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音楽の国の冒険⑥(全7回)

ナチス=ドイツとウィーン

 シェーンブルン宮殿から路面電車でベルヴェデーレ宮殿に移動する。

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 元々は17世紀にスペイン継承戦争で活躍した軍人プリンツ=オイゲンの離宮として建築された宮殿だが、マリア=テレジアの時代になってハプスブルク家に売却された。現在、宮殿の内部は美術館になっており、ウィーンでは美術史博物館に次ぐ規模である。美術史博物館が19世紀以前の作品中心の展示であるのに対し、ベルヴェデーレ宮殿には、クリムトやシーレなど20世紀の芸術家の作品も収蔵されている。
 この宮殿は、映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015年)にも登場したことで知られる。

 この映画のストーリーは以下のようなものである。1998年以来、オーストリアはナチスが第二次世界大戦中にユダヤ人から奪った美術品の返還事業を進めていた。そんな中、ユダヤ人の老女マリア=アルトマンが、ナチスによって奪われてベルヴェデーレ宮殿の所蔵となっていた、クリムトによる叔母の肖像画『アデーレ=ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』の返還を請求するが、この絵画は「オーストリアのモナリザ」とも呼ばれて高い人気を誇っていたことから請求を拒否されてしまう。

 そこで、アメリカ国内でオーストリア政府に対して裁判を起こし、見事絵画を取り戻す、という実話に基づく物語である。余談だが、主人公たちがオーストリア政府への訴訟手続きをする際に、係員から「オーストリアか。カンガルーを見にいきたいな」と声をかけられるシーンがあり、このネタは万国共通なのだな……と少々感心した。
 この映画では、オーストリア政府は徹頭徹尾悪役として描かれている。が、むしろオーストリア政府が自ら返還事業を始め、過去の清算をしようとしていることにこそ注目すべきだろう。『アデーレ』の肖像の返還に応じなかったというのも、他の国でいえば『モナ=リザ』や『ゲルニカ』のようなものだと思えば、感情的に納得できないものではない。何と言ってもイギリスやフランスは、植民地から収奪した美術品の数々を未だに殆ど返還していないのだ。

 オーストリアとナチスの関係は複雑である。そもそも一般にはドイツ人だと思われているアドルフ=ヒトラーは、実際にはオーストリアの出身だ。彼は芸術家志望で、ウィーンの美大への進学を希望していたが、美大に落ちると放浪生活を始め、やがてドイツに移住して政治家への道を志すようになる。
 1938年、ドイツにて独裁体制を樹立したヒトラーは、オーストリア併合を実現する。この時期のオーストリアを舞台とした映画が、ミュージカル映画の金字塔『サウンド=オブ=ミュージック』(1965年)だ。

 この映画は最終的に、主人公のマリアとトラップ大佐一家がナチスによる支配から逃れるためにスイスへと亡命するシーンで終わる。そのためこの映画を観ていると、オーストリアの人々に、ドイツによる併合は抑圧と受けとめられていたかのように錯覚してしまうが、実際にはドイツによる併合は、オーストリアの人々に大いに歓迎された。
 先に述べたように、オーストリアはドイツ人国家であったが、プロイセンを中心とするドイツ統一運動からは排除されてしまった。その要因は、オーストリアがハンガリー人やチェコ人などを国内に抱える多民族国家であり、オーストリアを含めると純粋なドイツ人国家ではなくなってしまうからだった。それゆえ、オーストリアが第一次世界大戦に敗北してハンガリーやチェコを失い、ほぼ純然たるドイツ人国家になると、ドイツ・オーストリアの双方で2ヶ国の統一が望まれるようになったが、これは第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約によって固く禁じられていた。
 それゆえ、ヒトラーがヴェルサイユ条約を無視してオーストリアの併合を強行すると、彼が元々オーストリアの出身だったということもあり、オーストリアの国民は大いにこれを歓迎したのである。
 映画に登場するトラップ大佐は実在の人物であり、スイスに亡命したのも史実だが、これは映画で描かれるような、ナチスの支配により自由が奪われることを嫌っての判断ではない。
 実はオーストリアには、ドイツによる併合以前から、ドルフースという人物を中心とするファシズム勢力により、オーストロファシズムと呼ばれる独裁体制が樹立されていた。要はナチス=ドイツとそう変わらない政治体制が敷かれていたわけだが、トラップ大佐はこの勢力に属する人物であった。この勢力は他を厳しく弾圧する一方でナチスとも激しく対立しており、結局ドイツの併合によりナチスの支配が成立すると、弾圧を受ける側に回ったのである。トラップ一家が亡命したのはこうした文脈の中での出来事であり、思想・良心の問題というよりは純粋な党派闘争の結果としての亡命に過ぎなかった。なお、このオーストロファシズム勢力をナチスに対する抵抗運動を指導した闘士と見なすのか、それとも民主主義を破壊し、ナチス独裁への道を開いただけと考えるのかは、現在のオーストリア国内でも評価の別れる問題である。
 1943年に連合国に出されたモスクワ宣言において、オーストリアは、ヒトラーによって侵略された最初の自由国であると位置づけられた。これにより、戦後のオーストリアでは、自己を加害者ではく被害者と規定する歴史観が形成された。
 すなわち、ヒトラーだけではなく、ナチスの高官にはアイヒマンやカルテンブルンナーなど多くのオーストリア人が存在していたことや、1938年に大規模なユダヤ人迫害が行われたいわゆる「水晶の夜」には、ウィーンにおいて他のどの都市よりも大規模なユダヤ人迫害が行われたという事実は、戦後しばらくの間無視されてきたし、教科書などにも記載されてこなかった。
 このような状況には1980年代末より変化が訪れており、教科書も被害者史観から加害者史観へと書き換えられるようになっていった。映画『アデーレ』で描かれている、オーストリア政府による美術品返還事業は、そのような文脈の中で積極的に評価していくべきだろう。

