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〈ふまじめ〉な学習者を目指して

※「学友」227号(2021年3月発行)に掲載された、世田谷学園の教員による一回読み切り型連載対談です。Web向けに、一部修正してあります。

コロナ禍で世の中は変わったのか?

細井 2020年は大変な年でしたね。新型コロナウイルスの流行で、世の中の生活様式が一変してしまいました。「学友」本誌も前期の発行が無くなってしまって(ただ、おかげで「学友ANNEX」が生徒や鵜川さんを中心に活発に動いているのは逆に良い方向に作用した点だと思いますが)。
 とりあえず世に出ている僕たちの最後の対談は、「学友ANNEX」のものですね。コロナ禍で緊急事態宣言が出された中で行ったものです。

 あれから半年以上、感染は再び拡大傾向を見せていますが(※この対談は2020年12月31日から翌年1月6日にかけて行われました)、人々の行動の仕方は逆にコロナ慣れしてしまったというか、以前に戻ってしまったようにも思います。もちろん、経済との両立とかもあるので一概には言えないですが、せっかく変わろうとしていたものが逆戻りしてしまった感が僕にはあります。

鵜川 本当に大変な事態になってしまっていますね。とはいえ、程度はともかく、起こりうると想定されていたことが起こるべくして起こっている、という状況なので、もう少しどうにかできたのではないか、という感覚を持っている人が多いのではないかと思います。
 そして、我々の生活も変わったような変わらないような。コロナ以前から変化に向かっていた企業や、一部の現場レベルでは変わったところもありますが、それでも変わらない人・組織・システムの問題点がどんどん明らかになっている、という感じですかね。組織の意思決定の仕組みや、相変わらず消えない「不要な仕事」とか。
 「不要な仕事」の方で言うと、2019年に刊行されて話題になった文化人類学者デヴィッド・グレーバーによる『BullShitJobs』が、去年の7月に邦訳されました(『ブルシット・ジョブ─クソどうでもいい仕事の理論』)。

 無駄で無意味だけど、なぜか無くならないどころか、その存在が組織のヒエラルキーを強化しているような仕事について書かれています。リモートワークによって、この「クソどうでもいい仕事」にメスが入るかと思いきや、必ずしもそうじゃなかった、という地獄に、僕たちは今いるようです。

細井 「ブルシット・ジョブ」については訳者の酒井隆史さんの記事を読みましたが、参考になりました。いわゆる「シット・ジョブ」との違いも含めて考えるべき問題ですね。ある種の儀礼的なものが仕事として存在し、また社会的にも求められているという指摘はとても興味深かったです。

 ところで、僕自身が2020年に感じたことは、人々というのは本質的にはあまり変化を求めてはいないのではないかということでした。例えばリモートワークにしても、それなりに有効性が認められましたよね。通勤時間が減って良かったとか、余計なミーティングが減ったというような。でも5月末の緊急事態宣言解除後、以前通り会社に通って仕事をするような状況になっていることが多い。リモートワークのメリットを活かしてフレキシブルな働き方が一般化するのでは、と僕は考えていたので、かなり意外な気がしました。良い意味での変化なら、受け入れられていくわけでは必ずしもないのかなと。

鵜川 その点については、職場や職種によってかなり差があるようですが、一方で、仕事や人生の価値観の問題でもあるのかな、と思うんですよ。
 『ブルシット・ジョブ』が目的として置いているのが、ケインズの語った「週15時間労働」の実現です。ケインズは「技術の進歩によって生産性が効率化され、100年後(2030年)には週に15時間働けばよくなる」というようなことを言っていて、だとしたら、週に40時間(+残業!)働いている現状はなんなんだ、と。で、その減った穴を埋めているのが「ブルシット・ジョブ」だという話なんですね。デヴィッド・グレーバーさんは、これを以下のように定義しています。

 ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わねばならないように感じている。(同書pp.27-28)

 具体的にどんな仕事かは内緒にしておきますが(笑)、そんな「ブルシット・ジョブ」を減らしてしまうと、週40時間が埋まらなくなる人が出てくる。彼らにとって、与えられた役目をきちんとこなすことや、これまで繰り返してきた作業を反復し続けることだけが「仕事」です。これは、多くの会議が無目的に行われているところなんかに象徴的に表れていますね。

