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もう苦しい夜をやめたい

最近、代々木上原の古本屋で買った本の中に
『ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう。』
とあって、これにピンとくるかどうかで人を愛したかどうかがわかってしまう。
もしかするとそれはちょっと言い過ぎかもだけど、他人を想うというのは本当は生半可なストレスではない。

解説すると『相手(物事)がひとり(ひとつ)しかいないと、他が見えなくなってすべての秩序を崩してしまう』と言い換えられる。随分とわかりやすくなる。
愛する人というのは本当に色んな意味で大きい、多い、デカい。BIG偉大だ。それはどう足掻いても変わりようのないことで、たとえ自分の世界からいなくなってしまっても心の上辺で「考えるのをやめよう」と己を欺いたところで、胸の奥底、喉の下の奥、心の芯からなんとも言えない苦しい痛みと共に湧き上がってくる。
愛する人と行き別れて、胸が張り裂けそうに痛いのは、もう二度と会えないから? …きっとNO。答えはNOだ。それはこの胸にある“あなた”へと注がれるはずの愛の水が、行き場を失い無様に地面にぼたぼたとこぼれ落ち、乾いた砂にいとも簡単に吸われ拡がり何処かへ消えていってしまう事が苦しいからだ。その水が砂を土へと変え、何か名前も知らない草花の根に吸われるわけでもなく、本当に文字通り消えてしまうからだ。けれどそんなエゴ、本当の愛ではないんでなかろうか?
だがここでハッキリさせておきたいのは、本当の愛、真愛が何かなどと大きなテーマを投げたいわけではない。ただ若輩者の自分が知りうる限りの真愛とそれを忘れてしまわないように残しておきたい。その一心で指を走らせている。

僕は少し前から“忍び恋”という言葉が気に入っていてよく思い巡らせている。
忍び恋というのは『武士道』に書いてある古い言葉で、あの「武士道とは死ぬことと〜なんちゃら」で有名な『武士道』だ。侍とか剣豪とか刀のイメージだが、そこにおくゆかしい愛についての精神が書かれている事を知る人は少ない。
忍び恋とは、たとえ思いを寄せている相手から「思ってくれているのではありませんか」と問われたとしても、「全く思いのよらぬことです」と答えて、ひたすら思い死ぬのが恋の至極である。「恋心を秘めたままに死んだ私の亡骸を焼くときの煙を見て、漏らさなかった胸の内をわかってほしい」と願う、一歩どころか百歩も千歩も引いた、おくゆかしい愛だと僕は思う。真似できるものではないが…。

ここまで愛について思うままに書いてきたが、今一度タイトルに戻りたい。
「もう苦しい夜をやめたい」というのは決して別れた愛する人への執着する心からきたものでは無い。自分の生まれ持っての性格と精神疾患により、悪しき思考の循環が当たり前のように頭の中にどんと居座り、時に脳内を走り回り暴れ倒し、大事な記憶や思い出までを平気で塗り替えてゆく。たった一つの悲しみの星により、ことごとく他の自由できらめく星や、それのみならず宇宙そのものを消滅させてしまう。そんなのもっともっと悲しい…。約2年前、労働とパワハラにより鬱が爆発して一度死滅した精神が、愛する人にかけてもらった慈悲により、もう二度と手に入らないと思っていた柔らかい心を齎してくれた。本当に取り戻せると思ってなかった。それは自分が、自分自身の呪縛(性格、思考、コンプレックスetc.etc)によってこれまで散々苦しめられてきたからだ。そしてそれを長い時間、近くで見ていた彼女は、今、僕の精神の半分を否定してでも「もうやめよう」と言ってくれたのだ。これが真の愛だろう…そしてそこに穢れも色恋も何もない。見返りを求めることもない。自分が自分を卑下してどんなに罵倒して落ちて沈んでも、同じ深度まで潜り、引上げ、深い愛情で助けてくれたのに僕はそれに感けてクソガキのように自己否定をヤメられなかった。一緒にいたあの頃の彼女のことを思いやるとそれはとても苦しかっただろうと思う…とても悲しい…涙が溢れる。自分が自分を苦しめるのと同時に、愛する人まで沈めていたのだと知って本当に心が痛い。胸が張り裂けそうになる。だからもう僕はやめたいのだ。もう自分によって苦しむ夜をやめたいのだ…もうやめたい…‼︎これは悲観ではない。嘆きでもない。静かな決意の祈りである。また逢う日まで…。

心はデータに乗る。僕はそれを知っている。
僕がいつかふと、きえてしまっても今まで書き遺してきたモノ達が、肉体を失なくして彷徨う魂に形や色をつけてくれる。そうすれば僕が僕自身を忘れずに、永遠にも近い時間、電子の海でゆらゆらと漂うことが出来る。さっさと天国にいっちまえば良いのだろうが、それはまだちとこわい…トホホ。けれどもそれは僕が死を覚悟していない証拠で、現世の生活に対しても、愛する人達やモノ達に対してももっと親身に関わりたいからである。それは僕自身と同じように、いつか必ず消えていってしまうとわかっている尊い生命達が終わるまでのバッファーになりたいからだ。火が消えるまで風除けでありたいからだ。その儚い終わりを見届けたり、見届けられたりしたいからだ。ふと亡くなった近所のネコも、再生と同時に切れたカセットテープも、ノイズだらけで映らないビデオもいつのまにか消えてしまった。動物もそうじゃない物も、みんなふと消えてしまった。だがそれは決して「消えないで」という烏滸がましい祈りではない。消えてしまうその瞬間、きっと覚悟していたとしてもすごく悲しいことに変わりはないだろう、けれどそういう終わりに、やさしくあたたかいハグをして「大丈夫よ。安心してね。いつもそばにいるからね。こわくないよ。」と僕は言いたい…心から深く言いたい。僕はそういう愛する心を失くしたくない。この胸にまだある真愛を失くしたくはない。だから僕はこれを読む“あなた”に、もう苦しい夜が来ないことを祈りたい…明日も明後日も明明後日も祈りたい。そうすればきっといつかは、僕にも苦しい夜が訪れなくなるだろうと信じて…。


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