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同一性と社会科学に関する一考:セックス・性別・ジェンダー、価値・貨幣・商品の等価性など…

何かが等しいということ、何かが等価であるということ、これらの同一性に関する話題は私の好きな分野では論争が尽きないように感じている。仮に経済学であれば、ストックフロー一貫アプローチを用いて、各主体の勘定のマクロ的一貫性、フローの最終的な同一性といったものを検算し、その基礎の上に動学モデルを構築するが、この時に示される最終的な貯蓄と投資の同一性や、会計的一貫性は一体どのような概念なのだろうか。もしくは、経済的な取引はたいてい等価な(何か)と(何か)の交換をしているが、この時、何をもってこれらは等価(同一)であるといえるのだろうか。あるいは、ある人間が男であるとか、女であるとか、そのように区分できるとき、その区分が白黒でないにしろ、これらの、私たちが属性としてしばしば認識するジェンダーや性別といった代物は、どのような意味で同一性を持っているのだろうか。この文章は、これら、私が常に知的に関心を持っていた話題に関して、述語論理と同一性を多少大学の授業で触れたので、一考書いてみたものである。まず、論理学の文脈での同値類に関して説明し、その後それらを等価交換、性別とジェンダーに関する一考で使用して分析してみようと思う。なお、ここで書かれる文章には、特定のステイトメントや断言をするつもりはなく、考察でしかないことに留意されたい。

「同じ」とは、「同一性」とは?

まず、同一性には「質的同一性」と「数的同一性」の二種があるといわれている。これら二つの同一性が同じことを指すかどうか?というのは非常に面倒くさい問題で、これらを簡単に一回述語論理で示せば、二つの物体が全ての性質が同じである場合、質的に同一であると言え、これは

$$
a =_q b \leftrightarrow \forall F(Fa \leftrightarrow Fb)
$$

と示せる。そして二つが全く同じオブジェクトを持つ場合、数的に同一であると言える。これは

$$
a =_n b \leftrightarrow \forall x(x \in a \leftrightarrow x \in b)
$$

と表記でき、数学史上、質的同一性と数量的同一性の区別をなくすことが求められてきたが、古典論理ではこのことは不可能であることがわかっている。特に、以下の公理は矛盾を引き起こす。

$$
Fx \leftrightarrow x\in{y:Fy}
$$

この公理は、ある性質を持つ正確にそれだけのオブジェクトを含む集合によって、全ての性質が決定され、その逆も成り立つというアイデアを表しており。これにより、述語が拡張される。

問題は、一部の性質が矛盾しているように見えることで、たとえば、「自分自身を含まない集合である」という性質を考えてみましょう。この性質は以下のように定義できます。

$$
R(x) \leftrightarrow x \notin {y : y \in y} \quad
$$

そして、最初に示した公理より、Rはある集合によって決定される必要があります。

$$
R(x) \leftrightarrow x \in {y : R(y)} \quad
$$

左辺の集合{y : Ry}(あるいはより明示的に書くと、$${y : x \notin {z : z \in z}}$$)は、自分自身を含まないすべてのオブジェクトの集合であり。仮にこの集合を𝑟と呼ぶなら、𝑟は自分自身を含んでいるだろうか?古典論理では、𝑟∈𝑟または𝑟∉𝑟のどちらかが必ず成り立つが、この場合は両方とも成り立たない。

もし𝑟∈𝑟であれば、𝑟は自分自身を含んでいることになる。しかし、𝑟は(定義により)自分自身を含まないものの集合であり、𝑟は自分自身を含んでいるか含んでいないかの両方が真となる。これは矛盾でしかない。

もし𝑟∉𝑟であれば、𝑟は自分自身を含まず、そして、二つ目の式により、¬𝑅𝑟が成り立ちます。そして最初の式より、¬(𝑟∉{𝑦:𝑦∈𝑦})が成り立つ。そして二重否定法則により、𝑟∈{𝑦:𝑦∈𝑦}が導かれる。つまり、𝑟は自分自身を含むものの集合に含まれ、そして、𝑟は自分自身を含んでいて含んでいない状態の両方が真となってしまう。これも同様に矛盾である。

さてさて、この時点で気の遠くなるような、つまらない話だったかもしれないが、私が言いたいのは「質的同一性と数的同一性は区別できない」という問題である。
区別できないにしろ、それが何か「くっきり」わからないにしろ、これは議論を止めることはない。例えば、積分が開発されるまで、明確に「面積とはなにか?」に対する解答というものはなかったが、これはそれ以前の時代の人々が面積を一切認識できなかったわけでも、理解できていなかったわけでもない。では、同一性に関する問題を残しながらでも、同一性に関して一考することはできるはずである。