細井 確かに、何をもって仕事とするか、どう働くのかという価値観に関わる面は大きいですね。過去に行われていたことを反復することが「仕事」である、という考え方も存在するからこそ、現状の問題というのも生まれているわけでしょうし。
 とはいえ、鵜川さんとの以前の対談でも話題になったと思いますが、世の中の変化の速度というのはそれなりに速いから、定期的にアップデートしていく必要が当然出てくる。そういう意味で今回のコロナ禍は、それぞれの会社や組織、さらには日本社会が持っていた問題点をあぶり出したという考え方もできると思います。
 学校の話になりますが、4〜5月の休校期間中に課題配信やオンライン授業など、どの学校も工夫を迫られたと思うんですね。実際、そこで得られた手ごたえというのも僕自身はありました(逆に限界がわかった部分もあります)。それを上手く使っていくことが大事ではないかと思います。

鵜川 結局、目的をどこに置くのかっていう話だったのかな、と思うんですよね。「そもそも生徒に何が必要か」とか「主体的な学びを実践するためにはどうすれば」とか考えていた人は、休校期間が終わっても、そこで得られたアイディアを元に工夫を続けている。もっと言ってしまえば、そういう人たちは、休校期間が始まる前から(特にうちはiPadの導入という大きな変化があったので)教育と学びに関するラディカルな問いかけに根差した工夫を行っていました。この辺は、社会一般の趨勢と同じですよね。コロナ禍を変化の機会にして柔軟に対応できている企業は、ことが起きる前から柔軟に動いていた、という(もちろん、業種に拠りますが)。

細井 そうですね。僕は正直、ICTに関して疎い部分があったので、昨年の休校期間をきっかけにして勉強したところがあります。で、とりあえず最低限のことはできるようになったのではと(笑)。

学びを変えるためには働き方を変える必要がある

細井 コロナ禍では飲食や宿泊を中心に、対面式の業種が大きな影響を受けました。一方でネット販売などは大きく売り上げを伸ばした。学校という場所はまだまだ対面が主体で、それが基本だとも思うのですが、いわゆる授業の時間というのは一日の生活の中の一部で(6〜7時間程度です)、それ以外の時間がとても長いということを意識させられました。そこで、生徒の毎日の生活をどのようにデザインしていくべきかということを考えるようになりましたね。

鵜川 時間のデザインという視点、めちゃくちゃ重要だと思います!
 現状の学校時間は、カリキュラムと時間割によって細分化され、管理されているわけですが、これがもう限界なんだと思うんですよね。教科学習という縦糸に対して、学び方や活動が横糸になっているのが、これから(今?)の学校教育なわけじゃないですか。「21世紀型スキル」とか「キー・コンピテンシー」とか、この5年ぐらいで耳にする機会が増えたと思います。

細井 どちらもざっくり言ってしまうと、知識や情報をベースにしてそれを融合・活用し、さらには周囲の人たちと共有して課題を解決していくスキルですね。

鵜川 そうです。だとすれば、教科横断なんていうレベルではなく、全ての学びは横断的になるという話です。これは、現状のカリキュラムと時間割では、対応に限界があると思うんですよ。
 今、細井さんが「6〜7時間」って言ってたのを聞いて、本当に学校って「会社」の縮図だなと、つくづく思いました。真面目な人は、言われたことに疑問を感じたりせず、為すべきことを的確にこなし、真面目でも不真面目でもない人は、授業という名の会議を無心でやり過ごし、不真面目な人はそれでも毎日登校してさえいれば、すぐにクビにされたりはしない。そこでは、能力があっても、指示の通り動かなかったり、集団の和を乱したりする人は、むしろ排斥されることになります。
 今時、そんなことをしていれば、会社なら傾くと思うのですが。

細井 ふと一時期流行した「ノマドワーカー」というワードを思い出しました(笑)。それはさておき、職種や年代によって働き方の多様性がもうすでに求められていると思うのですが、そんな中で学校におけるカリキュラムと時間割という発想そのものが時代に即したもの、少なくとも未来志向のそれにはなっていないと思います。それは課題のあり方にもつながってくる話で、いわゆる課題や小テストを課してそれを回収、評価という形から脱しないと、提出することの方にばかりフォーカスが行ってしまって、生徒自身が自分の課題の質を高める=「主体的な学びの姿勢を育てる」という方向に向かわないのではという気がしています。
 というのも、僕自身、今年度は低学年を中心に担当していることもあって、休校期間が終わって以降どんどんと課題の提出に関することばかりに時間が割かれているような気がして(笑)。もちろん出さない生徒に意識づけをすることも大切なのですが、そうでないところが疎かになってしまっているように感じています。

