見出し画像

第1回 入部前に戦力外通告を受けた男がどん底から這い上がった話。

大っぴらなタイトルですが、ここから8回にわたって私の立命館大学硬式野球部での4年間で学んだ思考や実践したことをお伝えしたいと思います。野球を頑張っている人や、他の何かを頑張っている人、頑張りたくても頑張れない人など少しでも多くの方の参考になれば嬉しいです。

高校~入学当時の自分

まずは簡単に私のバックグラウンドをお話します。

私は愛知県屈指の進学校である時習館高校出身で、最後の夏は背番号8をつけてプレーをしていました。しかし、当時の私はピッチャーとしてエースになりたかったため、当時の状況は私の希望とはかなりかけ離れていました。

その後、新チームになった2年生の秋からの約1年間は、私の実力不足とチームの事情によって、一度も公式戦のマウンドに立つことなく高校野球人生を終えることになりました。

悔しさの残る高校野球生活を送った自分は、「自分はもっと伸びる」「大学ではピッチャーとして活躍してやる」という気持ちでいました。

大学受験では広島カープが好きという理由で広島大学を受験しましたが、結果は不合格。浪人をして臨んだ2回目も吉報は届かず、結局滑り止めで受験した立命館大学に進学することになりました。

立命館大学野球部時代

立命館大学の野球部は、ここ5年間で4人のプロ野球選手が誕生している強豪校です。

立命館の野球部では実際に練習に参加し、監督と面談をしたうえで、入部するか(できるか)どうかを決める入部フローがあるのですが、その際、私が当時の監督に言われた言葉がこちらです。

「君じゃ厳しいと思う。すでに同級生にピッチャーは10人いるし、もしかしたらのちに学生コーチやマネージャーになってもらうかもしれない。どうする?」

そうです。私は入部前から戦力外通告を受けたのです

しかし、負けず嫌いの私は、即答で「やります」と答えました。答えちゃいました。

最終的に入部できることになったのはよかったのですが、その私を待ち受けていたのは、予想を超える苦しい日々でした。周りのレベルは非常に高く、今まで自分がしてきた野球とは全く異なる競技に思えるほどでした。

チームには甲子園を優勝した選手や野球雑誌に取り上げられるようなタレントが揃っており、当時球速120km/h程だった私はチーム1球速も遅かったです。

また、集合は毎日朝4時半、浪人によって体力のブランクもあった私にとってはかなりきつい環境でした。

そのような成功の見通しも全く立たないシビアな環境に置かれていた私の当時の目標は、

「夏まで野球を続ける」でした。

私がいかに平凡であったかが分かっていただけたと思いますが、そのような実力も成果もなく、入部前に戦力外通告を受けた私が、逸材揃いの立命館大学で、

2回生の秋にはチャレンジリーグ(新人戦)で登板達成
4回生夏の紅白戦・オープン戦は計15回無失点
4回生秋のシーズンにはリーグ戦メンバー入りをし、初登板を達成

という成績を残すことができました。

今回では、数回に分けてここに至るまでに私が実践してきたことや思考法などをシェアしていきます。
現役野球選手はもちろん、野球好きの方、そうでない方にも届くような記事をお届けしていきたいと思います。
続きはこちらです。↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?