消された後の世界を生きている。|詩「消された言葉」
消された言葉
文月悠光
「壁に詩を書いてほしい」
知人から風変わりな依頼を受けたのは、十年近く前のこと。
取り壊し予定の、ある一軒家を貸し切って
パーティーイベントを開く予定だという。
家主と知人にどんなやりとりがあったのか定かではないが、
取り壊し前なので壁は自由にしてもらって構わない、というのが
家主からの唯一の伝言だった。
イベント前夜、わたしは会場となる白金台の一軒家に滞在し、徹夜で壁に筆を走らせた。家具も一切ないがらんどうの部屋で、詩はのびのびと屈伸した。窓枠から詩行をなびかせ、ドアの陰に身を潜め、しゃぼん玉のようにひらがなを振りまいて。知人に召集された若い画家たちも絵で参戦し、壁はたくさんの文字と絵で彩られ、双方が重なり合う空間となった。
翌日、大学の授業が終わった直後、
依頼人から急に電話がかかってきた。
パーティーは今夜の予定だが、どうしたのだろうか。
彼女はひどく慌てた口調でこう告げた。
「文月さんの詩を消しました。ごめんなさい」
呆気にとられ、理由を尋ねる。
家主から「文字だけはどうしても消してほしい」と
強い要望が出されたという。
「終了後に壁を塗り直すから」と説得を続けたが、
家主の答えはやはり変わらなかった。
ほんとうにつらい気持ちで消したのよ、と
心底申し訳なさそうな彼女。
これから向かうことを告げ、
わたしは会場へと急いだ。
嘘ではなかった。
文字は全て白く塗りつぶされており、
絵だけがそのまま壁に残されていた。
わたしは絵の周りに生まれた、
不自然な空白をぼんやりと見上げた。
知らぬ間に消された言葉。
この壁が
あなたの家であるように
壁の言葉は
わたしの詩である。
わたしの詩はうっかり、
守られるべきあなたの領域を侵した。
だからこそ 消されねばならなかった。
そうなのでしょう。
間接照明にぼうっと照らされたリビングで、奇妙なパーティーが始まった。DJは大音量で歌詞の入った曲を流し続け、そのことに皆どこか安心したようにはしゃいでいる。壁から詩が消されたことなど当然、誰も知らない。わたしはまだ意識を壁に引っ張られていて、部屋の中心からそっと離れた。
壁に書かれた詩は、
本のようには閉じられない。
歌詞のように聞き流すこともできない。
壁の文字は、生きた人間のようだ。
そこにあることを無視できないのだから。
言葉は否応なく「他者」なのだ。
その「他者が侵入してくる感覚」に
家主はいち早く気づいたのではないか。
遠ざけておくことのできない他者。
それは、得体の知れない冷たさ。
まるで幽霊がたたずんでいるような。
(わたしは あれからずっと
言葉が消された後の世界を生きている。
それは詩人として恥ずべきことか?
言葉を消されたことのない詩人は幸福なのか?
わたしはあの壁を離れず、番人のように
詩を守るべきだったのだろう。
白いペンキを被り、壁に手足を塗り固められても)
壁に残 、荒い刷毛の跡を指先で っていく。
の るりとし 感も
ド の形も 銀色の蝶 もこ 指の先 ら蘇
目立 い ア は、
ペ の が ざと薄 な いて
の文 を っす 透か て 。
な 消 まいと る、
精 の 抗を り す。
言葉は消される。
誰かの手によって息の根を止められ、
知らぬ間に抹消される。
あなたがいま目にしている、
まっさらな白い壁。
それは、すでに言葉を消された後の
沈黙を強いられた壁かもしれないのだ。
その壁に、わたしは詩を書こう。
消されてもそこにあるとわかるように、
あなたが立っている目の前で。
わたしたちは詩を書こう。
何度も筆先を近づけて
壁に跳ね返る呼吸の熱を
頬に感じながら。
さあ!
わたしの言葉を
消してみてください。
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