二匹の鯛と盲腸コアラ

間違い探しが大好きな私たち日本人

エビスビールのラベルの恵比寿様が背負った魚籠(びく)には、おめでたい鯛が一尾入っています。この鯛を二尾背負った恵比寿様がごくたまにいて「ラッキーエビス」といい、これを引き当てると酒の宴がぐっと盛り上がります。
似たようなものでは、ロッテのチョコスナック「コアラのマーチ」の「盲腸コアラ」。膨大な種類のコアラの絵柄がある中、盲腸の手術の縫い傷を腹につけて泣いているコアラがおり、これに出会うと幸運を呼び込む、といった都市伝説。
どちらもよく知られた日本人らしい遊び心で、こういった洒落のきいたことを日本の大メーカーはさりげなくやっています。でも、なぜこれが日本人に刺さるのか。
恵比寿様の魚籠に鯛が二尾入っていたり、コアラに盲腸のやつがいたりするのは、全部同じだと思っていたのに実は違った、という、微妙な差異を発見する喜びです。日本人はこれをアイデンティティとか個性といって、とても崇めます。アイデンティティが見つからない中学生二年生は、キャラが薄い自分に悩んだり苦しんだり、異端児に憧れたりしますが、実はこれは、スタート地点が「みんな同じ」だからこそ生まれる価値観だとも言えます。

コンセンサスという奇跡

一方、アメリカの小学校の教室には(場所によりますが)白人も黒人もヒスパニックも色々いて、親のルーツもアイリッシュだったりユダヤだったり台湾だったりする状態が当たり前にあります。スタート地点が「みんな違う」ということになります。
「みんな違う」ことが前提だと何が価値かというと、その逆、つまり一致することです。肌の色も食べ物も衣装も違うのに、なぜ同じことを思ったんだ
ろう?なぜ同じ考えに至ったんだろう?
ニューヨークで暮らしていた時の話です。ボスのCEOはユダヤ系アメリカ人、CTOはインド系アメリカ人、営業はアイリッシュ系アメリカ人、事務はポーランド系アメリカ人でした。ベジタリアンがいて、タコ・イカNGなユダヤ人もいて、宗教もポリシーも色々なので、普段はそれぞれが食べるものをオフィスに持ち込み、仕事をしながら発泡スチロールのランチを突く、といったスタイルでした。「たまにはみんなでランチ行こう」となると、いつも行くお店は限られていました。ランチコンセンサスとも呼ぶべき奇跡のレストランは、ベジタリアンメニューあり、コーシャー(ユダヤ戒律対応)あり、誰もを唸らせる味と歴史あり、ランチコンセンサスを作るすべてを備えた絶妙なブリコラージュでした。僕はここで、この国の多くの商品がグローバルで売れてしまう理由はこれだ!と確信しました。

アメリカ全土で売れればグローバルで売れる

コカ・コーラもマクドナルドもスターバックスもアップルもグーグルも、この国のものはどういうわけか世界中で売れています。MBA的な論は色々あるでしょうが、僕が勝手に腹落ちしている、アメリカがグローバルで売れるワケはこういう感じです。
会議室に商品開発の面々が揃う。インド系、ユダヤ系、中華系、アイリッシュ系、スパニッシュ系、アフリカ系。食べ物も違う、宗教も違うメンバーが口を揃えて「これは売れる!」って心底思ったら、もうその商品は世界で売れることが約束されているでしょう。こんなに出自の違う人間が同じことを思うなんてよっぽどだ、そういう感覚が、メンバーそれぞれに強烈な確信を作るし、そうなれば会議室を出たそれぞれのメンバーは、自信をもって社内外を説得してまわるでしょう。
背景の全く違うチームメンバーの間に生まれた、微かなコンセンサスの奇跡を見逃さず、その奇跡を大切に形にする、というのが、彼らのような多国籍移民国家のやり口なんだ、そう思ったのです。

磨いて磨いて、最後に残るもの

一方で日本はどうか。
アメリカ人が見た明治維新のフィクション映画「ラストサムライ」の台詞に「パーフェクト」という言葉が何度も出てきます。日本の武士道や芸術、思想の淀みのなさに、パーフェクショニズムを垣間見るのでしょう。例外がない、矛盾がない、汚れがない、全きを貫いた状態は、混沌とした多国籍移民文化のアメリカ人からは想像できない、神秘的で奇跡的な世界なのかもしれません。そして、嘗て栄華を極めた頃の日本製品の多くは、この「パーフェクト」で売れていました。
技を磨いて削って、徹底的に違和感を削り取ると、それは時に「パーフェクト」な製品になるかもしれない。確かに大吟醸酒も生粉打ち蕎麦も白米も、みんな殻を削って研ぎ澄ませます。しかし、磨きつづけることに、日本人はかなり疲れているようにも思います。
たとえば、会議ではコンセンサスが前提なので、異議を唱える人がいるのは異常事態、空気読めと言われます。ここでの日本人が崇める「個性」は、違和感であり例外であり悪です。根回しをして、データとエビデンスで「論破」して黙らせ、一つの合意をなんとか作り上げる。カドがたつ考え方や尖ったアイディアを綺麗に削りとり、誰もが異論を唱えられないような形に磨いて、十分に磨ききったらお披露目です。一見パーフェクト、かもしれませんが、大変な思いで削り磨いたその結果、そこには本当に世界を動かすようなカケラなりが残っているのでしょうか。
個性のカケラも許されない日々で、ラッキーエビスや盲腸コアラを見つけると嬉しい。そんな感じなのかもしれません。でも、そもそもスタート地点を「みんな同じ」とせず、「みんな違う」にするだけでよいのではないか。今はそう思っています。これを、僕流の「コスモポリタニズム」と言います。

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