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名画ってなんだ?完結編 [思いのほか長文です]

前回の「名画ってなんだ?」の続きです。

どうやら私たちが「名画」と聞いて思い浮かべる絵には、一定の傾向があるみたいだぞ。以下の項目を満たしていることが、名画の条件では?と推測しました。

  • ヨーロッパ美術

  • イタリア・ルネサンスから近代の印象派あたりまで

  • 著名な作家であること

  • 写実的な描写技術が高いこと(これは必須ではなさそう)

日本の国宝に指定されている《信貴山縁起絵巻》や雪舟の《秋冬山水図》は、貴重な絵だというのはわかるけど「名画」という言葉は少しそぐわない気がするし、ましてやアフリカや南米、東南アジアの絵画作品で「名画を挙げろ」と言われてもひとつも思い浮かばない。そんなところではないでしょうか。

なぜ、狩野探幽(1602年生まれ)よりフェルメール(1632年生まれ)の方が、なぜ富岡鉄斎(1837年生まれ)よりクロード・モネ(1840年生まれ)の方が、日本に暮らす私たちにとって身近なのでしょうか?(まぁ、このnoteを読んでいるような人はどの作家も既知でしょうが)

この西洋美術に偏った価値観の成り立ちを考えるためには、「美術」という概念が日本に持ち込まれたところまでさかのぼる必要があります。いつもより長くなってしまったので、お時間のある人だけお付き合いください。


明治26年、パリから1人の画家が帰国した。

明治元年(1868)、徳川幕府の時代が終わりを告げ、日本は明治新政府による近代国家への道を歩み始めました。それまで鎖国により限定的な海外情報しか入ってこなかった日本に、西洋の技術や思想がドバドバッと一気に流れ込んでくることになります。

明治元年〜10年代あたりまでのカオスな日本の美術事情も面白いのですが(高橋由一、キヨッソーネ、フェノロサ、工部美術学校などなど)、今回注目するのはその混乱が落ち着いてきた明治20年代以降です。

明治26年(1893)、フランスから1人の画家が帰国しました。

それが黒田清輝です。

それまでも、フランスやイタリアで絵を学び、日本にその技術を持ち帰った画家がいなかったわけではありません(百武兼行、松岡寿などなど)。しかし、洋画の技術だけでなく西洋美術の概念そのものを日本に定着させるために大きな役割を果たしたという意味で、黒田清輝以上の人物はいないと断言できます。その理由をこれから説明します。

ちなみに、「fine art」の翻訳語である「美術」という言葉自体は、明治5年(1872)には作られていたことがわかっていますが(翌年のウィーン万国博覧会に向けた官令の中で)、言葉ができたからといって美術が何を指すのか日本ですぐに理解されたわけではありません。

明治17年(1884)、黒田は18歳で法律研究のためにフランスに渡りましたが、滞仏中に絵画の道に目覚め、ラファエル・コランという画家のもとで絵の修行を始めました。子爵の出で法律家として将来を嘱望されていた中で画家になるというのですから、なかなか思い切った転向ですよね。

この時代にフランスに留学するような日本人は、黒田を含め超エリートであり、それだけでなく日本を欧米諸国と肩を並べる国にしなければ、という使命感にあふれた人物ばかりでした。黒田は留学中、後の文部大臣・内閣総理大臣となる西園寺公望をはじめとした日本人留学生たちとも親交を深めます。この人脈が、後々大きな力を発揮します。

19世紀末のパリの美術事情

さて、黒田が留学した当時(19世紀末)のフランス・パリは、伝統的、古典的な手法を重んじるアカデミスム絵画が徐々に陰りを見せ、印象派の画家たちが勢いを増しつつある、そんな過渡期にあたりました。

黒田の師コランは旧陣営のアカデミスム寄りの画家でしたが、ガチガチのアカデミスムというほどではなく、印象派風の明るい色彩を取り入れた温和な画風が特徴でした。どっちつかずの画家ということで、それほど有名ではありません。

ちなみにアカデミスム絵画の特徴を簡単に言うと、

  • イタリア・ルネサンス時代の古典主義絵画が理想

  • まとまりのある構図、的確なデッサンに基づく人体表現を重視

  • 絵画ジャンルとしては歴史画を最も格式が高いと考える

なんだか、最初に挙げた「名画」の条件と少しかぶっている気がしませんか?核心に近づいているようなので、続けますね。

黒田は、フランス国家主催の権威ある展覧会「サロン」に出品し、1891年には見事入選を果たしています。このことからも分かるように、アカデミズム的価値観をしっかりと受け継いでいた黒田ですが、その一方で、当時パリで暮らしていれば、ガチガチに保守的だったサロンに反旗を翻して、独自にグループ展を開き、全く新しい表現方法で注目を集めていたモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌら印象派の画家の活躍が嫌でも眼に入ったことは間違いありません。
また黒田は、コロー、ミレー、ルソーといったバルビゾン派についても高く評価していたことが分かっています。彼が決してアカデミスム一辺倒ではなかったことを覚えておいてください。