鵜川 結局、文科省の言う「主体的・対話的で深い学び」を具体的にイメージできている人が、どれだけいるのかっていう話だと思うんです。これって、「主体的・対話的で深い〈働き〉」と同義だと僕は考えていて、要するに教員の側が「主体的・対話的で深い〈働き〉」を実施していないと、実現することが難しいんじゃないかと。
 かつて〈詰め込み教育〉として批判されたのは、要するに「受動的で多い学び」です。この教育環境は「受動的で多い〈働き〉」によって実現されました。長時間労働、休日返上が金科玉条となっていた教員の働き方は、こういう環境下で先鋭化しました。その後の〈ゆとり教育〉は生徒の「主体性」を引き出そうとして失敗し、結果的に「受動的で少ない学び」に陥った。この状況においても、教員は「受動的で多い〈働き〉」を継続しました(もちろん、この場合の「受動的」は、上からの指示や既存の方法に対する「受動性」を指しています)。
 そして今、「主体的・対話的で深い学び」を実現するにあたって、教員の「受動的で多い〈働き〉」は役に立たないどころか、実現すべき「主体性・対話性」や「学びの深さ」を理解する阻害要因にもなっているのではないか、と思うんです。

細井 当たり前ですが、まず教える側の価値観が変わらなければ、生徒の価値観を変えることはできませんよね。
 鵜川さんの言う「受動的で多い〈働き〉」の話と関連しますが、1970〜80年代にかけて「生徒の非行を防ぐため」という名目のもとに部活動が利用されたというのは有名な話です。生徒は全員加入という決まりが学校によってはあったりとか。そう考えると、日本の学校って学習としつけ、部活がワンパックになっていたんですよね。それを教員も生徒も保護者も当たり前のように考えていた。
 部活動は一時期からその「ブラックさ」が教員自身によって告発され、外部指導員などにアウトソーシングしていこうという流れが生まれてきています。最初の話の流れと絡めるならば、「全員が登校して6〜7時間授業を受ける」という部分に関しても見直しがあって然るべきなのではないでしょうか。

鵜川 その辺りの大々的な見直しを行おうとすると、結局のところ「主体的・対話的で深い〈働き〉」を実践する必要がでてくるんですよね。これまでのやり方を墨守する(=受動)のではなく、新しい方法論や変化する社会と向き合って「主体的」に教育活動を考えていく、というか。あとは、担当教科や個人の主義主張を超えて、「対話的」に改革に取り組むことも重要です。教科教育って、それぞれの教科に特化した部分よりも、他教科に応用可能な部分の方が多いわけじゃないですか。そうすると、教科を超えた意見交換やら協力関係の構築って絶対的に必要なわけですが、現状、他教科のことには口を出さない、みたいな風潮が一部には残っているようです。生徒は、すべての教科を通じて、さっき話をした横糸を織り込んでいくわけで、教科間の対話的協力関係は、新しい教育を実現する近道だと思うんですよね。

細井 一般の企業でもそうだと思いますが、タテ割りの組織であることが抱える問題ですね。学校だと教科、学年、各分掌(進路指導、生活指導など)があって、これがそれに当たります。個人や何人かの教員から意見として改革案が出されても、最終的にある分掌内の決定だとそうはならない、というのは企業内でもよくある話ですよね。「検討しましたが、今回は採用を見送りました」といったような(笑)。

歴史上のイノヴェイターを現在の視点で評価することの欺瞞

細井 以前の対談でも出ましたが、学校というのは「捨てる」ことが苦手な組織です。現状に加えての新しいプロジェクトの二段重ねとか、これもよくある話ですよね。
 ただ、じゃあ誰かが新しいグランドデザインを考えればいいかというとこれも違います。これだと結局タテ割り発想なので、同じ結果になる。結局、ある程度のフレキシビリティーを持って活動できるような「ゆるさ」が必要になってくるんですよね。

鵜川 その「ゆるさ」がまた曲者なんですよね。
 教員って、基本的に「まじめさ」に価値を置く人が多いじゃないですか。生徒への(心理的な)評価も、「ふまじめ」よりも「まじめ」な方が高くなるし、できれば「まじめ」な生徒に活躍してほしいと願っている。「ふまじめ」な生徒が高得点取ったりすると、釈然としない気持ちにもなる。だから、教員同士の評価も「まじめ」であることに根差して行われる。与えられた仕事を期限内にミスなくやる人、つまり「まじめ」な人が優秀で、そうでなければ「使えない」という評価になる。与えられた仕事だけで忙殺されている状況で、新しいアイディアを試そうとすれば、どこかでミスが出るのは必然なのに。(ちなみに僕はもともと、事務的・作業的な仕事のミスはほとんどない人間だったんですけど、ここ数年は連発してます。単純作業を処理しきれなくなっているのと、試しているアイディアが膨らみすぎていることの相乗効果です。←偉そうに言うことじゃない?)
 はっきり言って、「まじめさ」は目的実現のための一つの手段であって、それ自体を目的にするのは本末転倒です。創造性を要求される場なんかは特にそうで、「まじめ」に制作したとしても、作品がダメなら無価値なんです。ただ、その場合も「まじめさ」が悪いわけじゃなくて、「まじめ」だからこそ、作品をボツにして新しく作り直すわけです。それが、「まじめにやったから」とか「一生懸命作ったから」とか言ってダメなものに価値を与えようとするのは、努力に対する冒涜でもあると思います。

