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新しい”道”を走り始めた今日     15年生きた自分を見つめなおす日。

僕が地球に産まれた日。

僕は2005年の8月24日に生まれた。
埼玉県に生まれ、今でも埼玉県に住んでいる。
たった15年だが、ずーっと住んでいる。

がくとあかちゃん

(生後数日の時の写真。)

普通分娩ではなく、帝王切開で生まれた僕。
母子ともに健康で、5歳上の姉の誕生日は8/23日生まれなので1日違い。

この頃の記憶などもちろんない。(笑)

うっすら記憶があるのは、その時住んでいた家の風景。
芝生も付いていて、公園も近くに会った。
近所に住んでいた友達ともたくさん遊んで、気づけばかなり日焼けをして
”運動できる風”になっていた。 (実際は超運動音痴です。笑)

幼稚園入園

そして、幼稚園に入園。
お姉ちゃんも、お母さんも通っていた幼稚園。
入園してすぐ、担任の先生に恋をした。(笑)
これがクラス替えがあるたびにあって、今振り返ると凄い性格だった。w

僕は毎日のように外で遊んで、仲いい友達もいて、常に仲がいい友達4人と動いていた。

時には遊具の使用で喧嘩になったこともあった。
女子を泣かせてしまったりもした。

そんな僕だが、高いところが怖くて滑り台の一番上まで行けなかった。
今振り返ると全然安全だったし、なんであそこまで怖がっていたのか…

そんな波乱万丈な幼稚園生活だったが、今振り返るとかなり楽しかった。
先生にも、環境にも恵まれた幼稚園生活。

次は小学校。緊張の小学校入学です。

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(小学校の入学式の僕)

僕の人生の中で小学校が一番大変だった。
多分、関わってくださった教職員の方や親も一番大変だっただろう。

少し”浮いてる”子ではあったが、特にそこまで大問題を頻発させていた
わけではなかったつもり。

いじめを受けた。

ですが、大きい出来事が小学3年生の頃に経験したいじめ。
キッカケは3つ上の上級生の先輩に注意したこと。

僕が移動教室で図書館に行く最中、その先輩が授業をサボりふらついてた。

そこで僕は「授業受けなきゃだめだよ!」といった。
本当に善意しかなかったつもりだし、相手をからかうつもりなんてなかった

が、今考えると”スルー”ができなかった。これが今でもある僕の苦手な部分

それを発端に目を付けられてしまった。
幸いにも相手は6年生なので1年後には卒業。

その1年間は親が常に学校に居るような状態。
今考えるとたくさん迷惑をかけてるなぁ。お父さんお母さんありがとう。

そして、4年生になってからは落ちついていたと思っている。
凄い気に入った先生もできたし、その先生に来年も担任の先生になって
欲しくて、色々な大人に頭を下げまくった。

この時から営業マンのようなことをしていた。(笑)

そして、その努力が実ったのか、同じ先生が担任に。
クラスメートは当時僕を含め”問題児”だと呼ばれていた3人が集結。

さて、どうしたものか。

僕は180°進路を変えて、前向きに進んでいた道を後戻りし始めた。

なんと嫌いな授業を受けなかった。
当時はただ駄々をこねていただけで、怒られていたし、
また親が毎日学校に来るような生活も始まってしまった。

父親は糖尿病を発病し、体調がかなり悪いなか学校に来てくれた。
今でも病気を患っているが、あの頃僕に余裕があったら少しは今は良く
なっていたかもしれない。

僕の非行っぷりは小学校を卒業するまで続いた。

が、小学校6年生の頃、僕の心で何かが生まれた。

僕が授業を受けなかった時、毎回教室に戻され、席に座らされ、隣に
補助の先生が着く。

僕は凄い疑問だった。なんで受けたくない授業を受けない選択を
しているのにもかかわらず、席に拘束されるんだろう、と。

ずーっとそのことを1年間考え続けた。
その結果、僕以外にも授業が大嫌いな人がいることに気づいた。
彼らは毎日席についていて、ある意味”反抗”できていなかった。

僕は当時席が座れなかったこともあり、SST(ソーシャルスキルトレーニング)
を行うため「LITALICOジュニア」に通っていた。

運営をしている株式会社LITALICOは年約1,200人障がい者雇用を行っている

僕は「LITALICOジュニア」に通っている時、公立学校で席に座れないことや
友達と喧嘩してしまうことを相談した。
1度も否定されることもなく、怒られることもなかった。

