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カタルーニャのミロ

スペインのカタルーニャ州からは、スペインを代表する偉大な3人の芸術家が生まれています。建築家ガウディ、画家ダリ、そして画家ミロです。
また、ピカソも誕生の地はアンダルシア州ですが、13歳で家族とともにカタルーニャ州の州都バルセロナに引越し、本格的にパリに移住するまで10年近くをカタルーニャで過ごしています。そのため、カタルーニャにはピカソ美術館が3つもあるのです。
このカタルーニャ州が、いま独立問題で揺れています。実はカタルーニャは、独自のカタルーニャ語と文化を持つ自治州で、イギリスのスコットランド、中国のチベット、トルコのクルド人自治区のように、独立問題がくすぶる地域です。
今回は、カタルーニャ出身の画家ミロについて見てみましょう。

2017年10月1日、カタルーニャ州で、スペインからの独立を問う住民投票が行われました。スペイン中央政府は、住民投票は違法として棄権を呼びかけていましたが、独立を支持する4割の住民が投票を行い、賛成多数の結果が発表されました。
日本の感覚だと、地域の独立はあまり現実的ではありませんが、スペインの17の州はすべて州政府を持つ自治州であり、その権限は日本の都道府県よりずっと大きいのです。また、そもそもカタルーニャは独自の歴史と文化を持ち、15世紀にスペイン王国に統合されるまでは別の国家でした。
それで言えば、沖縄だって19世紀に日本に統合されるまでは独立国家でしたが、カタルーニャが沖縄と違うのは、独自のカタルーニャ語の公教育を続けていることと、スペイン内でも有数の裕福な地域であることです。税収の多いカタルーニャは、むしろ独立したほうが豊かになると考えられています。
もちろん、スペインは「憲法違反」だとして、カタルーニャの独立を許しませんでした。現在、カタルーニャ州はスペイン中央政府によって自治権を奪われています。また、住民投票を主導したプッチダモン首相(当時)は国家反逆罪で訴追され、ベルギーに亡命したのですが、EU全域に逮捕状が回っていたため、3月にドイツで逮捕されました。独立強行の代償は安いものではなかったようです。

画家ジョアン・ミロが、カタルーニャのバルセロナに生まれたのは1893年のことです。エコール・ド・パリの画家スーティンと同じ年の生まれです。
ちなみに、ミロはスペイン語読みではホアン・ミロとなりますが、最近は全世界的にナショナリズムが強くなり、カタルーニャ語読みでジョアン・ミロと表記されることが多くなりました。

「黄金の羽根を持つトカゲIX」 1971年 リトグラフ

ミロの生きた時代は、二つの大戦を含む激動の20世紀ですが、ミロは政治とは距離をおき、ひたすら絵を描く人生を送りました。スペインの画家といえば、ダリやピカソのように派手な私生活を送ったイメージがありますが、ミロは違いました。
アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグはミロの印象について、揶揄するようにこう語っています。
「紺のスーツを着た背の低い、小柄な、どちらかと言えば無口な男。少し神経質で、同時にそっけない。いったい何だってこんな俗物が、現代絵画やカルチエ・ラタンやシュルレアリスムにかかわりを持ったのか」
ミロは仕事に厳格で、女性にも堅物の、生真面目な人物でした。しかし、その作品は自由奔放で楽しさにあふれています。人の見た目や性格は、作品の与える印象と同一ではないのです。

無口で大人しかった14歳のミロは、学校の成績がいま一つだったため、父の勧めに従って商業高校に進学して簿記を習います。絵が好きだったミロは、同時にバルセロナの美術アカデミーにも入学するのですが、そこは偶然にもピカソの父が教鞭をとる学校でした。とはいえ、ミロを教えたのは父ピカソではありませんでした。
学業を終えた17歳のミロは簿記係として会社に就職しますが、仕事が肌に合わず病気になって退職します。仕事中、帳簿に絵を描いていたという話もあります。息子をまっとうな仕事人にしたかった父親もとうとうあきらめて、ミロを絵の道に進ませることにしました。1912年、19歳の時のことです。

その後、画家として苦闘するミロを応援したのが、バルセロナのダルマウ画廊です。1918年にはミロの最初の個展を開催し、1920年には「フランス前衛美術展」で、ピカソ、マチスローランサンデュフィブラックなどとともにミロの作品を展示しました。
この頃からパリで活動するようになったミロは、1924年に「シュルレアリスム宣言」を発表する詩人アンドレ・ブルトンと知り合い、シュルレアリスム・グループにも参加しました。といっても、幅広い交友関係を持つミロは、狭義のシュルレアリストにはとどまりませんでした。ミロの作風は時代を通じて何度か変遷していますが、後期の抽象的な作風はいわゆるシュルレアリスム絵画とは一線を画しています。

1929年、スペイン人女性と結婚したミロは一人娘を儲けると、パリから離れて故郷のバルセロナで暮らすようになります。しかし、1936年、スペイン内戦が起きて反乱軍のフランコ将軍が国家元首になると、カタルーニャ語が禁止されるなど自由がなくなります。ミロは家族とともにパリに亡命しました。
戦争に翻弄されたミロですが、ピカソが「ゲルニカ」を発表し、ダリが「内乱の予感」や「スペイン」で戦争を描いても、絵画に現実をあからさまに描こうとはしませんでした。しかし、唯一1937年のパリ万博で描いたポスター「スペインを助けよ」は、ミロの政治的立場を明確にしています。

戦後のミロは、スペインを代表する画家としてニューヨークやパリに招待されつつ、バルセロナとマヨルカ島のアトリエで制作に没頭する毎日を送りました。ミロはカタルーニャと同様、独立自尊の精神を大事にするアーティストでした。現代美術の主流や流行がどうであれ、あくまでも自分の内面の美を追い求めたのです。

ミロが亡くなったのは1983年のことです。90歳の大往生でした。他者からは堅物と見られていたミロですが、好きな絵を思う存分描けたその生涯は、幸福なものだったでしょう。

参考文献
ヤニス・ミンク『ミロ』タッシェン・ジャパン

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