細井 「まじめにやったから」「よく頑張ったから」は学生(社会人初期?)までの評価軸ということですね(もちろん、「まじめ」に作品のクオリティを高めようとする生徒も少数ですがいますよね)。あと、まじめさを最終的な到達点にしてしまうと、やっぱり「受動的で多い〈働き〉」の方向に社会が流れていくと思います。
 ちょっとそこに関連した話題なんですけど、年末年始にTVを観ていて思ったことですが、歴史をテーマにした番組で「今では常識となっている彼/彼女の作品や考え方も、当時はまったく理解されなかった」みたいなフレーズ、多いじゃないですか。じゃあそれを観ている親が子供に対してどういうリアクションをするかというと、「やっぱりこの人、先進性があってすごいね」だと思うんですね。でも、それは事後的な地点から見ているものであって、今すごく突飛なことをやっている人物をその親は認めるかというと、なかなか難しいと思うんですよ。ここにあるのは社会や教育のダブル・バインドというか、1980年代の「個性化教育」重視の文言のときと同じで「個性的なものを奨励しつつ、実際はそれを受け入れようとしていない(あるいは、自分たちが求める「個性」のみ評価する)」日本社会の欺瞞を感じます。

鵜川 「当時はまったく理解されなかった」的な話は、結局のところ、「自分たちはできなくて当然」という結論に至ってしまう気がしますね。だから、子どもはそこに夢を見られないし、大人は「君は彼ら/彼女らとは違うのだから『まじめにこつこつ』やりなさい」と言ってしまうかと。
 この点について、瀧本哲史さんという方がすごくいいことを言っているので、二つ紹介させてください(瀧本さんは、2019年に病気で亡くなられました。本当に惜しい人を、と思います)。
 一つは、「本当に世の中を動かそうと思うのであれば、いまの社会で権力や財力を握っている人たちを味方につけて、彼らの協力を取りつけることが絶対に必要」(『武器としての交渉思考』p.29)ということ。これは、「エスタブリッシュメント層」に媚を売れということではなく、「『将来見込みがある若者』として、彼らから『投資の対象』と見なされる必要がある」(同p.34)ということです。その例として挙げられている人も幅広くて、桂小五郎を支えた毛利敬親、毛沢東を支援した陳独秀、ジョブズとウォズニアックをサポートしたマイク・マークラという人物や、マーク・ザッカーバーグを支えた投資家ピーター・ティールなど。これは特異な例ではなく、歴史上の偉人を見てみても、必ず彼らを支援する人が、それも力のある人がいたと思うんです。それを「理解されなかった」ことにしてしまうのは、まさに自己欺瞞でしょう。

 もう一つは、東大の学生に対して行った特別講義での話です。旧世代と(聴講している)新世代との人口比はだいたい「2対1」。新世代の方が圧倒的に少ないです。けれども、そこで「若者は諦めましょう」と言うのは、敗北主義的な考え方だと。そうじゃなくて「みなさんが、自分のまわりでこいつは話ができそうだなという人を見つけて」「説得して、ひとりこっち側に『引き入れる』だけで、情勢は変更されるわけですよ」(『2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義』p.50)と、語っています。「理解されない」から諦めるのではなく、説得・交渉によって味方を増やせ、というわけです。

細井 積極的に相手に働きかけていくわけですね。似たような形としては、自分の理想を実現するためにある種の妥協や譲歩をする、という戦略もあるのではないでしょうか。自分の主義・主張に賛同してくれる人の数というのにはどうしても限界があります。そういうときに多少譲歩したりすることで味方についてくれる人を増やすというのはひとつの方法論だと思います。10代くらいの年代はナイーヴなのでそういうことを嫌う子が多いんですが、「それもひとつの発想だよ」と今言った話をすることは多いですね。まあ、今の日本の政治のように、それが単なる選挙のための寄り合い所帯になってしまうといけないんですが(笑)。

「ふまじめ」な人が世界を変える!?

