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旅をする本

 江國香織の「神様のボート」を初めて手にしたのは、今から20年近く前のプラハのバックパッカーズだった。1泊だけ一緒だった、日本人の女性が帰国する際、活字が恋しくなるよ、と持っていたこの本をくれたのだった。

* * *

 フランクフルトの空港に着いた後、そのまま夜行列車でプラハに向かった。海外で列車に乗るのも、コンパートメントの車両も、真夜中に国境で列車内にて出入国の手続きを行うのも全てが初めて。日本を飛び立って丸1日以上が経っていた。プラハの駅に着いて、予約していたバックパッカーズに向かい、到着出来た時は安堵感でいっぱいになっていた。

 案内されたドミトリーの女性部屋には、日本人が1人滞在していた。彼女は旅の最終地点がプラハで、私が到着した日が最後の1泊だった。旅をスタートしたばかりの私と、終える彼女。色々な話をする中で、私は荷物を減らす為に本は地球の歩き方しか持っていない、と言うと別れ際に、活字が絶対恋しくなるから、と「神様のボート」をくれたのだった。私ももらった物だから気にしないで、と。

 地中海のリゾートのコテッジから始まり、シシリアンキスというカクテルの、とろりとした琥珀色の描写が、旅先で読むにはぐっと来る1冊だ。それまで江國香織を読んだことのなかった私には、とても新鮮で、旅の気分を盛り上げた。そして、寒いプラハのバックパッカーズで、移動中の長距離バスの中で、そのままこの本と一緒に私はドイツまで旅をした。

 そして、どこで気が付いたか忘れてしまったけれど、ふと本の最終ページを見た時に、手書きの文字が見えた。

 東京→ベルリン→プラハ

 都市と日付、そして持っていた人の名前が順々に書かれていた。私が知っているのは、プラハの彼女だけだけれど。

 あぁ、この本も旅をしているんだね。

 何だかふと、嬉しくなった。私の旅はフランクフルトに戻ったら間も無く終わるけれど、あぁ、この本はもしかしたらまだまだ旅を続けられるかもしれない、そんな気がした。

 最終宿泊地のローテンブルクのユースホステルで、私はこの本を新たな旅に出すことにした。同部屋だった大学生の女の子に、私の名前をひっそりと書いて手渡した。

 彼女は気づいただろうか。その本が旅をして来たことを。でも、気づかなくても良いかな、とも思った。私の知らないところで、あの本は旅を続けたかもしれないし、終わったかもしれない。それを想像するのが、先に帰国した私には、何だかちょっとだけ、自分の旅も続くようなワクワク感でいっぱいになった。

* * *

 それから旅に出る時には、本を何冊か持って行った。旅気分が上がる、と言う理由で「神様のボート」も3、4冊は持って行ったと思う。出会った人に渡したこともあったし、一緒に帰国したこともあった。今家にあるこの本は、ラオスから一緒に連れ帰ったものだ。結構ボロボロだけど、それも良い思い出だ。

 今ではスマホで、タブレットで、電子書籍から動画まで何でも見られるようになった。荷物も減らせるし、本を一緒に連れて行くこともめっきり減ってしまったけれど、本と一緒に旅の風景が見える、と言う趣もあっても良いのかもしれない。あぁ、久し振りに、本を持ってまた旅に出かけられる日々を、私はとても心待ちにしている。

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