黒田清輝を中心に作り上げられた日本版アカデミスム

こうしてパリで9年間におよぶ留学期間を終えて、日本に帰国した黒田は精力的に西洋絵画の普及につとめることになります。

黒田の絵の特徴である師コランゆずりの明るい色調は、それまでの日本の洋画界になかったもので、「外光派」「新派」「紫派」(旧来の洋画は「脂派(やには)」と呼ばれました)などと呼ばれ、衝撃をもって受け止められました。

明治29年(1896)、東京美術学校(いまの東京藝術大学)に西洋画科と図案科が新たに設置されるのですが、黒田は西洋画科の責任者として迎えられました(講師として就任し、2年後には教授となります)。
東京美術学校は日本で初めての国立の教育機関として明治22年(1889)に開校していますが、当初は日本画、彫刻、美術工芸の三科しかありませんでした。西洋画科の設置の背景には、黒田とフランスで親交のあった文部大臣西園寺公望の働きかけがあったとされています。というわけで、そのポストに黒田が就くのは当然の成り行きだったのです。

黒田が考えた大学4年間の教育プログラムは、

  • 1年目に石膏デッサン

  • 2年目に人体デッサン

  • 3年目は油絵習作と歴史画中心の課題制作

  • 4年目に卒業制作

というものでした。アカデミスムの教育手法をそっくりそのまま日本に持ち込んだことがよく分かります。

また、東京美術学校就任と同じ年に、黒田は仲間たちと白馬会という洋画団体を結成します。白馬会の展覧会では、黒田自ら作品を積極的に発表し、若い画家たちへの啓蒙を続けました。そして岡田三郎助、和田英作、山下新太郎など多くの門下生に、ラファエル・コランへの招待状をもたせて次々とパリに送り出しました。

明治40年(1907)には、日本初の官立の展覧会となる文部省美術展覧会(文展)が開催されました。この文展とは、フランスの官展であるサロン(黒田が留学中に入選した展覧会でしたね)を意識したものです。そもそも黒田が文部省に働きかけたことが開設のきっかけでした。
黒田は、文展の審査員に就任し、大正8年(1919)に文部大臣の管理下に帝国美術院が創設されると、その会員に任命されました。この帝国美術院もまたフランスの王立美術アカデミー(アカデミー・デ・ボザール)を手本としたものです。黒田はその後、美術院の院長となります。

フランスでサロンがアカデミスムの牙城となったように、文展は日本における洋画のアカデミスムを形成する場となりました。文展で入選、買い上げられることが、画家としての評価に直結する構造ができあがったのです。
文展が形を変えながらも、今も日展として日本画壇の権威として存続していることからもわかるように、この黒田清輝が中心となって構築した美術制度は、日本の美術意識の土台となって今も連綿と続いています。

長くなったのでまとめてみましょう。
フランスのアカデミスム的価値観と印象派の明るい色彩を日本に持ち込み、東京美術学校と白馬会で数多くの後進を育てたこと。フランスのサロンにならった文展、アカデミーにならった帝国美術院の設置、ここまで理解してもらうと、黒田が単に洋画の技術を伝えたのではなく、ヨーロッパのアカデミスム的価値観を日本に輸入し、日本における洋画アカデミズムの基礎を作ったということが納得できるのではないでしょうか。

私たちが無意識に思い浮かべる「名画」が、ヨーロッパのルネサンスから印象派(もっと言えば「ルネサンスと印象派」)の作品ばかりなのは、こうして明治時代後半から大正時代にかけて、黒田を中心にガチガチに作り上げられた日本の美術システムが、今も根強く機能している証なのです。

前回の記事で、アンリ・ルソーやエゴン・シーレの絵を例に挙げて、名画と言われるとちょっと違和感を感じるのでは、と指摘しましたが、その理由もこれでおわかりいただけたのではないでしょうか。

「名画ってなんだ?」のまとめ

「名画ってなんだ?」という単純な疑問から、日本の美術制度の成り立ちまでさかのぼり、そこに大きな影響を与えた黒田清輝についてつらつらと語りました。話を単純にするため(と言ってもだいぶ長くなってしまいましたが…)、黒田清輝という一人の人物にフォーカスし過ぎたきらいはあります。当然、日本に西洋美術を根付かせる働きをしたキーパーソンは、他にもたくさんいます(林忠正、松方幸次郎、大原孫三郎、武者小路実篤などなど)。また、黒田清輝という固有名詞を知らない人も多いでしょう(知らない人の方が多いのかな?)。

それでも、やはり日本の美術教育の土台を圧倒的な政治力で作り上げた黒田の存在は無視できないのです。たとえ黒田を知らなくても、彼がフランスから持ち帰り日本に根付かせた西洋美術の価値観は、いまの日本人の美意識に確実に染み込んでいるのです。その善し悪しは別として(私はもともとは日本近世絵画が専門だったので、色々思うところはありますが)、今回あらためてまとめてみて、一人の人間がこれほど後世に影響を与えることができるんだな、という素朴な驚きというか発見がありました。

では、あらためて問いましょう。あなたが考える「名画」とは何ですか?

[黒田清輝をもっと知りたい人へ]

行ってみましょう、上野の黒田記念館。

こんな記事↓も書きました。


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