実際、「LITALICOジュニア」では授業を受けるのがつらくなったら
要件さえ伝えればいつでも教室から出てクールダウンしてもよかった。

違う世界に住んでいるような感覚だった。

公立学校へ持っていた僕の中の”疑問”が”確信”に変わった。

こんな学校おかしい。こんな学校面白くない。

いい意味でも、悪い意味でも勉強を始めた。

小学6年生による教育改革

まずは憲法。
その次に学校教育法。
また次には児童福祉法など…

先生の発言1つ1つに噛みつくような勢いだった。笑

今振り返るとかなりめんどくさいんだろうなぁ…
ごめんね、当時担任だった先生。

そして、変わらず問題を起こしまくっていた。
当時補導されてないだけで奇跡だ、と言えるほどだった。

ガラスを割ったり、机を壊したり。
校長先生と喧嘩したり、校外学習で先生と喧嘩したり。

僕はADHDの気質があるとの診断を受け、薬を服用し始めていた。

薬は増えていく一方だが、僕の薬への嫌悪感は増えていく一方。

「薬漬けになるのなんて御免だ」
「僕をどうしたいっていうんだ」
「なんでこんなつらい思いをしてまで生きなければいけないの?」

自殺をしようとした時もあった。家が修羅場になったこともあった。

そして、僕はその頃から「学校なんておかしい」と思っていた。
が、学級委員に立候補したところで先生に止められるに決まってる。

余談だが、そんなこともあり、動物が大好きだったこともあり、
僕は飼育委員会に入った。

休み時間はずーっと鳥を愛でた。
家から野菜を持っていくことも、お米を持っていくこともあった。
そのぐらい鳥が好きだったし、僕の唯一の仲間だった。

さて、学級委員には入れなく、僕は迷惑しかかけておらず、本当に
ひどいことをした。手を出した事もあった。

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(非行少年だった当時の僕)

学校に疑問を持っていたが、僕のやっていた事も相当おかしかった。
そんな僕でも寄り添ってくれた周りに本当に感謝。

先生のことは嫌いだったが、今思うと本当にいい人だった。
親のことも嫌いだが、良い人だと思っている。

卒業した時は当時仲が良かった友達と遊びに行ったりもした。
めちゃめっっちゃ楽しかった。

中学校へ入学しました。

さて、小学校の頃は1学年100名程だったのが中学校になって250名程に。
クラスは3クラス⇒7クラスへ。

先生も当然増えるし、小学校とは違う教科担任制。

小学校卒業後、中学校に入学する前に親が面談をしに行った。
これは本当に異例の事態。

1年生の時、担任の先生は本当にいい人ですごい寄り添ってくれた。

今思うと迷惑しかかけていないが、自分にとって本当に合ってる先生だ。
(毎回迷惑ばっかなのは内緒)

授業では先生がiPadを使用するし、理科の先生だがたくさん実験もあるし
プリントも毎回自作でユーモア溢れていた。

本当に僕に合わない先生もいて、その先生と蹴った蹴られたという
しょうもない喧嘩をしたこともあった。相手も頭が悪かった。

学校が合わない、なら変えてしまおう、ということで
フリースクールもずーっと探していたが、自分の中でピンと来るものが
なかった。

モヤモヤしながら通い続ける日々。

そんな日常に転機が来たのが学校で開催された合唱コンクール。

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実は中学校に入って、経験0だったが吹奏楽部に入った。
小学生の頃金管バンドに入ろうと思ったが先端恐怖症で指揮棒が見れずに
断念したこともあり、中学校に入ったら吹奏楽部に入ることを決めていた。

そして、合唱コンクールでは指揮者を担当。
吹奏楽の経験も0なので、当然指揮の経験なんて0だった。

だがしかし、なぜか自分の中で自信があった。
実際、指揮を振ってみると自分の中でモヤモヤしていた何かが解き放れた
気がした。

そして、練習を重ねた。

やる気のない男子 vs 面倒見のいい女子

よくある対戦もたくさんあった。

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(先生が作ってくれたカンペ。当時”卍”と”神”にハマっていた。笑)

そして、クラスメートが頑張って練習してくれて僕のクラスは最優秀賞を
取ることができた。

このことが僕の中で初めて凄い大きい”成功体験”になった。
今まで輝けることも無かったし、自信もなかった。

人生の登り坂がやってきた。

僕の人生はここで登り坂に差し掛かる。

父親が請求してくれたN中等部の資料。
角川ドワンゴ学園?N中等部?ネットの高校?

よくわからなかったが、とりあえず行ってみた。
ワクワクする感じだけ理解できていた。

説明会と、個別相談を経て入学。
(N中の入学に関しては別のnoteに詳しく綴っています。)

4月に入学をしてから、⇑のnoteに書いてある通り
天国のような時間でした。

7歳の頃から使用していたPCも授業で取り入れていて、自分がやりたかった分野の勉強もあり、経験と成長しかない空間だった。

そして、2020/8月、憧れの人に出会うことができた。

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プロゲーミングチーム「DeToNator」のストリーマーの4人だ。

Logicool×DeToNatorのファンミーティングに行き、恵比寿にてご対面。
カッコいい!!いつも配信で見てる人だ!!うわぁぁぁぁぁ!!!

