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向上することが当然である空気について

これは現代特有のことなのだろうか?それともいつの時代もそうなのか?
何がかというと、「誰もが常に向上し続けるのが当然である空気」のことだ。

バイトしても仕事してても、走っても趣味やっても、人間そのものとしても、いつどんな場面においても、より良い方向に改善していなければならない。
退化するなどあり得ない。以前の自分より劣ってはいけない。結果で劣っても少なくとも何かを学び続けなきゃいけない。

それが当たり前だ。


でも本当にそうか?停滞してはいけないか?現状維持ではいけないのか?退化することは怠惰なのか?というか怠惰のなにがいけないのか?

そんなにいつもいつも向上を求められて、疲れないか?
ぶっちゃけそれってプレッシャーじゃないか?
辞めたくならないか?逃げたくならないか?
自分のペースではダメなのか?
必ずしも社会の激しい変化に付いていかなければいかんのか?


僕は気がついた時にはすでに、こういう「向上するのが当たり前」な社会に生きていた。

いつだって成績の向上を、体力の向上を、技能の向上を要求された。
あるいは要求などされていなかったかもしれないが、より良い自分を目指すことが当然だと思っていた。

そして向上し続けて社会の要求するレベルに常に達していないと、置いていかれる。置いていかれればそれは脱落者、落伍者の烙印を押され、労働市場、婚活市場などの社会的市場から速やかに追い出されることになる。

だからそのプレッシャーと毎日毎日毎年毎年いくつになっても戦わなければならない。

しかもこんなに変化の激しい現代でだ!

明日には流行りが変わり、トレンドが変わり、最新のものがすでに古くなる。そんな激流のなかで即座に適応することを求められる。


疲れないか?


SNSやnoteとかブログとかの投稿にしたって、そこに表現されるのはつねに前向きで向上し続けている自分でないといけないのか?
フォロワーとかアクセス数は向上していないといけないのか?


?マークをいくつ使ったかわからないが、結論は「そうじゃなくてもいいんじゃね?」ということだ。

つまり、成長しない自分で何が悪い。
そしてそれを開示して何が悪い。
てことだ。

べつに向上もしないし成長もしなくてもいいだろ。
マンモスを狩ってた頃はマンモスが捕まればそれでOKだったんだから。
マンモスを狩る以上の成長なんかべつに必要なかった。
たまに捕まえてみんなが食えればそれで良かったはずだ。

マンモス狩りのための最低限の成長は必要だったかもしんないけど、それに加え薬草の知識、武器を作る技能、住居を作る技能、コミュニケ能力、その全てを高いレベルで兼ね備える必要なんてあったか?

現代も分業かもしんないけど、成長の求められるカテゴリが多すぎる。
高いコミュニケ能力がないといけないし、部下育成、もちろん現場での技能、政治や社会や経済の最新情報を常に把握し、身なりを良くし、語学も求められ、さらにはSNSで個人ブランディングし、投資など財テクを駆使し、人格者でなければいけない、、、、
そうしてようやく、安泰でいられるくらいの地位につくことができる。すなわち勝ち組になれる。
勝ち組でいつづけるためには、言わずもがな向上し続ける自分でないといけない。
そうじゃないと安全が保障されない。

勝ち組になれない多くの平民は、死ぬまで一生、先行きの不安に悩まされ続ける。
不運にも大きく負けた人は向上する機会すら奪われ、格差社会の犠牲者となる。生まれながらにして向上する機会さえ持たない人もいる。ノーチャンス。


向上しないことは怠惰か?
向上していないことは自己責任か?
激しすぎる社会に付いていけないのは自己責任か?
そういう人は泥水を飲まされ続けるのか?

それでいいのか?

いつの間にか格差の話にすり替わってしまったが、向上することが当たり前とされる世の中は生きづらいと思う。

より良くあらねばならないプレッシャーにみんな疲れてると思う。

そうじゃなくてもいいってことが許容される社会のほうが、幸せな人が増えるんじゃないだろうか。

記事が1ミリくらい良かったら100円ください