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音楽の国の冒険⑦(最終回)

世紀末都市ウィーン

 旅の締めくくりに、中央墓地を訪問する。この墓地の第32A区には、モーツァルトの墓を中心に、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ヨハン=シュトラウス親子など錚々たるメンバーの墓が並んでいる。なおシューベルトは、ベートーヴェンの墓の傍に葬られることを自ら望んだらしい。
 モーツァルトの墓と言っても、もちろんここに彼はいない。千の風になって……というフレーズが頭に浮かぶが、本当にいないのだ。先述した通り、彼の遺体が葬られた場所は誰も確認せずに行方不明になってしまい、文字通り千の風になってしまった。
 観光気分で墓地など訪れてもいいのかと思うかもしれないが、ウィーンの市民たちも散歩コースとしてこの墓地を気軽に訪れている。実際、この墓地はミーハー気分抜きにしても面白い。楽聖の墓ならずとも、それぞれ墓の形状や墓碑銘などに工夫がこらされており、故人の生前を忍ばせるつくりになっているのだ。どうもウィーンの人々の墓地に対する感覚は、我々の感覚とだいぶ異なるようだ。

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 1975年には、ロック歌手のヴォルフガング=アンブロスによって、なんと『中央墓地万歳』("Es lebe der Zentralfriedhof")という曲が作られ、13週にわたってヒットチャートの第1位を飾ったこともある。

 その歌詞は以下のようなものだ。

 中央墓地では、生きていた時にはなかったような気分だ
 あらゆる死者たちが
 今日、最初の百年目を祝っているのだ
 ハッピー=バースデイ ハッピー=バースデイ

 どうやらウィーンの人々には、死を人生の集大成として、精一杯に飾り立てようとする感覚があるようだ。だから葬式もド派手にやるし、皇太子ルドルフや伝記作家ツヴァイクのように、著名人はよく自殺をする。
 ならば、クリムトやシーレ、フロイトがこの都市に活躍したのは決して偶然ではない。死に魅入られた都市、死都ウィーンだからこそ、彼らの芸術や学説は生み出されたのである。

 さて、そろそろオーストリアという国、ウィーンという都市の正体について、自分なりの結論を出しておきたい。
 ドイツ文化の研究者、上田浩二氏によると、ウィーンは、常に過去の理想を追い求める形で変化を遂げてきた都市だという。
 例えば初日に訪れたウィーンの市庁舎はネオゴシック様式、すなわち中世に流行したゴシック様式を模した様式で建築されている。一方でそのすぐ近くにある国会議事堂は、世界で初めて民主政を創始した古代ギリシアに敬意を払ってか、アテネのパルテノン神殿を思わせるような、古代ギリシア風の建築様式が用いられている。さらにウィーン大学は14〜15世紀の建築様式であるルネサンス様式で……と節操がない。
 これらの建築物が作られたのはいずれもフランツ=ヨーゼフの治世、ウィーンの環状道路であるリンクシュトラーセが建設された時期であり、それゆえこの時代はリンクシュトラーセ時代と呼称されている。帝国が落日を迎えようとする中で、ウィーンの市民たちは過去に理想を見つけ、その心を慰めようとしたのだ。クリムトらが新しい美術様式を立ち上げようとしたのも、こうした過去の模倣を嫌ってのことだった。
 冒頭、知人の教師が「オーストリアはとにかくクリムトを推していて、古い国というイメージを払拭したいのかなって思った」と語ったエピソードを紹介したが、この知人の発言には、どうにも違和感があった。何故って単純な話で、クリムトは100年前の人間である。いくらクリムトを推したところで、オーストリアが新しい国であるというアピールにはならない。では何故ウィーンの人々はクリムトをこそ自分たちの象徴だと見なすのか、それは単純に、ウィーンの人々にとって理想とすべき「過去」が、今はこの世紀末の時代になっているからである。だからこそウィーンの顔となる皇帝は、マリア=テレジアでもヨーゼフ2世でもなく、世紀末に君臨し、オーストリアの落日を見届けたフランツ=ヨーゼフでなくてはならなかった。世紀末都市。この形容こそが、やはりウィーンには最もふさわしいのだ。
 では世紀末とは一体何だろうか。美術評論家の千足伸行は、世紀末という時代の特徴を、ハプスブルク家の紋章である双頭の鷲になぞらえて、「後ろを向きながら前を向く」ことだとした。
 なるほどこの定義は、ウィーンという都市の特徴を言い表すのにふさわしい。伝統と革新を、保守と寛容を、そして生(性)と死とを同時に見つめる、矛盾にあふれた都市としてのウィーンである。そしてこのようなウィーンの抱える矛盾は、何でも二律背反的に、白か黒かで考えがちな私たちに、重大な示唆を与えてくれることだろう。
 ウィーンはこれまで、一つ前の時代を理想とし、それをコピーしながら変化を遂げてきた。もし今私たちの生きる時代が歴史として語られるときがきたなら、その頃のウィーンには私たちの時代の精巧なコピーを見てとることができるかもしれない。
 その時まで、さらば世紀末都市よ。そんなことを考えながら――いや、旅をした当時はそんなことは全く考えていなかったが――次なる目的地プラハを目指す長距離バスに揺られていくのだった。

参考文献一覧

・良知力『青きドナウの乱痴気』平凡社、一九九三
・上田浩二『ウィーン─「よそもの」がつくった都市』筑摩書房、一九九七
・中野京子『名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語』光文社、二〇〇八
・河野純⼀『ハプスブルク三都物語─ウィーン、プラハ、ブダペスト』中央公論新社、⼆〇〇九
・千足伸行『もっと知りたい世紀末ウィーンの美術 クリムト、シーレらが活躍した黄金と退廃の帝都』東京美術、二〇〇九
・中野京子『「怖い絵」で人間を読む』NHK出版、二〇一〇
・広瀬佳一/今井顕『ウィーン・オーストリアを知るための57章 第2版』明石書店、二〇一一
・江村洋『マリア・テレジア』河出書房新社、二〇一三
・江村洋『フランツ・ヨーゼフ』河出書房新社、二〇一三
・礒山雅『モーツァルト』筑摩書房、二〇一四
・河野純一『不思議なウィーン:街を読み解く100のこと』平凡社、二〇一六
・ひのまどか『モーツァルト─作曲家の物語』新潮社、二〇一六
・岩崎周一『ハプスブルク帝国』講談社、二〇一七
・中野京子『名画の謎 対決篇』文藝春秋、二〇一八
・山之内克子『物語 オーストリアの歴史─中欧「いにしえの大国」の千年』中央公論新社、二〇一九

by 世界史☆おにいさん(仮)

Header Photo by Martin Lostak on Unsplash

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