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李禹煥 Lee Ufan 展レポート[結論:直島に行きたくなる]

国立新美術館(六本木)で開催中の「李禹煥」展、ようやく行ってきました。

さきに正直に告白します。
現代アートは専門外だから近寄らないでいいよね、という学芸員にあるまじき態度で生きてきた私。李禹煥を知ったのはなんと今年に入ってから!

でもですよ。
だからこそ、わりに純粋な好奇心でこの展覧会を観に行けたし、新鮮な感動を味わえたように思います(物は言い様ですね)。というわけでこの展覧会レポにも、玄人的感想は期待せず気楽にお読みください。

李禹煥(リ・ウファン)てこんな人

私より皆さんの方が、詳しいかもしれませんが、一応作家についてご紹介。
詳しいプロフィールは下記の通りですが、ようするに70年代の一大ムーブメント「もの派」の当事者にして現役バリバリの世界的アーティストです。

李禹煥(リ・ウファン)
1936年、韓国慶尚南道に生まれる。ソウル大学校美術大学入学後の1956年に来日し、その後、日本大学文学部で哲学を学ぶ。1960年代末から始まった戦後日本美術におけるもっとも重要な動向の一つ、「もの派」を牽引した作家として広く知られている。

展覧会ホームページより

ちなみに、もの派とは60年代末から70年代中頃にかけて、日本で起きた一つの美術運動のことです。木や石や鉄などの素材をほぼ未加工のまま提示する、というそれまでにない手法で、もの自体の存在やものを置いた空間そのものを作品とするような斬新さで衝撃を与えました。
関根伸夫(1942-2019)による《位相-大地》(大地に円柱型の穴を掘り、掘り出した土を固めて同じ形の円柱をその穴の横に作ったもの)が代表的な作品として知られています。

関根伸夫《位相-大地》1968年

李禹煥は、もの派の作家の1人でしたが、日本国内ではほとんど評価されない状況にあきらめを覚え、70年代以降は海外に拠点を移して活動を続け、国際的に評価されるようになりました。
近年の活躍を挙げると、2010年に直島(香川県)に安藤忠雄建築による李禹煥美術館を開館。
2014年にはヴェルサイユ宮殿を空間に使った展示を実施。
2017年にはル・コルビュジエが建築したラ・トゥーレット修道院(フランス)で展示。
ほかにもグッゲンハイム美術館(アメリカ)、ポンピドゥー・センター・メス(フランス)などで個展を開催しています。
(これらの展示の画像は公式ホームページでご覧ください)

そんな李禹煥の大規模な回顧展である本展は、李の過去から現在までの思考と模索の軌跡をぎゅっと凝縮した展覧会でした。大満足したと同時に、美術館展示の限界も見えてきたのでそこにも触れさせてください。

■14のエリアと無料音声ガイド


本展は、屋外展示場を含む全部で14のエリアに区切られて、前半は立体、後半は絵画という構成になっています。立体と絵画、それぞれ李がどのように表現を変化させていったのかがよく分かる流れになっています。
この構成は、李自らが考案したということです。

特筆すべきは、今回の展示、音声ガイドが無料で利用できるということ!
14のエリアそれぞれについて、ナビゲーター中谷美紀(一部、作家本人および担当キュレーター)によるガイドを聴きながら鑑賞することができます。スマホがあれば誰でも利用可能なサービスです。

私もふだんは音声ガイドをまったく利用しないのですが(鑑賞の仕方を固定される気がして嫌)、現代アートは門外漢だし李についても予備知識が全然ないので、今回はありがたく利用させていただきました。

おかげで、石と鉄板がぽんと置かれただけの展示を見ても、「???(ぽかん)」とすることなく、すんなりと練りに練られた展示の流れを楽しむことができました。

でもね、今回はじめて気がついたことがあります。
イヤホンで耳を塞いで鑑賞していると、なんというか身体に一層膜がかかった状態で作品と対峙しているようなモヤモヤ感があって、作品にいまひとつ集中できませんでした。
鑑賞体験は、視覚があれば事足りるわけではなく、五感をフリーにした上で全身を使ってやるものなんだな、という新鮮な発見がありました。

