。たとえば『フォールアウト』が好きな人は『スカイリム』も好きとか、だいたい繋がっていますよね。だから、そのオリジナルとテイストが近いゲームが好きな人を集めて、「これ買う、買わへん? 様子見する?」って聞くと。で、何万本売れたゲームの何パーセントぐらいの人が「買う」って言っているか、いろんなゲームでデータを取って、それらを集計してクロスさせたデータで、どれぐらい売れるか予測を立てるっていう。これがもうひとつの方法論で、これやらせてくれへんかなあって思っているんですよね。
――なかなかやらせてくれなさそうですか。
三上 ちょっと任せてみてくれって1回言ったんですけど止められましたね。
J・ブラッカイマー監督や、日野晃博さんはすごい、いいところを突いているなと
――それは残念でしたね。
三上 だから、ジェリー・ブラッカイマー監督を見てみろと言いたくなります。海賊映画なんてほとんど当たったことがないのに、『パイレーツ・オブ・カリビアン』は大ヒットしましたよね。今のマーケティングだったら、あんなの絶対無理ですよ。
――そうですよね。
三上 海賊モノがなんで流行るかって、感覚的なものですけど分かる気がするんですよね。あれダメ、これダメって最近多いじゃないですか、マナーもうるさいし。でも、昔の海賊時代の海賊って自由でしたよね。なんでもできたし、細かいことも言われないし、夢やロマンもあったし、成り上がれるしって。あそこに今の世の中の反動がきているのかなって。『妖怪ウォッチ』もそうじゃないですかね。なんでも妖怪のせいにできるじゃないですか。「それは妖怪のせいだ」、「ム~リ~」みたいな。
――ハハハハハ
三上 僕も思ったりしますもん。「いや、このゲーム面白いんやけど、こんなん絶対作れないよね」って言って、ムリカベ(注38)が「ム~リ~」ってなったら作れるじゃないですか。「いや~なんか全部妖怪のせいにしたいわあ」みたいな。お前のせいじゃないんだよ、全部妖怪のせいだからって。みんなどこかで、そういう存在や世界を待ち望んでいますよね。だから、日野(晃博)さんはすっごい、いいところを突いているなあと思います。
「お前のせいでこうなった」とか、今の子は一番イヤがりますからね。ウチでも「いや、それダメなんちゃうか」って娘に言ったら文句が返ってきますよ。「アタシ、責められてる気がするんだけど」とかね。「責めてるって……お前がやったことがダメだって言ってるだけなんだよ、別に責めてるつもりはないよ」って言っても「責められてる!」って。
注38:『妖怪ウォッチ』に登場する「ぬりかべ」もどきの妖怪で、何を言っても「ム~リ~」と言って拒否する。そのため、アニメでは願いと逆のことを頼んで言うことを聞かせたりしている。
10回地獄を見て、1回天国が来るかって感じです
――御社のウェブに「チンタラやってるヒマがあったら、どんどんいいものを作ろうや」みたいな三上さんのメッセージがあるじゃないですか。すごい印象的だったんですが、ここでエンターテインメントとかクリエイティブを目指す人にメッセージをいただけるとしたら、どういうものになるでしょうか。
三上 ものづくりが好きで、その道に入ったなら、多少しんどくても誰にも責任転嫁、言い訳することなく貫き通してほしいなと。屁理屈や言い訳を述べたところで、しんどさって変わらないですし、そのしんどいところを乗り越えてやった仕事の成果や結果って、そうそう裏切りはしないです。頑張って作った面白いものは頑張った分だけ、ちゃんと返ってきます。楽していいものを作れるなんて、そんな甘い世界ではないですし。
この業界ってしんどいです、マジしんどいです。僕も3回ぐらい辞めようと思ったことがありますもん。当然、楽しいこともありますけど10回地獄を見て、1回天国が来るかって感じです。その1回の天国が病みつきになるんですよね。だから、ちょっとなんかオレ、おかしいんかなって思ったりもしますね、Mじゃないとちょっと無理なんかな、みたいな(笑)。
半分地獄で半分天国くらいにならへんかなあとは思います
――ハハハハハ、そうきましたか。
三上 ウン、みんなの標準とはちょっと違うのかなっていう。ただ半分地獄で半分天国ぐらいにならへんかなあとは思います。ほぼ地獄ですからね。あと、答えが100パーセント必ず返ってくるって変に期待しすぎないほうがいいですよね。それと、100点を求めすぎないっていうこと。100点を求めると一歩目の踏み出しがしんどいです。今のゲーム作りは特にそうです。情報量だけでもハンパないし、技術もノウハウも相当いるし。
