「初投稿」 noteを始めてみた理由

皆様、ごきげんよう。

noteを始めてみた。始めた理由としては、自身の思考を言語化して吐き出したいと思ったからである。

「なぜ思考を吐き出したいのか」と問われれば、私は「SNSを使用することによって莫大な情報のインプットを行っている一方で、内省をする時間が少なくなってしまい、自分の考えがと世間一般的な考えに境界線が不明瞭になり、結果自己を見失ってしまうことが怖いから」と答えたい。

「noteもSNSではないのか」という意見もあるかもしれない。確かに私もその意見には同意する。しかし、ここで私が「SNSの使用」として指すのは、「情報源」としての使用、つまりこちらが発信するのではなく、「受動的に情報を受け取ること」を指している。

誤解してほしくはないのだが、この記事はSNSを批判するものでもなければ、賞賛するものでもない。むしろ私が強調したいのは、SNSを目前においた「自己」の在り方である。

ツイッターやインスタといったSNSは手軽な情報源であり、適切に使えば人の生活を豊かにするものである。例えば、筋トレを始めたいと思った人は既に筋トレをやっている人の投稿を見たり、もしくはその人にコンタクトを取ることで筋トレの情報を得ることができる。雑誌やテレビの筋トレコーナーを待たずとも情報収集ができるのだ。また、災害時等においてはニュースといった既存のメディアよりも早く情報を得ることが出来、自身の生存確率を引き上げることだってできる。

このようにSNSというのは我々の生活に対して有益であると言える。しかし、どんなものにも短所はあるように、SNSを使うことによる弊害
もある。情報の正確さが担保されないことや誹謗中傷の温床など様々あるが、私が特に取り上げたいのはSNSの「依存性」とそれによる「自己の喪失」である。

SNSはパソコンでも使用することができるが、大多数のユーザーはスマホを用いているだろう。スマホはパソコンに比べるとCPUやメモリなどの性能の面では劣るが、持ち運びのしやすさやタッチするだけの直感的な操作ができるという点では勝っていると言える。そしてこれらの特徴によって人々はパソコンを使うときほどの心理的障壁に阻まれずにSNSを使用するのである。これがSNSに依存してしまう一つの大きな要因である。

もう一つの要因は何かを書いたり、表現したりして発信する能動的な行動よりも、人が作成したものを見たり、聞いたりする受動的な行動の方が、心理的なハードルとしては低いことがあげられる。例えばインスタなどで芸能人の投稿やボディビルダーの投稿などを見るとき、我々がすべきことと言えば、指で画面をスクロールしたり、スワイプしたりなどで、これらの動作を行うのにあまり思考は必要とせず、またコメントなどをしない限りは情報の受信者に留まるだろう。対照的に自分が動画や写真を投稿することを考えてみるとどうだろう、日記程度の投稿だとしても少なくとも写真写りは気にする人が多いだろうし、動画に至っては編集をすることだってあるかもしれない。これらのプロセスにおいては思考し、それを何らかの形でアウトプット、そして改善点があれば、また思考するといったことが、理想的な形になるまで何度も行われる。

上記の例から分かるように私は「思考」というものを重視していて、またそれこそが自己を形成するものだと思っている。そしてさらに言えば、「思考」と「アウトプット」はセットで行われることが多く、それによって我々は自己を発見し、また改善できると思っている。

しかし、「見るだけ」のSNSの使用はこれら「思考」と「アウトプット」の要素欠いていて、代わりに「インプット」で満たされているため、これが過剰になれば自己というものが崩壊しかねない。

なので、それを防ぐためにも意図的に自分の思考を生み出す時間を少しでもいいから設けて、さらにそれをアウトプットすることが重要であると私は考えた。長々と書いてしまったが、それが私がnoteを始めた理由である。皆様もインプットだけのSNSの使用からアウトプットを主軸としたSNSの使用にシフトしてみてはいかがだろうか。

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