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成果が出るまで粛々と粛々と

達成したい目標や目的に向き合ったとき、何よりも大事なのが長期的にプロセスを淡々と実行し続けられるかどうか、という話

最近仕事で以前から取り組んでいた小さな施策で成果が出始めた。ここまでかかった期間は実に3年、これを長いとみるか短いとみるかは捉える人によって様々だと思うが、長期スパンで何かを取り組んだことがある人であれば、その時間の感覚は「まあ、そんなもんだよね」ということになるかと思う。

成果が出始めた、と書いたが、その成果も取り組みに対して芽が出たということに過ぎず、この先も水やりを怠れば元の木阿弥、今までの苦労が水の泡ということになるゆえ、今まで通りのテンションで粛々と取り組んでいく所存である。

私はこのnoteで度々この「粛々」という言葉を使用するが、「粛々と」は、「心を引き締めて厳しく」「厳(おごそ)かに」「ひっそりと」といった意味となるらしいので、姿勢としては静かに一喜一憂せず、心を動かさずに進めるということになるだろう。

であるからして、先日投稿した私のダイエットの記事のように、いちいちガッツポーズをとったりということは「粛々」には反する行為であったりして、少し恥ずかしい気持ちになるが、いがいとプロセスを粛々と遂行するのはむずかしいものなのだ。

私の今までの粛々体験からすると、長い道のりの中で圧倒的に結果が下振れすることの方が多い。ようはプラスの結果を導き出すのを1とすれば、おそらくマイナスの結果は10から20くらいの割合になるのだ。

その何倍もの失敗や徒労に見えるマイナスの結果に、いちいち凹んでいてはそもそもの粛々という継続の姿勢を維持することはむずかしく、飄々と結果を定点観測するぐらいの気持ちで忍耐強く俯瞰しなくてはならない。

これがどうにも悩ましいのだ。人間は感情の生き物だ。やはり結果が出なければ気持ちが落ち込むし、逆に結果が出ればうれしいものだ。しかしながら長期的なプロセスでは、その場の短期的な結果は一つの通過点に過ぎず、本当に欲しい成果はそのもっと先にあるはずの本質的なものになるかと思う。

仕事など複数の人が絡んだ目標などにおいては変数が多いこともあり、自身ではコントロールできない領域が多々あるため、時間にして数年を要することはよくある話。

「俺は(私は)こんなに頑張っているのに」というのは自分から見た目線であり、その他の関係する外の要因がうまく絡み合わないことには思うような成果が出ないことがほとんどであるため、短期で成果が出るダイエットのような個人プロジェクトとは違い、経過を数年単位でじっくりと見据える必要があるのだ。

しかしながら、一度この長期プロセスで一定の成果を確認できると「こんな感じか」と時間の感覚がインストールされるので、他人を巻き込んでの何かを始める際、わりと悠長に気持ちを維持できるのだと思う。

その維持に必要なのが、自分にできることを「粛々」と行う、という姿勢で、道半ばつまずきそうになることもあるだろうが、無心で体を動かし続ける粛々ロボットになれるかどうかが成果を出す最初のハードルになるのだろう。

最近では老化のせいか、3年という時間はあっという間と感じるようになった。若い人と違って残された時間も限られているので、粛々の姿勢はそのままに、できることは早めに着手しようと思った今回の成果である。

やり続けた先にしか手に入らない成果がある。そのプロセスには「粛々」という姿勢がつきものである


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