グスタフ=クリムトとエゴン=シーレ

 さて、ではそんな、アメリカとオーストリアを巻き込んだ大騒動を起こした名画の作者クリムトとは、どんな人物だったのだろうか。
 グスタフ=クリムトの作品は同時代のウィーンの芸術家エゴン=シーレの作品とともに、「世紀末芸術」に位置付けられる。世紀末芸術とは19世紀末から20世紀初頭、ちょうど第一次世界大戦期までの時期のヨーロッパで流行した芸術潮流であり、その特徴は退廃的な性格にあるとされる。
 退廃的というと便利に使われがちで、わかるようなわからないような気がしてしまう言葉だが、私は芸術においては、爽やかさとは無縁の、どこかドロッとした空気感を指す言葉と理解している。代表的なところとしては、ノルウェーの画家ムンクの『叫び』を想像していただくとわかりやすいだろう。

 とにかくこの時代は、ヨーロッパ全体にネガティブな空気が蔓延していた時代であった。19世紀半ばまでのヨーロッパの国々では近代化という価値観が国是とされてきたが、この頃には概ねそれが達成されてしまっており、一つの時代が終焉し、新たな時代が訪れようとしていることを多くの人々が本能的に感じ取っていた。こういう時期には、人々は信じるべき価値観を見失い、漠然とした不安ばかりが広がっていく。わけても超大国アメリカ合衆国の急成長は、「ヨーロッパの時代」の終わりを感じさせた。そこへきての第一次世界大戦である。ドイツの歴史学者シュペングラーが1918年に発行し、ヨーロッパの時代の終焉を予言した『西洋の没落』はヨーロッパ中で広く読まれ、ヨーロッパの、特に知識人階級はますます自信を喪失させていった。

 こういう空気感がこの時代には存在した。まして、明らかな落日を迎えつつあったオーストリアではこのような空気感は一層強かったことだろう。こうした空気感が芸術界に反映されたのが、クリムトやシーレに代表される世紀末芸術であった。
 クリムトは、当時のウィーンの芸術の閉鎖性を批判し、「分離派」という新たな芸術潮流を立ち上げた人物である。彼の作品は「性」と「死」の2つのキーワードによって語られる。
 ベルヴェデーレ宮殿にも展示されている、クリムトの代表作『ユディトⅠ』。一目見ただけで、「退廃的」と形容されるその所以がわかるだろう。

 そもそもこの作品の主題である「ユディト」とは旧約聖書に登場するユダヤ人の女性で、アッシリアの将軍ホロフェルネスによって自分の住む町が占領された際に、彼を誘惑してその懐に忍び込み、油断した所を首を斬って殺してしまったという人物である。
 男を誘惑して破滅に追い込む「魔性の女(ファム=ファタール)」としてのイメージ、そして生首と美女という取り合わせは芸術家たちを引き寄せたようで、歴史上何度も絵画や戯曲のモチーフとされてきた。有名どころでも、美術史博物館にも展示されているクラーナハの作品の他、ボッティチェリ、カラヴァッジョなどの作例がある。特にこの時代には、同じく生首との取り合わせで描かれることの多い聖書中の女性サロメとともに好んで画題とされた。
 が、クリムトの作品は、それらの作品とは一線を画している。まず表情。カラヴァッジョのユディトは首を斬るという作業に嫌悪感を示すようにして、クラーナハの彼女は氷のように冷たい無表情で描かれているのに対して、クリムトの描く彼女は男性の首を斬ったことによる恍惚に打ち震えている。
 また、クリムトの描くユディトは、聖書中に登場する彼女の人格を構成する要素を捨象して、もはや抽象化された「魔性の女(ファム=ファタール)」そのものとして描かれているように見える。まず目を引くのはその髪型。まるでアフロヘアのような、当時としても相当に前衛的であっただろう髪型で描かれている。当然聖書中の本人がこんな髪型をしていたはずもなく、一種の開き直りが感じられる。
 そして、ユディトを描くならば当然生首が大きく描かれるはずの所を、この絵では生首は端の方に部分的に描かれているだけである。にも関わらず、この絵からは過去の巨匠たちの「ユディト」を凌ぐほどの「性」と「死」の匂いが感じられる。
 また、よく似た絵画モチーフであるサロメと区別するために、当時はサロメを描く場合には生首を支える盆を、ユディトを描く場合は首を刎ねるための剣などの武器を描き込むことがお決まりとなっていたのに、クリムトはそのお決まりさえも放棄してしまっている。ここにおいてユディトは、もはや単なる概念と化してしまっているのだ。
 そして、同じくベルヴェデーレ宮殿に所蔵されているのが、クリムトの代表作『接吻』。これもまた、何とも見ていて不安になる作品である。この絵画では男女が、今にも落ちてしまいそうな垂直の崖でキスをしており、「死」のイメージを想起させる。