これは言い換えると、それぐらい神経を研ぎ澄まさないと何か大事なものがこぼれ落ちてしまうと思わせる繊細さが、李の作品にはあったのです。

■すべてのキーワードは「関係」

その繊細さの理由を考えた時、李の作品が何かを明示的に表現しているものではなく、全てがものともの、ものと人、ものと空間、そうした何かと何かの関係にフォーカスしていて、その相互関係で生まれるリズム、振動、反響、波紋を味わうものだからだと私は理解しました。

初期の作品はまだメッセージ性が強く、もの自体に意味を持たせようとする意識が見え隠れするのですが、徐々に人為的な部分がそぎ落とされていき、純粋に「関係」そのものにフォーカスしていきます。

では、いくつか特に印象的な作品について語らせてください。

■《関係項—鏡の道》

玉砂利が敷き詰められた部屋の地面中央に、長いステンレス板が置かれ、一本の道のようになっています。その道の半ばには、両脇に大きな石が置かれ、人が1人通れる程度のスペースが残されています(展示写真は↓で見て)。

ステンレス板に乗って歩いてよいということで、その上を歩き、石と石の間を横切ってステンレス板の端まで行ってみました。ステンレス板の上に乗るまでは、玉砂利を踏みしめるので一歩歩くごとに「ジャリ、ジャリ」という音がしますが、それがステンレス板に乗った瞬間から静寂に変わります。

鏡面仕上げのステンレス板は、天井の照明をうつし、歩くにつれてその反射具合は変化していきます。屋外でこの展示をやれば、当然ステンレスの道に映るのは空でしょう(このフロアの壁には「芸術では空を支えるか 落とすか それが問題だ」という一文だけが小さく記されています)。抜けるような青空のもとで体感できれば、最高だろうなと思いながら歩きます。

そして石と石の間をくぐる、ただそれだけのことなのに、そこに何か意味があるのではないかと身体が身構えるのを感じます。何かと何かで空間を区切ると、そこに自然と意味づけを考えてしまう、これはかなり原初的な人間心理ではないかと思います。

■《関係項—アーチ》

その「くぐる」という視点が共通しているのが、屋外展示された《関係項—アーチ》です(ここだけは写真撮影もOKでしたが、人もたくさんいたし、まぁいいやと思って撮ってないです。展示写真は↓とかで確認できます)。

一枚の巨大なステンレス板を湾曲させてアーチを作り、その両端には巨岩が重しのごとくそびえています。アーチの下には《関係項—鏡の道》と同様にステンレス板の一本道がわたっています。

李は、2014年にヴェルサイユ宮殿でこのアーチを生み出しました。

あれ(ヴェルサイユ宮殿)は出来上がった庭園なので普通はやりにくいところなんです。ものすごく手ごわい。(略)僕のやり方としてはその空間を壊すでもなく、そのままでもありません。きっと、そこにも隙間があるだろうから、たとえば、その場所にアーチをかけると空や周りがもっと広く見えるとか、もっと爽やかに見えるとかですね。さらに細い道があるとその両脇に石を置いて、そこを歩くとき、通っているんだという感覚が強く蘇ってくるとか、その場、そこにあるそのものを活かしながら、もっと別の空間を意識させる、目覚めさせるのが僕のやり方だったんです。

李禹煥インタビュー『Casa BRUTUS 日本の現代アート名鑑100』マガジンハウス、2022年

それを李禹煥美術館(直島)にある屋外彫刻《無限門》でも再現しています。

で、今回展示された《関係項—アーチ》もそのアレンジバージョンのようなものですが、ヴェルサイユ宮殿や直島と比べるとだいぶプチサイズ。まぁ美術館の中の屋外展示場という限られたスペースなので仕方ないのですが。

直島の《無限門》は想像するだけでゾクゾクしますね。アーチをくぐった先には、抜けるような空と海。今回の展示ではすぐに壁。没入感を味わうにはやや無理があるかな、という個人的感想です。でも撮影禁止の会場で唯一の撮影可作品だったので、映えスポットとして人気を集めていました。