たとえば一輪車とジャグリングと、あとラーメンを食べるのを同時にやろうとしたとします。最初は必ず失敗するし、うまくいかないですよね。だったら、まずは一輪車とジャグリングのどれか1個を極めようよ、と。そうしたら一輪車とジャグリングを同時にやるってことの難易度が相当下がる。そこでベースができるんですよ。で、ラーメンは誰でも食べられる、一番簡単なことだけど、実はその組み合わせの中では、それが一番難しいことなんですね。一輪車とジャグリングを同時にできるようになると、そのアホなことに気づくんですよ。「ラーメンは箸を持って食わなあかんのに、ジャグリングしてたら、箸持たれへんやん」って。
――そうですよね。
三上 これはすっごい極端なたとえですけど、そういうことってゲーム作りでよくあるんですよ。ディレクターなのに、そんなことも気づかないのかって。「オレ、バッカじゃない!?」、「ア~~ッ!!」ってなるときが、けっこうあります。最初は「コレとコレとコレができたら、スッゲエぜ」みたいに思っていたけど、2、3カ月ぐらい経って「めちゃくちゃヤバいことに気づいたわ~」みたいな。
それで、ジャグリングの回数を減らして、その合間に無理矢理ガーってラーメンをかきこむみたいな形にしたとしますよね。そうなると、素晴らしい芸を見せたかったはずが、結果的にお笑いになっちゃうんです。これ、ありがちなんですよ。「アーッ!」とか言って必死でやって、そこから真剣でシリアスなところに戻る、そのギャップが笑えるっていう。焦って無理矢理やろうとすると、そういう着地点になるんですよね。で、「カッコいい!」って拍手されたかったのに「アッハッハッハ、いや~すごく楽しめました~」みたいに言われちゃう。「あの“アーッ!”っていうところ、最高でしたよ」みたいな(笑)。
一番売れるものって二流のベストなんですよ。一流は死んだあとに売れたりするじゃないですか
――なるほど~。
三上 そうならないように、いつも気をつけています。やっぱフィギュアスケートで4回転とか飛びたいわけじゃないですか。でも、プロは転んでしまったら減点されるから、3回転で止めたりするわけですよね。金メダルを取るために最高を目指したいけど、いい意味での妥協も必要っていう。いつも最高のジャンプをするだけが、すべてじゃないっていうね。野球のピッチャーだってオールスターでは全部ストレートで押したりする投手いますけど、シーズンではそんなことしないですよね。自分がカッコいいところだけ見せるんじゃなくて、やっぱり勝つためにやっているっていう。それと同じかなと。
ただ、先ほども言いましたが、これは二流の考え方に転落するリスクをはらんでいるんですよね。だから僕自身はもう二流のベストでいいと思っているんです。二流の頂点を目指して頑張ればいいのかなって。一番売れるものって二流のベストなんですよ。一流は死んだあとに売れたりするじゃないですか。
――ええ、ええ。
三上 だから今は良くも悪くもオッサンになっていますよ。そういうオッサンが着地をうまく決めるっていうところまで考えてまとめると。でも、若い人がそれを崩してくれたりするんですよね。僕の時代ではできなくても、若いヤツが4回転、5回転を決めてくれると。そういう時代が来ると思っていて、その芽を摘まないようにとも思っています。だから、そこはジレンマなんですよ。ノウハウって痛い思いをして覚えるから、ミスを避けるようにできているんですね。で、「着地をうまく決める」ばっかりだと、若いヤツがミスを恐れて4回転、5回転をしなくなっちゃうんです。このジレンマはいまだにあります。やっぱり、オッサンができないことを若い人がやろうとする、その無知ゆえの大胆さ、チャレンジって大事じゃないかなって思うんですよ。いっとき中国もすごい勢いを感じたことがあったじゃないですか。
勢いがあるって、僕の中では無知の証拠なんですよね。視野が狭いとか、経験が浅いことの証であって、だから勢いがある。ここから成長していく過程で、ある意味未熟だけど無限の可能性を秘めているっていう。その時期って国も人間もアホやけど猪突猛進でいいと思うんですね。ただ、それってビジネスとしてリスクが高いじゃないですか。だから、お金を出す側はシブくなる。「それ、なんの意味がある」とか「それはどれぐらいの数字が出るのか」とかって。で、「あの……僕もよく分かんないです」って言ったら「お前は辞表を出したいのか」ってなりますよね。
