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音楽の国の冒険③(全7回)

フランツ=ヨーゼフとエリーザベト

 次に王宮(ホーフブルク宮殿)を訪問する。オーストリアをおよそ600年間にわたり治めたハプスブルク家の一族がその住居とした建物である。ウィーン市内のハプスブルク関連の観光地としては、他に、彼ら一族の墓所となったカプツィーナー教会、彼らの心臓を安置するアウグスティーナー教会などがある。

 ハプスブルク家は、元々神聖ローマ帝国の中では弱小貴族に過ぎなかった。それが神聖ローマ皇帝位を独占し、ヨーロッパきっての名門一族となったのは、ひとえにこの一族の婚姻政策によるものであった。15世紀のオーストリア大公兼神聖ローマ皇帝であったマクシミリアン1世は、自身の婚姻によりネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)を、その息子・娘の婚姻によりスペインを、孫の婚姻によりハンガリーとボヘミア(チェコ)をその領土に加えた。「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉の由来である。
 ただし代償もあった。このような婚姻政策を行っていると、ヨーロッパの王侯貴族はみなハプスブルク家の親戚という状態になり、結果、近親婚が繰り返される。そのため、一族には遺伝疾患を抱えて早世する子どもが数多く現れた。また、ハプスブルクの一族には遺伝的特徴がかなり強い形で現れることとなった。
 具体的に言うと、しゃくれた。
 長い顎と突き出した下唇はハプスブルク家の特徴とされ、「ハプスブルク顎」などという言葉も登場する。ハプスブルク家の子孫で、ハンガリーの駐ヴァチカン大使であるエドゥアルト=ハプスブルク=ロートリンゲン氏は、テレビ取材を受けた際に顎を突き出して先祖の真似をするユーモアを見せた。
 以降、ハプスブルクの血筋には綺羅星のごとき数多の英雄たちが現れていった。スペイン国王と神聖ローマ皇帝を兼ね、ヨーロッパ最大の権力者となったカール5世、ハプスブルク唯一の女帝にして、プロイセンとの2度にわたる戦争を戦い抜いたマリア=テレジア、啓蒙専制君主として時代を先駆けた内政改革を実施したヨーゼフ2世、フランス国王ルイ16世の妃として、革命の中で断頭台の露と消えたマリー=アントワネット、メキシコ皇帝として君臨するも、革命の犠牲となり銃弾に倒れたマクシミリアン……世界史の教科書に必ず登場する人名だけでもこれだけの名を挙げることができる。しかし、この王宮からは、彼ら英雄の残り香は殆ど感じられない。そこに香るのはひたすら、フランツ=ヨーゼフとエリーザベト夫妻の面影のみである。

 フランツ=ヨーゼフはオーストリア帝国最後の皇帝である。実際には彼の甥の子供であるカール1世が最後の皇帝となったが、フランツ=ヨーゼフの在位68年に対してカール1世の在位は2年にも満たないため、実質的な最後の皇帝と見なして差し支えない。彼は、君主の権力に陰りが見え始める19世紀半ばに皇帝に即位し、その在位の中でイタリアやフランス、プロイセンとの戦争を経験していずれも敗北し、第一次世界大戦の最中に崩御した。
 彼の周囲は不幸な死に彩られていた。1867年、弟のマクシミリアンはフランス皇帝の口車に乗ってメキシコに渡りそこで皇帝に即位したが、反対勢力を抑えきれず、フランスにも見捨てられ、最終的に捕虜となり処刑された。1886年には、妻エリーザベトの従兄弟の子で、彼女とも親しかったバイエルン国王ルードヴィヒ2世が、狂乱の末に幽閉され、謎の水死を遂げた。1889年、後継者だった長男ルドルフは、父との対立の末、愛人とともに謎の自殺。さらに1898年には、妃エリーザベトが、後述するようにイタリア人の無政府主義者により暗殺。そして1914年には、長男ルドルフに代わって後継者となっていた甥のフランツ=フェルディナントが、世にいうサライェヴォ事件によってセルビア人青年の凶弾に倒れるのである。オーストリアの小説家ヨーゼフ=ロートは、著書『ラデツキー行進曲』にて、皇帝の身に訪れた悲劇を、「皇帝の身の回りを死神が円を描いて徘徊し、次々と刈り取っていった」と表現した。

