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深谷の旅

埼玉県深谷市にやってまいりました。
深谷市は利根川と荒川に挟まれた土地で、江戸時代には中山道の宿場深谷宿として栄えました。現在は深谷ねぎなどが有名ですね。

まず訪れたのは、鎌倉時代に深谷市を拠点としていた武士、畠山重忠の生誕地です。

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畠山重忠は秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(深谷市)を拠点としていました。
「坂東武士の鏡」とも称された智勇兼備の名将です。

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治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)では途中から源頼朝の御家人となり、源義経に従って西国に派遣され平氏討伐などで大活躍をします。
公園にあるこの像は、一の谷の戦いの際、源義経が崖を駆け下りて平氏の虚を突いたという鵯越の逆落としの際、重忠はその怪力によって馬を背負って崖を降りたという逸話が元になって造られたものです。

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鎌倉幕府成立後も幕府の重鎮として重用されますが、頼朝死後の権力争いの中、北条時政によって謀反の疑いをかけられ合戦となり、奮戦むなしく戦死してしまいました。公園内には重忠らの墓もあります。

次に、少し深谷市から足を延ばし、利根川を越えて群馬県太田市に立ち寄りました。
ここには、その昔新田荘がありました。『太平記』などで有名な新田義貞の拠点ですね。

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太田市立新田荘歴史資料館。
左にいるのが新田義貞です。この像は、鎌倉攻めの際、稲村ケ崎において宝剣を海に投げ入れると潮が引き、南方から鎌倉に攻め込んで北条氏を滅ぼした伝説にちなんでいます。

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大河ドラマの傑作、『太平記』で使われた鎧です。
足利尊氏役を真田広之さん、新田義貞役を萩原健一さん(病気のため途中で根津甚八さんに交替)が演じました。
北条氏滅亡や観応の擾乱のシーンは大河ドラマ史上でも屈指の名場面ですね。ぜひ見て下さい。

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さて、もう一つ。この新田荘は徳川氏発祥の地とされています。

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新田氏の祖、新田義重(源義家の孫)の居館跡に建てられた世良田東照宮。江戸時代に三代将軍徳川家光によって建てられたもので、徳川発祥の地である当地を顕彰しています。

伝承によると、新田義重の子孫が得川氏を名乗り、その後戦乱を逃れるため各地を放浪。三河国(愛知県東部)にたどり着いて松平氏と婚姻関係を結び、家康の時代に入ってから吉字である「徳」の字を用いて徳川を称したという流れになります。
ただ、この話の信ぴょう性は怪しく、現在の歴史学では徳川家康が武家の棟梁となるため、源氏という貴種としての家系を創出した可能性が高いと考えられています。
まあ、戦国時代の大名の出自は、島津や武田などの守護大名の家柄を除けばみんな怪しいのですが……(信長も本姓が藤原氏だったり平氏だったりめちゃくちゃですし)。

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さて、深谷市に戻りまして、現在大河ドラマ『青天を衝け』の主人公となっている渋沢栄一ゆかりの場所をめぐります。
これは渋沢栄一記念館にある巨大な渋沢栄一像です。

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大河ドラマにも出てくる、渋沢栄一の生家、中の家(なかんち)。渋沢家は藍の栽培によって栄えた豪農で、ここを訪れると当時の豪農の豊かさがうかがえます。

若いころの渋沢は尊王攘夷(天皇を敬い、外国を追い出そうという思想)に燃える青年で、従弟の渋沢喜作とともに渋沢家を抜けて江戸などで見聞を深め、紆余曲折あって一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになります。
その後、渋沢はパリに留学し、帰国後は民部省・大蔵省に出仕して度量衡の制定や国立銀行条例制定を主導し、明治日本の発展に尽力します。
その後、大蔵省を辞した渋沢は実業家に転身し、500社以上の企業の設立にかかわるなど、「日本資本主義の父」と呼ばれました。

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深谷市にはその一つ、日本煉瓦製造株式会社があります。
この会社は2006年に廃業してしまい、現在は資料館となっています。
この会社で作られた煉瓦は、東京駅や赤坂離宮、東京大学などに使用されています。

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奥に見えるのがホフマン輪窯六号窯の煙突です。
修理中のため、2024年まで見ることはできません。

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深谷駅は東京駅を模して作られています。

現在はコロナ禍でなかなか他県に行くことはできませんが、おさまった後には、大河ドラマを見ている方は是非訪れてみてください。

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高瀬 邦彦(たかせ くにひこ・地歴公民科)

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