ビジネスで若い人たちがチャンスを得るのは非常に厳しいなって感じます
――「お前はクビだ!」の世界ですね(笑)
三上 だいたいそうなりますよね。それはそれでビジネスだから当たり前じゃないですか。だから、ビジネスで若い人たちがチャンスを得るのは非常に厳しいなって。それはヒシヒシと感じていますね。だって、売る側からいったらね。若い子が作った、当たるかどうかも分からないタイトルを売ってくれって言われて、それで赤字になったら営業セールスの担当者は自分の実績になるわけですから。ボーナスももらえへんし、給料も上がらへんし、2、3回それやったら場合によってはクビですよ。そら自分だって家族がいて子供がいたら、若手が作った数字の読めないゲームばっかり売りたくないですよね。そんなの若手のラーメン職人しかいないチェーン店を作りませんか、みたいなもんじゃないですか。若手だけの「ラーメン一か八か」みたいな
――怖いですよね、それは。
三上 面白いからラーメンマニアは行きそうですけどね。若手の才能を発掘して「あの子はすごい美味いラーメン作るんだよ」、「あの人は絶対マークしといたほうがいいよね」とかっていう。でも、よっぽどの人以外は食べログとかで調べて、普通のチェーン店や定番の店に行きますよね。「一か八か」はイヤやと(笑)。
スマホゲームのマネタイズの抵抗感の正体を突き詰めるということ
――最後にスマホのゲームはどう思われますか?
三上 僕は「見て面白い」「やって面白い」っていう条件さえ満たしていればゲームだと思っているんで、昔から別に否定はしていないですし、自分でも今後チャレンジしてみたいですよね。
――では三上さんもチャレンジしたいと思われているわけですね。
三上 そうですね。ただ、最初はマネタイズの部分に抵抗がありました。どうしても心的に許せなくってね。サギに近いじゃんって。ビジネスとしては理解できるんですけど、なかなかね。だから、自分であえて課金してみたんです。けっこう月々使いましたよ。カミさんにバレたらヤバいですけど(笑)。
――ちゃんと自分で投資をしてみたわけですね。
三上 投資してみて自分で感じて、そこの抵抗感が深層心理のところでめちゃめちゃブレーキを踏んでいることが分かったんです。自分は年齢がいっているんで、この抵抗感を外すまでに時間がかかりましたね。今もどこかでふっと我に返ることがありますよ。某ゲームのアイテムが3000円とか6000円とか見て「たっか!」てね。いや、6000円あったら吉野家で牛丼が12、3回食えるとか思いますよね。
――ハハハハ、確かに思いますね。
三上 僕、吉野家がけっこう好きなんです。牛丼の中でも安定感抜群で600円でもいいよなって。クリエイティブの側からするとクオリティ=お金なんで。普通のゴハン屋さんでも牛丼を頼むこともあるんですけど、だいたい吉野家よりマズイですもん。でも、吉野家が価格を400円にしたら客が減っちゃう、「ふざけやがって」とか言ってね。それはみんなが吉野家は「安い」、「300円前後」って思い込んでいるからで、あんなの刷り込みですからね。スマホ代だって1万円近くしますけど、違う国で育った人は「いや、スマホ代って2、3千円です。え、日本は1万円? ウソでしょう」ってなるわけじゃないですか。あれも刷り込みで常識が変わったらっていうことですよね。国としてITに力を入れるからスマホ代はタダとかね。そうなったら機種変え放題みたいな……すみません、ゲームの話が薄かったですよね。
――いえいえ、すごく面白かったです。今日はありがとうございました。
取材協力/仁志睦
撮影/北岡一浩
初出展/エンタメステーション
インタビュー取材・文 / 黒川文雄
ご高覧ありがとうございました。ここまでのテキストはすべて無料公開です。このあとの課金部分は、エンタメ異人伝、ゲーム考古学に賛同いただける方のみへのご挨拶のテキストしかありませんので、支援のご意思のあるかたのみ課金をよろしくお願いします。
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