鵜川 相手のメリットを考えつつ落としどころを探る、というのは交渉においては現実的な目標の設定に結びつくので、「妥協や譲歩」は重要な戦略になりますね。ただ、教育の場においては、僕は注意が必要だと思っていて。細井さんの言う「ナイーヴ」な生徒を二通りに分けて考えてみたいと思います。
 一つは「大人の言うことは信用ならない、僕は僕の考えを押し通すぞ」というタイプ。実際にそれが個性的か新しいか(=価値があるか)というのとは関係なく、このタイプは中高生の間はほっといていいと思うんですよね。ヴィジョンを語るだけだと困りますが、そこに行動が伴っているなら問題なし。高校を卒業すると、そうはいきませんが、ヴィジョンと行動力があれば、あとはその後の出会いがどうにかしてくれます。
 問題はもう一つの方で、「僕は一生懸命やってるのに、どうして認めてくれないんですか」というタイプ。さっきの「まじめ」の話に戻ってしまいますが、「一生懸命」かどうかっていうのは、やってることに価値があるかないかとは無関係なんですよね。これって、もしかしたら「結果より過程を褒める」という教育観が広まりすぎた影響もあるのかもしれません。この教育観自体は間違ってはいないんですけど、「まじめ」な姿勢だけを褒めると、「まじめ」は善、「ふまじめ」は悪、という価値観の人間に仕上がる。最悪の場合、自分が「ふまじめ」ととられる可能性のある行動はとらなくなる。つまり、新しいことに挑戦せず、今できる範囲のことをコツコツと反復するようになります。
 「過程を褒める」時のポイントは、強化したい行動を具体的に挙げつつ、対話的に褒めること。「漢字を百回も書いてえらいね!」と言うのと、「どういうところに注意しながら書いたのかな」「部首に注目して意味を考えながら練習したのか。それはいいね!」と言うのとでは、漢字練習という単純作業においてすら、違いは明白です。そもそも、「一生懸命」や「まじめ」は、日本人の代名詞のような言葉です。そして、現代において、それは単独では何の価値も持たないと思うのです(「単独では」、ですよ!)。

細井 さっきの鵜川さんの話で言うと、僕は教員になったにも関わらず、明らかに「ふまじめ」な側の人間だと思います(笑)。というのは、現代文や社会といった科目は好きで一生懸命取り組んだんですが、数学は高校に入ったらまったく興味が持てなくなりました。英語も文法が苦手だったから(典型的な文系人間です・笑)、勝手に洋楽の歌詞を訳したりする方が好きでした。だから学校の勉強はほどほどに(とすら言えない気がする……)、部活とか趣味のほうに力を入れていたんですが、当時の僕が「まじめ」な人に対してどう思っていたかというと、特に気にしていませんでしたね。もちろん、彼らが「まじめさ」によって一定(以上)の達成をしているのは大したものだなと思いましたが、じゃあ自分がそうしようと思うかというとしませんでした。「まじめ」な人は能力を平均化しようとする傾向があると思いますが、僕はそうじゃないんですよね、ステータスをどこかに全振りするタイプ(笑)。あえて言いますが、社会にはどちらのタイプもいていいんじゃないでしょうか。

鵜川 性質としての「まじめさ」だけで達成できるのは、既定の課題や問題を、最適化された方法で解消することだけです。「ふまじめ」な人は、そういう最適化に対して親和性が低い。だから、細井さんのように「勝手に洋楽の歌詞を訳したり」しはじめる。とはいえ、それは間違いなく、本来的な意味での「まじめさ」、目的ではなく手段としての「まじめさ」です。そういう「ふまじめさに含まれるまじめさ」という在り方が、重要だと思うんです。
 この仕事をやっていてつくづく思うのは、「ふまじめ」な生徒は(教員が関わり方を間違えなければ)ヴィジョンと行動が一致した時に「まじめさ」を発揮するようになるということ。逆に、「まじめ」な生徒から、その「まじめさ」を超えたヴィジョンや行動を引き出すのは困難です。しかも、「まじめ」な人が独力で変わることは、更に難しい。「ふまじめ」な人は、「まじめ」な人に(それなりに)価値を見出せるんですよね。自分とは違うけど、それはそれで尊敬できる生き方だな、と(さっき細井さんもおっしゃってましたが)。ところが、「まじめ」な人は、自分と同じ方向で「まじめ」な人しか評価できない。「ふまじめ」は悪なので、仮に「ふまじめ」な人が評価されていたとしても、「自分はまじめなのに、どうしてふまじめなあいつの方が評価されるんだ」と考える。そこで、自分の考え方なり価値観なりに疑問を抱くことはありません。
 大人社会だと、これは根深い問題です。「まじめ」に過去のやり方を守っている人は、それが間違った結果しか生み出さないとしても、変えようとしません。「まじめ」だから。それに対して、過去のやり方を守らない「ふまじめ」な提案が行われたとしても、受け入れません(しかも、こういった提案は多くの場合、「ふまじめ」な人によって行われるので、なおさらです)。

