ワナバス【大西一郎『ある視点』第31回】
「もしも明日世界が終わるとしても、私は今日もおふろに入るの。」という歌詞の曲を書いた。
書いたのは二年ぐらい前だ。コロナ禍の真っ只中だったか、少し落ち着いた頃だったか、私は夜な夜な暇を持て余して、この歌の、作りかけのメロディーと伴奏をいちいち携帯に落として自分で聴きながら、鶴見川の土手を散歩していた覚えがあるので、時間短縮営業期間中か何かだったのだろう。ある日おふろの国の林店長から、「OFR48の曲作ってくれないかなあ、こんな時代だけどがんばろう的な。」と言われ、とても張り切って作った。
「もしも明日世界が終わるとしても、私は今日もおふろに入るの。」というフレーズは、ルターの宗教改革でおなじみの、ドイツの神学者マルティンルターさんの「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」という名言に引っ掛けたものだ。
これには、おふろに入るうんぬんという話よりももう少し深い意味がありそうだし、これだけ聞くと「ん?」となってしまう。明日世界が滅ぶとしたら、リンゴは今日植えても食べられないので、無意味な行為のように思えるけれど、リンゴを食べるという目的のためだけではなく、木を植えるという生産的な行為そのものが生きている喜びなのだとか、つまり結果よりも過程が大事なのだとか、どんな時でも希望を捨ててはいけないのだとか、ルターさんのリンゴに関してはそれこそ、どういう立場の人がどういう目的でこの言葉を引用するかによっても、様々な意味に解釈されるけれど、オーニシさんのおふろに関しては、今日、湯舟にお湯を溜めれば今日中に入れるので、もうそのままの意味にとらえてください。おふろに入るという行為そのものが生きている喜び、おふろに入るという目的のためにおふろに入る。そういうことでよろしいんじゃないでしょうか。そうでしょ?
サビの部分に世界が終わるとかなんとか、物騒な言葉を使ったので、とにかくあとはなるべく平易な言葉を使って、わかりやすい詞にしようと思った。
あの頃は、とにかくもうこれからどうなるのか、どんなことが起こるのか、どんな時代が来るのか、行きたい風呂屋も開いてない、開いていても行きづらい日々がまた来るのか、自分の勤めている風呂屋だって、閉まらないとは限らない。先のことは何もわからなかった。私は風呂屋の従業員として、リアルに誰もいなくなった浴室に立った時の気持ちをよく憶えている。
たとえこの歌を聴いてくれるあなたのお気に入りの風呂屋がなくなったとしても、家の風呂だってどこの風呂だって、風呂には違いないのだから、従業員である私とあなたがお店で会えなくても、私もあなたも、毎日どこかでおふろに入るのでしょう。
というようなことが言いたかった。
厳密に言うと、緊急事態宣言下、スーパー銭湯が軒並み閉まっていた時期、おふろの国は開いていた。スーパー銭湯はダメだけど、銭湯はオッケー。風呂がない家に住んでいる人にとって、生きるために必要不可欠だから。ということで、リラクゼーション、あかすり、食堂はなし、休憩スペースも喫煙所も、それからサウナも閉鎖。ただ体を洗って風呂に入る機能だけを残して営業していた。だから、この歌の中では意図して「サウナ」という言葉は使わなかった。あの時、サウナは生きるために必要不可欠ではないと判断されたのだから。
それからもう一つ、これは書くか書くまいか、誰にも言ったことはないけれど、「食べて寝て起きておふろに入って暮らすの」という部分の参考にしたことがある。
ここから先は
¥ 200
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?