何かが同一であるなら、それは一回述語論理では以下の特性を持っている必要がある。

対称性
$${\forall x\forall y(x=y\rightarrow y=x) // \forall x\forall y(xRy\rightarrow yRx)}$$

反射性
$${\forall x(x=x) // \forall x(xRx)}$$

推移性
$${\forall x \forall y\forall z((x=y\wedge y=z)\rightarrow x=z) // \forall x \forall y\forall z((xRy\wedge yRx)\rightarrow xRz)}$$

ライプニッツ法?ライプニッツ則?
$${\forall x\forall y(P(x)\wedge x=y)\rightarrow P(y)}$$

ユークリッド的(右ユークリッド)
$${\forall x \forall y\forall z((xRy\wedge xRy)\rightarrow zRy)}$$

さて実際は、これら全部が必要なわけではなくて、ユークリッド性はおまけです。

「商品および貨幣」における一考

商品が取引される際や交換が行われる際には、それらが等価であることが重要であり、この時点での商品は物理的な実体を持たなくとも構わない。実際、あらゆる種類の物やサービスが商品となり得る。こうした商品群が等価で取引されるためには、ライプニッツ則に従って何らかの共通の測定基準が存在しなければならないことが明らかである。例えば、「金」と「小麦」を等価にするような比率や比重を考慮してみよう。一般的な感覚では、金の重さよりもはるかに大きな量の小麦が存在しなければ、両者を等価とみなすことはできない。では、両者が等価で結びつけられる際に、反射性、対称性、推移性といった性質は何を示しているのだろうか?

まず、反射性と対称性から判断できることは、これらの商品が同じ測定基準を共有しているということである。したがって、価値とは述語や二項関係を指し示すものであり、実体とは異なる。この考察から、「金」そのものの存在が価値を持つわけではないことがわかり、小麦も同様である。

次に、推移性やユークリッド性を検討してみると、第三のオブジェクトとして貨幣(マネー)が存在しても、これらについても同様のことが言える。貨幣の物質的な存在自体は価値を持たず、価値は関係性によって生じるのである。これは、貨幣が電子的に表現されている場合や、銀行預金の形で存在する場合でも同じことが言える。

このような考え方を労働にも適用すると、誰かが働いて賃金を得る際にも同様のことが言える。労働と賃金の交換において現れる共通の測定基準は、価値そのものであり、この価値は貨幣単位で表現することが可能である。この価値は、実体から切り離された抽象的な測定基準へと昇華される。このような強烈な同一性は一面では商品たちを無差別と錯覚させるが、実際はこの同一性にくくられた商品たちの異質な部分が個々の商品の性質を理解することの助けとなるだろう。

さて、これらの特性より、価値は絶対的な尺度であることがわかる。そして、この尺度を単位として決めるのは政府である。より詳しく言うと、政府が行う交換がこれを決定することになる。

このように、価値の概念は、商品や労働、貨幣においても共通の測定基準が存在することを示している。商品や労働、貨幣の実体自体が価値を持つのではなく、それらが等価で交換されるために必要な測定基準が価値である。また、価値は絶対的な尺度であることがわかる。そして、この尺度を、単位を決めているのは政府である。より詳しく言うなら、政府が行う交換がこれを決めることになる。これらの考察から、経済における価値は実体ではなく関係性を示すものであり、様々な商品や労働、貨幣の間で共通の測定基準が存在していることが理解できる。


セックスとジェンダーのトラブル

性別・ジェンダーを考える際、どのような同一性で表現できるのかという問いが浮かぶ。この問題は複雑である。仮に、特別なタンパク質・DNA・物質が性別の決定要因とすれば、すべての男性・女性は特定のオブジェクトに言及することになるため、数的同一性を持つと言えるだろう。しかし、別の表現方法も存在する。それは、関係性Mを「xはyを男と認識する・考える(xMy)」と定義することである。もしxMxかつ男性の性別決定要因となる特定のオブジェクトに言及するなら、このオブジェクトはシス男性と言える。