細井 これは僕が今年受け持っている生徒によく言っていることなんですが、「クラスに40人いたら40通りの考え方の人がいる。自分とは相容れない考えがあったり、絶対に許せないという人間もひょっとしたらいるかもしれない。だけどそれが社会というものなんです。だから、いかにしてイヤな人や理解できない人と共存できるかを考えないといけない」。低学年なのですごく教育的に聞こえると思うんですが(笑)、言いたいのは組織や社会において多様性を担保することが大切だということです。
 やっぱり低学年だと、「まじめ」な生徒がクラスの中心になることが多いですよね。で、そういう生徒たちはともすると「○○警察」みたいになってしまう。「まじめ」だから。これも学校だからまだマシ(?)な話で、社会だったらそういう人たちを排斥するような流れにもなりかねない。
 社会をどう構想し、どう変革していくのかという意味で、「まじめ/ふまじめ」の話はすごく示唆がありますね(笑)。

“普通”でいるつもり、他人と同じでいるつもりの恐ろしさ

鵜川 単純な作業量を目標とする組織なら、同質性は重視すべき価値観です。逆に、発想力や独創性が必要な組織や、複数の作業を組み合わせた複雑なプロセスを実行する組織では、多様性は絶対条件になります。自分と同じことができる人が他にいるなら、極端な話、自分はいなくてもいい、ってことですからね。だからこそ、「まじめ」な人たちは、多様性を憎悪するのかもしれませんが。
 少し前、仲正昌樹さんの『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』を読んだんですけど、そこで論じられていたアイヒマンの話が、まんま今の話と同じだなあ、と(不勉強なことにアーレントの『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』は未読なもので……)。

細井 アイヒマンはナチス・ドイツの幹部で、ホロコーストを実行した責任者の一人ですね。第2次世界大戦後に一度逮捕されたんですが、そこから脱走。結局、1960年に逃亡先のアルゼンチンで再び逮捕され、イスラエルで裁判を受けて死刑になりました。

鵜川 そうですね。ナチスの幹部では、宣伝相のゲッベルスと並んで知名度の高い人物です。一部、孫引きになりますが、仲正さんの本を引用しますね。

 彼(=アイヒマン)のすることはすべて、彼自身の見方によれば、法を守る市民として行っていることだった。彼自身警察でも法廷でもくりかえし言っているように、彼は自分の義務を行った。命令に従っただけではなく、法にも従っていたのだ。アイヒマンはこれは重要な相違であるといろいろほのめかしたが、弁護側も判事もそうした言い分は取り上げなかった。(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』)

 仲正さんは、「命令に従った」ことではなく、「法にも従った」と語られていることに注目します。

 これまで見てきたように、当時のドイツでは、ユダヤ人をめぐる陰謀論的世界観が多くの人にとっての常識でした。ドレフュス事件の時のフランスもそうです。人類の歴史には、後から考えると、とんでもない理不尽が常識に適った正しい判断や行為としてまかり通っていた、という例がいくつもあります。アイヒマンが従った“法”は最初から間違っていて、私たちが現に従っている「法」は絶対正しい、と何をもって言えるのか? 哲学的に掘り下げて考えると、私たち自身が拠って立つ、道徳的立場に関しても不安になってきます。普遍的道徳に従っているつもりで、とんでもないものに従っているのではないか。(仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』)

 今、僕たち自身が、社会や組織の論理に、無批判に(=まじめに)従うことが、アイヒマンと同じでないとどうして言えるのか。そう思ったとたんに、急に日常のあちらこちらに全体主義の萌芽が見えてきてしまって、すごく怖く感じています。

細井 「同調圧力」という言葉が世の中でよく言われるようになったのはいつからなのかな、と思ってちょっと調べてみたら、2014年を境に論文数が激増しているんですね。この頃、みんな同じような格好をしている若い世代の人たちを指す「量産型女子」「量産型大学生」という言葉が聞かれるようになってきた、という指摘もありました。ちょうど日本でのInstagramのユーザー数が激増したのがこの年です。それと結びつけて考えるかは議論が必要だと思いますが、少なくとも2010年代半ばあたりから、社会における「同調圧力」を強く感じる人が増えてきたことは事実なのではないでしょうか。それがコロナ禍によってより鮮明になった。
 自分は基本的には世の中の流れに従っている、というのが多くの人の認識だと思うんですが、さっき出た歴史番組の例の逆、ナチス・ドイツや黒人奴隷制度や魔女狩りなど、「人々は当たり前だと思って世論に従っていたら、後世の歴史から見てとんでもないことをやっていた」みたいな事例に今の日本もなっているとすれば、本当に恐ろしいですね。

