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求めよさらば与えられん

週刊ブックレビューというテレビ番組が、かつてありました。児玉清が司会を長年担当。毎回3人の書評ゲストが登場して、自分がおすすめする本をめぐって、児玉をはじめとする司会者たちと、絶妙なやり取りを進める番組でした。

書評ゲストの1人として、作家の中野孝次が時々出演していました。和服を着て、頑固そうな風貌で、本の魅力を愚直に語っていた姿が印象に残っています。中野の著は、『清貧の思想』までたくさん読んでいました。しかし、『清貧の思想』がベストセラー化して以降、上から目線の説教本が大半に。読まなくなりました。それでも、彼の初期の本は、考えさせられる箇所があり、現在でも折に触れては読み返しています。その中の一冊、『生きることと読むこと-「自己発見」の読書案内』から、引用します。

日本が敗れて、ぼくは軍隊から解放された。世の中にはもうぼくらを脅迫し、拘束し、恫喝し、命令し、服従させる権力はなかった。軍隊組織も、徴兵令も、戦争も、威張りくさった軍人や右翼どもも消えていた、国家が終わったその先が始まっていたのだ。たとえどんなに窮乏し、衣や食や住もなく、貧窮のどん底であろうと、自由が戻って来ていた。それは、大いに結構だったが、いままでぼくらを圧していた国家という途方もない重圧が取り除かれたとき、ぼくはまるで甲羅を剥がれた蟹のように、丸裸でひとり虚空にさらされているような、そんな心細さを感じ始めている自分に気がついた。自由とは、いざ手にとってみると、なんと恐ろしいものであったか。

敗戦によって戻ってきた自由を前にして、当時20歳であった中野の不安感が、描写されています。この記述のあと、中野はニイチェの思想を手掛かりに、自由の本質を考え抜こうとしています。そして、敗戦後の自由は、アメリカから与えられた「自由」であること。本物の自由とは、自らが欲して作り出していくものだと結論づけています。

誰から与えられたものは、いつまでも借り物です。本物ではありません。本物を求め、自分が創造していくことが、人生の充実感につながると思いました。

求めよさらば与えられんという聖書の言葉が、最後にふと浮かびました。



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