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パラレルワールドのようなもの

新宿の雑居ビルの地下に
足踏みペダル式のアルコール噴霧器が
ひとりきりで佇んでいる。
地下の階段はひんやりと空気が冷たい。
こんな人気のない場所にも置かれているのか。
傷んだブーツのつま先でペダルを踏めば、
プシュウ……と勢いよく消毒液が噴射され、
長い余韻と共に、飛沫が床一面をしっとりと濡らした。
差しだしたはずの手が、足が、身体ごと消えていた。
心音もない奇妙な静寂に、私はただ濡れている床を見下ろした。
「消毒液」とは書いてあったが、
「私」が消えるとは、聞いてない。
いや、本当にそうだろうか。
人間を「毒」ではないと裏付けるものは?
私はとうに、やさしい毒だったのだ。
限りなく安堵して、その夜は久々によく眠れた。

東京のマンションのドアを開けると、
一年前の「私」がいた。
タワー状に積み重なった本の陰から
「誰……?」と青白い顔を出す。
しばし見つめ合ったのち、一年前の「私」が切り出した。
「きょうは、まだ二〇二〇年?」
「二〇二一年、七月二十三日」
「よかった、三〇歳になったんだね」
「いや、それどころじゃないよ」
「この一年何があったの?」
東京に? あなた自身に? 何から話せばいいの。汗で張りついた不織布マスクの紐を引く。あんたステイホームしすぎ、ワクチン出たの知ってる? 二回目打った? 私の問いかけに彼女は無表情で、床の一点をじっと見つめながら、「殺されるかもしれない」と語りはじめた。
殺されるって、誰に? わかんない、けど存在が毒、だから家にいないと殺される。はあ、でも生きてるじゃん。こんな生活、生きてるって言えるの。はいはい、死ななくてよかったね、おめでとう。彼女は皮肉も響かない様子で、唐突に「うるさい!」と叫び、ウウーと膝を抱えてうずくまった。もう嫌だ早く死にたい殺してくれ、と呻き散らしている。はた迷惑な女だ。これがもうひとりの自分の姿とは。
私は苛立ちながら「無理だよ。あなたを殺したら、私もいなくなっちゃうんだから」――。言い放った途端、病院のような匂いがツンと漂ってきた。アルコール消毒、雑居ビル、地下の階段、こんな柄のシャツを私は着てなかったか。消毒液を浴びたあの日から、この女は。私は。冷や汗が吹き出す。不意に力が抜け、膝から崩れ落ちた。
消えたはずだったのに。
消えていなかったのだ。

自宅で死ぬ。無観客で死ぬ。
女だからという理由で押し倒され、
「幸せそう」という理由で刺し殺される。
ひとりで死ね、と言われてしまうような
都合の悪い存在はすべて毒とみなされ、
「パラレルワールド」に送り込まれた。
進め。硬直した己の身体を蹴り飛ばせ。
自分でさえ奪うことをためらう「私」を
のうのうと殺されてたまるか。

手を出せば、ペダルを踏めば、消毒液が噴射される。検温器から鳴り響く音は、人々をかすかに緊張させる。街の各所に置かれている消毒液の中には、ウィルスだけではなく、人間ごと毒とみなして消すものがあるという。だが完全消滅はできない。見えない場所に隠すための隔離装置なのだ。鍵をかけると中が見えなくなる、透明な「おもてなし」トイレみたいに。
渋谷駅前では、日が暮れてくると、「緊急事態宣言発令中 この夏を最後のステイホームに」と書かれた大型トラックから「都民の皆さまへのお願いです」と男性の声が空虚に響きつづけている。なにあれ無意味、とはしゃぐ「私」と共に道玄坂を上る。TOKYO 2020のロゴが等間隔に追ってくる。

また緊急事態宣言? じゃあオリンピックは中止だよね?
東京は正気なのか。なおも尋ねる「私」の手を握り、言い聞かせた。
誰も正気じゃない。
正気であり続けることが
もはや狂気そのものだからだ。
「見せてあげるよ」
聖火も持たずに走り出した私たちを
振り返る往来の人々に向かって
感染している! と叫べば、たちまち道が開く。

感染している!
感染している!
感染している!

ひとりで死ね!
巻き込むな!
無観客の喝采を浴びながら
私は私の手を強く引いて、
開会の赤い花火が噴き上がる
新国立競技場を目指した。
ひとりにしない。
誰も消させない。
消せるものなら
「消してみやがれ」
私はガラス張りの公衆トイレに駆け入り、
ためらうことなく、消毒ペダルを踏んだ。

◆初出:「現代詩手帖」2021年9月号 巻頭詩
文月悠光「パラレルワールドのようなもの」
(編集部の許可をいただき、noteに全文掲載しました)

連載詩|痛みという踊り場で #3


【次回予告】「現代詩手帖」2021年10月号(9/28発売)にて、
最新作「ファイターレッド」が掲載予定です。


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