鵜川 ほんと、恐ろしいです。ただ、幸いなことに、この流れに違和感を覚えている人たちは増えている、とも思うんですよね。
 「同調圧力」の前に、似た言葉で「KY」がありました。2007年に新語・流行語大賞にもエントリーされ、その時代の日本人を象徴する言葉かなとも思います。これは、「空気を読めよ」「空気が読めない奴」の頭文字を取った言葉で、ここから分かるのは二点。当時、「場の空気」を読まない人が増えてきたということ。そして、「場の空気」を読まないことは悪だということです。
 「同調圧力」は、価値観としては真逆ですよね。つまり、「場の空気」自体が暴力的なものと理解されるようになった。この転換は、すごく大きいと思います。2017年に森友問題で登場し、同年の新語・流行語大賞で大賞を取った「忖度」(同時に選出されたのが「インスタ映え」でした)も、旧世代にとっては当然従うべき「空気」が、社会的には容認できないものに変わりつつあることを示していたのかな、と思うんです。
 人々の価値観は、確実にアップデートされてきている。ところが、社会や組織の中心にいる人たちは、古い世界観の中で「あがり」まで居座りたい。そこから振り返った時に、新しい世界観の担い手を育てる学校という場所はどうなってるんだ、と思ってしまうのです。

細井 鵜川さんの分析、なかなかに正鵠を射ているのではないでしょうか。この10~15年くらいで、「同質性への指向」から「同質性への違和感」への転換が起こっているということですね。そこにはSNSの普及など大きな要因があると思いますが、そんな状況の中、いわば「本丸」である組織の中心にいる人たちが「あがり」になるのを待たずに世の中の価値観を変えたいですね。

多様性と同質性は対立しない~「ゆるくて寛容な空間」へ

細井 この対談の最初からずっと「旧来の価値観は変わらない」と二人で言ってきたんですが、僕は潜在的には変えたい、変わってほしいと思っている層って年代を問わずかなりいると思うんです。『スター・ウォーズ』シリーズのお約束のパターンじゃないですが、誰かが突破をかけようとすれば、どこからか大量のレジンタンスが現れて味方する、という状況になるのではないか、と(笑)。だから、自分たち教育に携わっている者としては「新たなる希望」を育てたいですよね。

鵜川 そうですね。戦っても戦っても「帝国」に「逆襲」されてばかりでは、やってられなくなります。「夜明け」はまだか、と(笑)。そのために、最後に指摘しておきたいことがあります。
 ここまで「同質性」から「多様性」への転換、新しい価値観へのアップデートとそれを反映したシステム構築の重要性について語ってきました。その中で、「同質性」と「多様性」については、トレードオフの関係で捉えている人が多いと思うんですよ。つまり、「多様性」を追求するには「同質性」を打倒しなくてはならない、と。でも、これは違うと思います。個人的には、「多様性」追求の過程はフラクタル(全体と部分が相似になっているような関係)的なプロセスをたどると考えています。
 「多様性」を追求する時、個人レベルでは、社会や組織が前提とする方法や思考とは「異なる選択」をすることになります。そして、社会や組織が「異なる選択」を許容していくと「多様性」が実現されます。ただ、再び個人レベルに戻すと、その人の周囲では「新しい選択」に賛同する人たちが結びつき、「同質的」な集団が生まれます。しかし、彼らが「多様性」を許容するのであれば、その「同質的」な集団の中にも「異質な発想」が生まれます。すると、その「新しい発想」に同調する人たちがチームを作ります。そして、チームの中でアイディアを出し合う時には、「多様」な意見が提示されることになります。

細井 なるほど。組織の中の異質な人が集まって同質的な集団ができ、その集団からまた異質な存在が現れ……ということが繰り返されるということですね。

鵜川 そうです。そこで気を付けなくてはならないのは、この自己相似の連鎖を止めないようにすることです。組織における「異端」が集まったはずのチームが、「同質性」に居心地の良さを感じてしまえば、「多様性」の実現からはむしろ遠ざかることになります。例えば、Twitterは、場としては「多様」であるはずなのに、「多様性」からはむしろ遠くなってしまっている。フォローという仕組みが「同質」的な小集団を生み出し、異質な他者や異質な意見を排斥する方向へ向かっている。結果的に、「多様性」を支える対話的な関係を築くことが、すごく難しくなってしまっています(構造としては「全体主義」を支えるものと、すごく似通っています)。
 だから、教育として「多様性」を実現しようとすれば、個人の選択肢を多様化するだけでなく、彼らに社会や集団を俯瞰する視点を身につけてもらうことが絶対に必要になると思うんですよ。