 男性の服には四角形の、女性の服には丸い幾何学模様を散りばめることで、男性と女性の身体的特徴の差異を強調し、「性」のイメージを描き出している。男性と女性の服装の境界がわからなくなってしまっていて、二人が融合してしまっているかのように描かれているのもエロティックだ。そして、2人を合わせた身体のシルエットは男性器の形になっており、足元に伸びる蔓草は、そこから滴り落ちるものを想起させる。考えすぎや下種の勘繰りと思われるかもしれないが、芸術家とは一枚の絵からここまで読み取るものらしいのだ。

 クリムトがその作風に反して、意外と本人は普通のおじさんだったのに対して(女性関係は派手だったようだが)、シーレはその生き方からして自堕落かつ享楽的で、世紀末を体現する人物であった。
 シーレを語る上で欠かすことのできないのは彼が20代のときに経験した「ノイレングバッハ事件」である。絵画のモデルにするために幼女を誘拐したという容疑で捕まってしまったという事件だ。
 真相は、13歳の家出娘がシーレの家に転がり込んできたのを、彼女の祖母の家まで送り返してやったところ、勘違いした少女の父親によって通報されてしまったに過ぎないようなのだが、にも関わらず「子どもでも出入りできる部屋で猥褻物(エロティックなデッサン)を陳列していた」という罪で3週間の禁固刑に処されてしまった。彼の作品には幼女をモチーフとしたものが多く、それゆえロリコン趣味を持っていたと目されていたがゆえの、重い処置であった。
 またシーレの特徴は、数多くの自画像を残していることである。巨大な男性器を誇示した自画像、虚ろな顔で自慰にふける自画像、両手を切断された自画像なども残しているのだから、その自意識は尋常ではない。
 ベルヴェデーレ宮殿には、彼の代表作『死と乙女』を中心とした作品の数々が展示されている。

 『死と乙女』は彼と愛人ヴァリとの別れを描いた絵画だ。ヴァリは17歳のときに絵画モデルとして当時21歳だったシーレと出会い、以降彼の愛人になるとともに、たびたび彼の絵画モデルとなってインスピレーションを与えてきた。
 しかし当時絵画モデルは娼婦と変わらない軽蔑の対象であり、シーレは結婚相手としては、自分と同じ中産階級の娘を選んだ。彼は勝手なことに、結婚してからも1年に1度はヴァカンスに行こうとヴァリに対して声をかけるが、彼女はそれを拒絶してシーレの下を永久に去ってしまう。このときに描かれたのがこの絵画である。
 この絵画において、「死」として描かれているのはシーレ自身である。自分がヴァリを捨てた側であるにも関わらず、この絵の中のシーレは眼を大きく見開き、傷つけられたかのような表情で描かれている。安定した家庭を望みながらも、インスピレーションの源泉としての愛人を失うことを恐れた、男の身勝手な感情が描き出されている。
 その後、ヴァリは第一次世界大戦にて従軍看護士に志願して、戦場で伝染病に感染してわずか23歳で死去、そのわずか数年後に、シーレはスペイン風邪に感染し、妻、そして彼女のお腹の中にいた我が子とともに弱冠28歳で死去する。
 不謹慎な物言いだが、この顛末こそがこの絵画を完成させることになった。シーレが早死にした、自ら死の匂いを漂わせる人物であるからこそ、観客はこの絵からも鮮烈な死のイメージを感じ取るのである。これが、幸福な人生を生き、大往生した人物によって描かれたとあっては、この絵はまるで説得力を失ってしまう。

 世紀末芸術は、絵画のみに見られる風潮ではなかった。クリムトやシーレが活躍したのと同時期、工芸の分野においてもヨーゼフ=ホフマンらのデザイナーが活躍し、その作品の多くはウィーン市内にある応用美術博物館に収められている。また建築の分野においても、「実用的でないもので美しいものはない」をモットーとした建築家オットー=ヴァグナーによって郵便貯金館やカールス=プラッツ駅舎などの建築物が造られていった。また芸術家ではないが、人間が、生に向かおうとする本能「エロス」と死に向かおうとする本能「タナトス」の両面を持つことを唱えた心理学者フロイトも、クリムトやシーレと世界観を共有していたと言えるだろう。ウィーンは、数百年の歴史を持つ音楽の都としての顔の他に、「世紀末都市」としての側面も有する都市なのである。

音楽の国の冒険⑦へ(5月9日 9:00公開)

by 世界史☆おにいさん(仮)

Header Photo by Arno Senoner on Unsplash

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