さて、音声ガイドで中谷美紀も「鳥居を想像しました」的なコメントをしているのですが、たしかに誰もが無意識に連想するでしょう。日常と非日常の境界をあらわす門、結界。
鳥居というと神社の神域を示すものという気がしますが、神社以前にも鳥居に近いものは存在したといいますし(木と木を縄で結んだものが鳥居の起源とも)、日本のみならず世界各地で同種の門が認められるといいます。
くぐる形状の何かに結界としての意味を見いだすのも、文化の違いを超えた人間の根源的な本能なのだと思います。
当然そのあたりまで作者は踏まえて(知識として知っているか、鋭い感性で会得しているかは分かりませんが)こうした作品を制作しているはずです。
そうなってくると、李が繰り返し用いる大きな自然石も、日本人の巨岩信仰や道祖神信仰を想起させますね。まぁこれは思いつきレベルのつぶやきです。

■《点より》《線より》《対話》《応答》

最後に、絵画作品についても。

時系列で作品が並ぶ絵画作品を見ると、とてもロジカルに表現が変化しているのが分かります(画像は公式ホームページで)。

《点より》《線より》シリーズでは、岩絵の具を筆でキャンバスに描く(というよりはもっとプリミティブに「点を打つ」「線を引く」)行為を規則正しく反復することで、二次元の画面で時間・時の重なりを表現しています。

それが《風より》シリーズで、いったん規則性を捨ててランダムな筆跡が充満する画面になり、続く《風と共に》シリーズでフレームの意識が芽生えています。垂直方向と水平方向、この2種類の短いストロークによって、ほとんど無地のキャンバスに見えざるフレームが生まれ、内と外という関係を見る者に感じさせます。

ここまでは比較的つながりを感じる作風の変化でしたが、そこから《対話》シリーズに入ると、明らかにフェーズが変わります。1人の人間が思考と模索を積み重ねる中で、時に啓示を受けたかのように表現が飛躍して別次元に到達する。そんなある種の奇跡を目の当たりにすることができるから、アートは面白いですね。

《対話》そして《応答》シリーズは、巨大な無地のキャンバスにまるで大きな刷毛でただ一点(二点の場合もある)、点をうがったかのような、大きなストロークが描かれています(実際は細かな筆の集積)。それは筆のストロークとして見た場合、非常に短く、まさに筆を画面におろして線を引き始める瞬間のようです。

「描く」という行為の起こりの部分。そのワンストロークによって、画面に意味が生まれ、その周辺の空気は密度を変える。何を描くかではなく、描くことで変化する空間の性格みたいなものに着眼している点は、李の彫刻と同じなんだなととても納得しました。

■結論〜もっと李を知りたくなる!そんな良質な展覧会〜

音声ガイドを聴きながら一周。そしてイヤホンを外してもう一度じっくりと鑑賞。前半は彫刻、後半は絵画。それぞれ基本的に時系列で並ぶ、という明快な展示構成のおかげで、ほとんど予備知識がない状態でも存分に李の作品を味わうことができました。

で、思ったのですが、李のエッセンスを大づかみするにはとてもいい展示でしたが、本領を発揮しているかと言えばこんなもんじゃないんだろうな、ということも同時に理解できました。

石や鉄そのものではなく、それを置いた空間にきっかけを与えるのが李の本質でしょうから、当然どこでその展示を行うかによって、ポテンシャルが全く変わってくるのは容易に想像できました。そういった意味では、李禹煥の入門ガイドとしてはパーフェクトな展覧会だと思いますし、逆にいえばこれは入り口に過ぎないのではないかなと。おかげで直島の李禹煥美術館にものすごく行ってみたくなりました(どうしよう)。

あと展示方法や照明のやり方とか、勉強になりました。

現地に行かなければわからないことがある。オンライン全盛の時代にそれを実感させてくれる作品と出会うのは、とてもぜいたくな体験ですね。

「李禹煥」展、国立新美術館で11月7日までなので、興味がある人はぜひ!

これまでの展覧会レポートはこちら↓


バックナンバーはここで一覧できます(我ながら結構たくさん書いてるなぁ)。