細井 全体に対する視点というのはとても大切だと思います。特にSNSによって「島宇宙化」「クラスタ化」(死語ですか?・笑)が進んでいる現在では。社会を生態系という概念に例えると、全体は部分から成り立っているんですが、部分のどれかが極端な変化をすると全体のバランスが当然変動します。変化した部分と直接的にはつながりのない部分が影響を受けることもある。その意味で、個々のグループと全体の関係性に対する意識を育てることは欠かせません(それは「自分が社会の中で何をするのか?」という意識ともつながります)。
 そして「対話」することの重要性ですね。「対話」というと、わりとスタティックで理知的なものを想像すると思うんですが、必ずしもそれだけが「対話」というわけではありません。家族や友人とのコミュニケーションを考えてみても、言い争いだったりくだらないジョークで盛り上がったりといったことは多いと思います。要はそれが可能になる隙間、これが風通しの良さを可能にするんだと思うんですね。「風通しの良さ」は当然前に出た「ゆるさ」ともつながります。
 建築家の青木淳さんが『原っぱと遊園地2』の中で書いていたんですが、「一見、梃子でも動かないようなこの現実世界が、実は、そう見えるほどに盤石ではないんだ、と感じられる」建築、「目の前にある現実世界そのもののなかに、あるいはその裏側に、別の世界がある、という感覚」が持てるような建築が青木さんにとっては理想だと言うんですね。

 現実が堅固なものでない、という感覚が持てることによって自由になれるというか、ある種救われた気持ちになる。そのためには、どこかに「ゆるさ」や「隙間」がなければいけないのではないかと思います。
 その意味で、対話というのは「別の世界=もうひとつの現実」への視点が開かれるきっかけになりうるのではないでしょうか。

鵜川 「島宇宙化」と言ってしまうと、分断状況が強調されすぎる気がするんですよね。SNSの良さもまた、ある種の「ゆるさ」にあると思うんですよ。「現実が堅固なものではない」のと同様、「個人」や「アイデンティティ」も全然「堅固」じゃない。職場ではアニメの話なんかまったくしない人が、Twitter上ではオタクとして振る舞っていて、ブログでは批評理論を使ってアニメのレビューを書いている、なんてことが普通に起こっている。そういう意味では、アイデンティティの多様化は既に進んでいます。そこを活かせば、SNSが「島宇宙化」していたとしても、多様な価値観や志向性を持つ個人が「島宇宙」同士に橋を架けることができると思うんですよね。
 避けなきゃいけないのは、「多様性」を求めて行動を起こした人たちが、結果的に閉鎖的になること。その鍵になるのも、やっぱり細井さんの言う「風通しの良さ」であり「ゆるさ」なのかな、と。継続的に「多様性」を維持するには、個人も組織も、他者に対して開かれている必要があります。開かれているからこそ、中にいる人たちも自由な言動が可能になる。これは、「ふまじめさ」にもつながるし、突き詰めて言うと「寛容さ」なのかな、と思います(内ゲバや粛清は、まず間違いなく「まじめ」な人たちによって引き起こされます)。
 僕たち教員としてできることは、教室なり学校なりを「ゆるくて寛容な空間」にすることだと思います。誰かの突拍子もない発言が許容され、誰かの失敗が受け入れられていれば、そこにいる人は異質な振る舞いを選択できるようになると思います。新しいアイディアが試され、失敗が次の失敗に繋がり、時々なにかすごいものが生まれる、みたいな環境って、楽しいじゃないですか。その楽しさを知ってしまえば、もう後戻りできないと思うんですよね。

細井 「ゆるくて寛容な空間」、その通りですね。ただ、それをカタチとしてデザインし、みんなが共有していくのは、この対談の最初から繰り返し言っているように決して簡単なことではないですが。とはいえ、幸運なことに僕たち教員は日々の学校生活の中で、「ゆるくて寛容な空間」を一時的・限定的であれ生み出すことができる。それを子供たちが皮膚感覚としてわかってくれれば、事態は新しい方向へ向かうと信じています。

鵜川 そうですね。教員としては最高の教室を作りつつ、同時に一人の大人として、一人でも味方を増やしていけるように活動していきましょう。いや、もしかしたら、僕たちの方が、二十代三十代の人たちに説得される側になっているのかもしれませんが(笑)。主導権をいろんな人に握ってもらいつつ、ゆるくてふまじめで、でも瞬間最大まじめさは誰にも負けない人たちを増やしていければ、と思いますし、自分自身もそうありたいと思います。

(ほそい まさゆき・国語科)
(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Stephen Leonardi on Unsplash

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