この問題は、主観的な認識であることに起因する。日常生活で私たちは他者の数的同一性を確かめようとはしないし、それが犯罪であり、ほとんど不可能であることも理由である。従って、私たちが社会的なコンテキストで、男性として円滑に生活するためには、つまり社会的に男性であるには、オブジェクト同士で関係性Mが同一性を持って成り立っていなければならない。

いま、アドホックな前提として、すべての個体の性自認・ジェンダーが性別と等しいとして。二人の人間が、反射性を持ちながらも、対称性を持てないのなら、両者は互いに自身のことは男性と自認しているが、どちらか一方は相手に対して男性と認めていないことになる。このオブジェクトはもっと増やすことが可能である。仮に三者が存在しているとして、「x」からyとzを男性と認識し、yもzもxを男性と認識しているとき、yとzは互いを無条件に男性と認識しあうだろうか?答えとしては否である。反射性と対称性だけでは推移性を導出することはできない。これは実のところかなり厄介である。なぜなら、仮に、「男でいること」のスタンダードとして、すべての他者から男性と認識され、認識された対象にも正確に男性と判定するような、社会的に完璧な男性と認識される理想的基準・判定装置が存在しても、社会全体が様々な男性たちを互いに男性と認知するような状態は導けないからである。しかし、このようなTolerance relation(直訳するなら「許容関係」)が成立しているような社会であれば、「すべての男性は互いに十分に似通っている」というのは注目に値するだろう。

さて、問題はさらに出てくる。これまでの議論で、アドホックに個体の性別と個体の性自認が等しいとしていたが、これは現実に妥当ではない。この前提を取り払えば、そもそも個体の自認が何によって基礎づけられているかさえも不確かになってしまう。また、そもそも性別が数的同一性として表現できるかという問題も存在する。生物学的視点から見ても、そのような同一性は定義しようがないからである。

犬と¬犬は誰にでも自明に感じる。もしくは木・¬木も簡単に識別できるだろう。すると、これらを分離する明確な線が存在すると言えるのだろうか?何かが等しく「犬」であるというとき、私たちは普遍的共通点、同一性を見出そうとしてしまう。これは数的にも質的にもなれるが、このような普遍性は発見できない。仮にそのような概念があるなら、あなたは「普遍的な犬」を表現できるか考えてみよう。すぐに行き詰まるだろう。なぜなら、このような生物の違いというのは、個体同士の類似度であり、Tolerance relation・許容関係であり、同一性ではないからである。

すると、その類似度や分類の基準というのは実のところ適当でも良いのである。目的や用途によってその分類やカテゴリーは変えることができ、生物学的に人が男性・女性というのは「私たちがどのように世界を見るか?」ということであり、「世界がどのようなものか?」(仮にそのようなものが観測可能か?理解可能か?存在しているか?は置いておいて)とは全く別の話であり、この意味で、私はバトラーが「セックスはつねにすでにジェンダーである」と書いたのではないかと考察する。したがって、やはりジェンダーを社会的構築物とし、セックス・性別を科学的・本質的・物質的と認識することは間違っていると結論づけられるだろう。

つまり、性別やジェンダーの問題は単純な分類やカテゴリーではなく、社会的、文化的、個人的な要素が複雑に絡み合っているものである。私たちが性別やジェンダーを理解しようとする際には、これらの要素を考慮に入れる必要がある。そして、バトラーの考察に従えば、セックスとジェンダーは実際には密接に関連しており、どちらも社会的構築物であると考えられる。この視点からみると、性別やジェンダーに関する問題はさらに複雑になることが予想される。

結論と問題

私たちは互いの認識レベルで共通した絶対的性別像をもってしても、社会全体での性別に関するコンセンサスを生み出すことはできず、客観的物質的事実を装って人類を性別というカテゴリーで二分するアプローチも本質的に不可能だが、セックスとジェンダーが同一の概念であることを示してしまった。結果的にこれは人間の身体的・物質的な人間の特性の強さをむしろ強調することにになる。ジェンダーは無数に存在しないし、男・女のレンズを取り換えることは相当に難しい、現状はジェンダーもセックスも二つしか存在していないのである。だからと言って、人を分析する目的で男女にわけ、それらの分析結果を、社会的に男性・女性がどうあるべきか?の真理のごとく科学的様相をまとった言説がはびこることになれば、これは第二次フェミニズム運動が戦ってきた事をもう一度繰り返すことになるだろう。逆に、ジェンターとセックスが等しく社会的構成物であることを理由に、男女の差異を無視した言説がはびこれば、いまだ根深く存在する性差別を黙認することになる。

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