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美術館もアートを成り立たせる装置のひとつ

みんな大好き、デュシャンの便器。

20世紀を代表するフランスの芸術家マルセル・デュシャンは、ただの便器にサイン(ちなみに偽名の「R.Mutt」)だけ書いて、《泉(Fountain)》と名付け、ニューヨーク・アンデパンダン展に出品しました。1917年のことです。日本で言うと大正6年です。

この展覧会は、デュシャン自身も審査員をつとめていましたが、他の審査員たちに反対され、《泉》は落選しました。あれ?「アンデパンダン」て無審査の展覧会のはずですけどね。「さすがにだめ!何でもいいって言っちゃったけど、これはだめ!」みたいな大騒ぎになったってことでしょう。

これは要するに「あなたたちが言うアートって何よ」というデュシャンからの問いかけですよね(私がそう思うとかじゃなくて、散々語られてること。

レディメイド(既製品)だろうが、サインがあって、タイトルがあって、美術館に飾られたら、それがアートなんだろって言ってるわけです(厳密に言うと、ニューヨーク・アンデパンダン展の会場は、グランド・セントラル・パレスという展示ホールでしたが)。

独創的な作品、優れた技術によって生み出された作品がアートなのではなく、しかるべき美術館やギャラリーに飾られたものがアートと認められる、そういうアートを成立させている制度を明るみに出したのが、デュシャンでした。

この構造は、いまも大して変わりません。

美術館の展示室に陳列された時点で、作家はある意味、公的なアーティストとしての地位を確立するわけです。美術館がアートというラベリングをする役目を果たしていると言い換えてもいいでしょう。

誤解されそうですが、これは美術館に権威があるとか、学芸員の確かな目でチョイスされた作品こそが本物のアートであるとか、そんなことを言いたいわけではなく、単に社会的構造の中で美術館に与えられた機能がそれだ、というだけです。

作家が、自分の作品が美術館に収蔵されることを求めるのも同じでしょう。パブリックコレクションになれば、より一層ゆるぎないアートと認められるからです。

学芸員として働く上で、このことは頭の片隅には置いておきたいな、と思ってます。
あ、特にオチはありません。備忘録ですから(便利だな)。


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