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介護を終えて、今思うこと。「私はわかっていなかった‥‥。」

父が亡くなり10年余りたちます。
父は、脳梗塞と他の病気で2度の手術後、
余命宣告され、自宅に帰ってきました。
状態は、要介護5(介護の中で最も重い位置づけ、
一日中寝たきりの状態、日常生活のほぼ全てに介助が必要。)

自分では動けない、会話できない、
寝返りもうてないので、
夜中も、4時間ごとに体の向きを変えていました。
その他、ストーマの交換(人工肛門)、
鼻からチューブで栄養をとる経鼻栄養、
オムツ交換、床ずれの処置をやっていました。

時期は違いますが、
飼っていた犬たちも、

保健センターから引き取ってきた犬や、
骨と皮になり皮膚炎で全身真っ黒になってしまっていた野良犬。
幼少期、紐で虐待されたと思われ、死ぬまでリードができなかった柴犬。
股関節の手術や舌根沈下して気道がふさがれ窒息してしまうという
難病で気管切開後亡くなったラブラドルレトリバーなど、
(みんなそれぞれ、個性的だったな~)
4匹の看病と最期さいごを看取ってきました。

当時は必死だったため、後悔のようなものは少なく、
やりつくしたような気持になっていたのだけれど‥‥

落ち着いて今、思い返すと、
介護生活の中に自分という存在がすっぽりぬけていた。
もっとはっきり言うと「自分を大切にするということ」が。

そのころの私は、父や犬たちの状態が、
改善しないことに打ちひしがれ、
「何とか治療がうまくいき、薬が効いてよくなってほしい。」
そんな考えばかりで、体力的にも精神的にもギリギリで、
自身が追い詰められていくようでした。

ちょうどそんな時期に、
偶然TVで、お姑さんの介護をされている方が、
一日一回お気に入りのカップでゆっくりお茶を飲む時間を
とっている映像がながれていて‥‥。
それを見て、「いいな、のんびりしていて、うらやましいな」
なんて気持ちを持っていたのだけど、

逆だったんですよね、

その方は、あえて、工夫し、自分の時間をとっていた。
というか自分自身に戻る時間をつくっていた。

自分自身に戻るということは、
冷静で落ち着いた判断ができる自分にもどるということ。

自身のことを横に置き、介護にばかり必死になると、
疲弊してしまい、時に、自分が犠牲者になったような気持がわいてきて、
感情的になったり、状況を冷静に見ることができなくなることもある。

意思の疎通が難しい本人や犬に代わり、治療方針の決断や
セカンドオピニオンの必要性等の判断を迫られるのに。


「私はわかっていなかった‥‥」と思います。
父や犬たちに対して、
最期さいごが来るまでの、今や今日という時間を受け入れ、
その日が来るまで、本人や犬たちがどんな毎日を
すごしたかったを冷静に考えることができていなかった。

治療優先だけでなく、
最期に「幸せな人生、犬生だったな」
と思える日々を共にすごすという選択肢

しっかり自分の頭に入れておくべきだった。


私にとっては今更の話ばかりなんですけど。

自分にもいたわりの気持ちを持つ。


差し出がましいのですが、
どうか今、介護されている方がいらしたら、
「自身の心や体、自分の時間も大切にする」
「自分もいたわる」という思いをあえて
もってほしいんです。

介護は精神的にもきついんですよね。
相手との歴史があるし、そのことがあるからこそ
感情が激しく揺らぐこともある。

そんな厳しい状況なのに、褒められることも、
感謝されることも少ない、もちろん報酬もありません。
そして24時間休みなしなんてことも。
「そんなの当たり前」なんて冷たい言葉を浴びせられることも多い。
そんな言葉にますます介護側は疲弊していくこともあるんですよね。

「自分の時間をつくるなんて忙しくて無理、余裕なんてない」
と思っていても、あえて、
自分も同じようにいたわろう」「大切にしよう
という気持ちを心の隅に置いていてほしいんです。
それが、自身にも要介護者や家族の幸せにもつながると思うから。

きれいごとに聞こえるかも知れませんが、
最期にお互いの心の中で「ありがとうね」って言える、思える。
こんな素晴らしいことはないと思うんです。


ご覧いただきありがとうございます。いただきましたサポートを胸にきざみ、皆様の心に届く内容を目指して努力していきます。自分自身も楽しみながら長く続けていけたらと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。