そして、DeToNatorの活動に魅かれて、DeToNatorのスポンサーである
PC Matic (セキュリティソフト) アンバサダーにもなってしまった。

「うおぉぉぉ!!やったぁ!行動すれば自分も変われるんだ!」

そう感じた瞬間だった。

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中学生起業家との出会い

2019年の10月に彼は入学してきた。
加藤路瑛くんだ。

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彼は「株式会社クリスタルロード」という会社を立ち上げていて、
入学3日目?ぐらいにあった入学生歓迎会にて無理やり話を振った時、
かなりうまいトークを展開していて圧巻だった。

このnoteに書いてある通り、彼に刺激を受けnoteやTwitterを始めたのだ。

そんな”広瀬楽人”を輝かせてくれた彼とは色々なことをやってきた。
N中等部でのイベントだったり、それ以外の活動も。

これに関しては後ほど書くのでお楽しみに!!(笑)

11月、新しい”世界”との出会い

僕は加藤路瑛君と出会ってたくさんのことを考えた。
彼は同い年で、なんなら僕のほうが生まれたのは早かった。
彼は2月で僕が8月。

なのに、自分が実現したいものを叶えるためにアグレッシブに活動していた
僕にとっては刺激しかなかった。

「自分もなにかできないのかなぁ…」とモヤモヤしながら
11月、日本財団さん主催の”SIF”に行ってきた。

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3日間あったが、2日のみ参加した。

2日間合計で5,000文字もメモを取っていた。
なんと、その5,000文字全て携帯電話で取っていたのだ。(笑)

でもそのぐらい興味深い内容で、今まで自分の視野になかった
”世界の今”が見えてきた。

自分の周りしか見れていなかったのが。
自分の通っている学校しか見れていなかったのが。

世界では教育をまともに受けられない人もいる。

自分の環境の有難みにも気づけたし、自分が解決したいものが明確になった

行動するしかない、よし始めよう。

11月に気付けた”世界”の今。
それを解決するには、加藤路瑛君の様に自分で進むしかないことに気付いた

”自分”で作った”自分の道”を歩んでいく。
僕の道は”教育を変える”道。

1/1日にTwitterを開設して、noteも開設した。
1年間で自分のことを知って、自分を成長させて、もっと経験を積みたい。

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フォローもフォロワーも0人。
経験も0。収入も0。

noteの記事も0。

ぜーんぶ0の状態から始まった。

そんな中で、中高生向けオンラインスクール「NowDo」の運営に携わらせて
頂いたり、バンダイさんで仕事を受けたり、セキュリティソフトの
アンバサダーにもなったりした。

そして、今日。新しい道を歩き出しました。

株式会社クリスタルロードの取締役に就任しました。

憧れだった去年の10月。
今年の12月、約1年2か月越しに一緒に仕事ができました。

現在、クリスタルロードでは
①こども起業支援、やりたいこと支援事業
②感覚過敏研究所
の2つの事業を中心にやっています。

彼に刺激を受け、始めたTwitter。

そんなTwitterとnoteのおかげで今は多くの人と繋がりを持ててる。

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(加藤君と仕事をしに行ったときの写真)

これからも「今」をあきらめない社会を創っていきます。

(加藤君が書いてくれたnoteです!ぜひご覧を!)

そんな僕のこれから

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(去年のN中等部の校外学習での写真。)

今年の1月。経験も人脈も0だった。なんならマイナスからのスタートだった

自分を変えたい。教育を変えたい。

その1心で走り続けた。
時には挫けそうな時もあったし、「Twitterやめようかな…」って思った時も
ありました。

でも、そんな時周りを見渡してみた。
僕の将来のために高い学費を支払ってくれているお母さん・お父さん。
僕が今までたくさん迷惑をかけたけど、たくさん考えてくれている先生。
どれだけ駄々をいっても真摯に向き合ってくれるN中等部の先生。

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(角川ドワンゴ学園の先生)

N中に関しても、家族に関しても。
どれだけ迷惑をかけても愛を持って接してくれた。

そんな大切な人たちの期待を裏切りたくなかった。
自分の手で、自分が受けた教育を変えてやりたかった。

そして、NowDoの運営・クリスタルロードの取締役に就任した僕。

これからも、この先も。
”満足”しないで走り続けます。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

それでは!

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