 エリーザベト(愛称はシシィ)は、そんな不幸なフランツ=ヨーゼフの妃である。南ドイツ、バイエルンの名門ヴィッテルスバッハ家の出身で、当初は彼女の姉が皇帝の妃として考えられていたのだが、二人の顔合わせのときに興味本位でついていったところ、緊張した面持ちの姉に比べて天真爛漫に振舞う彼女に皇帝がすっかり惚れてしまった、というロマンチックなエピソードが伝わっている。皇帝からの想いを伝えられたとき、彼女は「あの方が皇帝でさえなかったら!」と叫んだという。
 当時の常識に反して、女性でありながらも乗馬や狩猟を趣味とした自由奔放なエリーザベトにとって、宮廷は窮屈な場であった。フランツ=ヨーゼフの母ゾフィーは典型的な鬼姑で、エリーザベトの礼儀作法や生活態度について口うるさく干渉した。次第にエリーザベトは宮廷にいることを息苦しく感じ始め、何かと理由を見つけては旅行に出かけるようになっていき、1年の3分の1ほどしかウィーンに滞在せず、公務にも全く関わらない、というのが常態となった。
 そして、運命の1898年。いつものように旅行中で、ジュネーヴ湖畔に滞在していたエリーザベトは、船に乗ろうとする道すがら、イタリア人の無政府主義者にナイフで胸を刺された。彼女はその瞬間には刺されたことには気づいておらず、気づいたかと思えばすでに意識を失っており、そのまま逝去した。
 犯人の動機は、元々は同時期にやはりジュネーヴに滞在していたフランスの王族を狙っていたのだが、彼らが既にジュネーヴを発ってしまっていたため、身分の高そうな人なら誰でもいいと、エリーザベトに目を付けたというものだった。無論、政治に対して一切の影響力を持たなかったエリーザベトを殺したところで、オーストリアの政治に変化があろうはずもない。何の意味もない暗殺劇だった。

 ホーフブルク宮殿は、ひたすらこの幸福であったとはいえない夫婦の展示で彩られていた。彼らの使った食器、家具、仕事用具、調度品……オーディオガイドによる解説もこの夫婦に関するものが中心である。もちろん、この王宮の事実上の最後の住人なのだから、彼らの足跡が最も多く残っているのは当然である。が、ハプスブルク家の歴史に敬意を持つ自分としては、先ほど名を挙げたような輝かしい面々と比べると、性格的には実直そのものでありながらも、やはり政治的才能という点においては精彩を欠くフランツ=ヨーゼフがここまで押し出されていることには何とも違和感がある。
 それ以上に鼻白んでしまうのがエリーザベトの扱いである。王宮の一室は「シシィ博物館」と名付けられてエリーザベトに関する展示だけにあてられていて、オーディオガイドでも彼女の薄幸な人生が情感たっぷりに語られる。実際、エリーザベトは現在でもオーストリアの人々から大変に人気が高く、何度も映画やミュージカルの題材として取り上げられているらしい。

 もちろん個人として、彼女の抱えていた不幸には共感する。姑との確執、宮廷暮らしの窮屈さ、自由な生活への憧れ、といったテーマが多くの人の共感を呼ぶであろうことも理解できる。が、それでもやはり私には、エリーザベトはここまで脚光を浴びるべき存在であるとは思えない。
 そもそもエリーザベトの抱えていた不幸は、本当に彼女だけのものだったのだろうか。人類の歴史の中で、宮廷に閉じ込められてきた数多の女性たちは、エリーザベトの感じていた自由への欲求を全く感じることなく、狭い世界での生活に満足しきっていたというのだろうか? いや、宮廷に限った話ではない。当時の庶民の殆どが、エリーザベトがしたような自由な旅行など体験できず、彼女以上に狭い世界での生活を余儀なくされていたはずだ。
 エリーザベトは、皇妃が公務に関わらなくても大きくは問題とされない政治状況、そして夫の寛容さといった様々な外的要因によって、幸運にも自らの不幸を表現する機会に恵まれただけなのではないだろうか。彼女が悲劇の皇妃として扱われるのを見るにつけ、更生した不良が褒められているのをみるときのような、何とも言えないもどかしさを感じてしまう。歴史上の英傑は、やはりその能力や功績によってのみ評価されるべきであり、「不幸さ」や「可哀想さ」によって評価されるべきではないのではないかと思う。
 また、エリーザベトに関する展示をみていて印象づけられるのは、何と言ってもその異常ともいえる美への執着である。ヨーロッパ随一の美女と称えられたエリーザベトは、毎日数時間の散歩を欠かさず行うなど、その美貌を保つために尋常ではない努力を払っていた。それでも寄る年波には勝てずに美貌に衰えがみえ始めると、常にパラソルと扇を片時も手放さず、顔を隠していた。
 王宮の彼女の私室には、ダイエット用のつり輪やハシゴ段などの運動器具が展示されており、またシシィ博物館には、彼女が肉を食べるときに肉汁のみを絞り出して啜るために用いていたプレス機が展示されていた。

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 何ともグロテスクであり、彼女の人生を知ったときとはまた別の憐憫――共感を伴わない形での「哀れ」を感じてしまう。

 余談だが、ある漫画家の旅行記漫画を読んだときの話だ。彼女はヴァチカンを訪ねたときの感想として、「ひねくれ者の自分は、教会のトップにあって人々を救わなければならない教皇がこんなに贅沢をしていていいのかと感じてしまう」と言いつつも、ウィーンを訪ねたときの感想として「エリーザベトにすっかり感情移入してしまって、最後の暗殺された下りでは涙を流してしまった」と記していた。正直ローマ教皇の贅沢ぶりに眉を顰めるのはかなり真っ当な感性だし、この人はひねくれ者どころか相当に素直な人物なのではないかと思ったものである。

音楽の国の冒険④へ(5月6日 9:00公開)

by 世界史☆おにいさん(仮)

Header Photo by Peter Oertel on Unsplash

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