人がいなくなるということ

去年の夏に父が亡くなった。
その時に書いたものが下書きに残っていました。

夏のはじめに父が死んだ。
目が覚めたら泣いている、泣いていることに気づいて目が覚める、そんな夏だった。

そもそものことの発端は、7年前に遡る。
暑い熱帯夜の夜に、父の呼吸がおかしいと母が救急車を呼んだ。
その日から父は半身不随で脳にも障害が残った。

それから、父のことを考えない日はなかった。
父が倒れたのは自分の行いが悪いせいだと思った。そうとしか思えなかった。
今まで自分がどう立ち居振舞っていたかもわからなくなり、当時付き合っていた恋人とも別れた。
父が病に倒れた日、人生で数少ないデートというものをしていたから、恋愛なんてしたからだ、という思考も生まれていた。これは未だに自分を縛っている。

もしかすると病気あるあるなのかもしれないが、倒れる前の見た目をした全く別の性格の人間が家に帰って来る。
これが自分にはしんどいものがあった。
悩みに悩んで、折り合いをつけるために今までの父は亡くなったことにした。新しい人が来たんだと思うことにしたら、だいぶ気が楽になった。しかし、父に何もできなかった悲しみはついて回った。

父との距離感がつかめなくなり、都内に実家があるにも関わらず、一人暮らしを始めた。
程よい距離が取れるようになり、父に会うのもうれしいと思えたし、ありがたいとも思った。
そう言えば一人暮らしを始めるときに、父が「本当に一人なの?」と聞いていた。不器用で、今も一人だ。いつか結婚式に来てもらいたかったな。ごめんね。

だいぶ心に折り合いがつけられてきた頃、母から父が癌であると知らされた。3月だったと思う。
自分の親に癌が見つかるなんてことがあるんだ、と感心するような。しかしながら悲しくて涙が出た。泣いたままTSUTAYA書店で心にぐっと来る感じの本を思いつきで買った記憶がある。傷口に薬を塗るようなものだ。

悲しみも大きかったが、それとは裏腹な気持ちもあった。冬頃から認知症が進んでしまい、ちょっともうどうしようもない状況だった。
お見舞いに行っても、怒るばかりだった。「感情失禁」と言うらしい。なんという名前だろう。つけた人はコピーライターになるべきだ。

だから、父が癌と知って、この苦しみに終わりが見えるという安堵も、悲しみと同じ場所で共存していた。同居している母と兄がこれ以上辛くならないようにという気持ちもあった。

そして迎えた7月。父が危篤になった。あと数日という診断だった。
会社を早退し、翌日から休んだ。
幸いにもまだ意識があり、話すことができた。体力が著しく落ち、少し会話をしては疲れて眠り、というのを繰り返していた。

家族で交代して夜も付き添った。
何度ももうだめだという瞬間があり、その度に生き返った。いや、生き返ったという表現はおかしいが、医師も驚くほど心臓が強かったらしい。

病院で終わりを迎えるまでの間、父は何度かわたしや兄を呼び言った、「かわいいな。」と。一度言ってもその瞬間ごとに忘れてしまうから、何回も口にした。
父にとって当たり前のことで、そしていなくなる前に伝えておかないといけないと思ったのだと思う。
これが後からかなり効いた。
今まで何度も自分を不細工だと言い、自虐してきたが、もう二度とやらない。
自分を愛せ、かわいがれ、という父からのメッセージだったのだと思う。

父は明るい人だった。
病に倒れてから、週二回病院の隣の福祉施設に通っていたのだが、そのときお世話になっていた職員さんたちが何人も遊びに来てくれた。
ほとんどない体力を振り絞って、良く言うと感じの良い、悪く言うと八方美人なことを言って、笑わせていた。
何人も来た。これはこの病院のしきたりなのかと思っていたが、父は特別明るくて社交的だったから職員さんと仲が良くて、それで何にも来たんだと後から知らされた。

あまりに強靭な心臓を持っていたものだから、危篤と言われてから一週間も生き延びた。
だんだん終わりの見えないこの生活に不安も感じていた。
もう言いたいことは言えたし、と思い、出社することにした。

二日間、時短で出社した。
夜、父の元に行ったら明らかに顔色が悪く、口はおろか、目もほとんど動かなかった。
認めたくはないが、こうして人は亡くなるのだと思ったし、本当に父が亡くなるんだと思った。それまでどこかで元気になるんじゃないかと思ってしまっていたのかもしれない。

一旦帰宅した1時間後、病院から電話があった。
とにかく無我夢中で自転車を漕いだ。ちょっとでも早く行きたかった。
死ぬとき、最後まで耳が聞こえていると聞いたことがある。最後にありがとうと伝えたかった。

病室に着いて父の顔を見た瞬間に、納得した。亡くなった人というのは本当に土気色になるんだ、と妙に感心した。

それからいろいろあって、父の身体が家にやってきた。
変な話だが、なんだかかわいかった。
眠っているみたいだった。

葬儀屋さんがいろいろ準備をしてくださった。

それから数日、会社に行った。大変だったね、なんて言われたが、まだ父の遺体が家にあるから、亡くなっていないような気持ちもあった。
姿形をずっと忘れないでいたかった。
燃やされてしまうなんて、考えたくもなかった。
父の遺体の顔を何枚も写真に撮った。こう書くと気味が悪いが、遺体という感じがしないからだ。不思議な感覚である。

危篤と言われてから亡くなるまでの時間を延ばしに延ばした父だが、なんと葬儀の日程もうまくはまらず、またも延びた。
それに甘えさせてもらい、ずっと父が横たわる部屋で過ごした。
遺体の状態が悪くならないよう、棺に入れられ、冷房でキンキンに冷やされた部屋が今年の夏の思い出だ。

悲しいことにその日はやってきた。
身内だけで執り行われた。私は受付をしたり、親戚のお酒に付き合ったりした。
一番辛かったのは棺に花を入れるとき。
もう本当に最後だと思ったらとても悲しかった。
でも、自分は父の娘で、人前で泣くような人間ではない。
涙の代わりにシャッターを押した。写真におさめれば、ずっと見返せると思った。
従兄弟に嫁いだ女性が泣いていた。
関わりがほぼないのに、泣くほど悲しいのか?それも人前で泣くほどに。
悔しかった。こうして素直に泣けない性格が、うまくいかない人生の元凶とも思えた。

火葬場へ行く。
恥ずかしながら初めての火葬場だった。
お米を入れるかのようなポップな骨壷が軽く売られていたのが印象的だった。死とはなんだ。こんなにポップなのか。

いよいよお骨上げ。見るのが怖かった。自分がどうなるのか、自分を保っていられるのか不安だった。
しかし、目に入ったのは白いなんだかよくわからないもの。
私はてっきり歴史の資料集に出てくるような姿で現れるのかと思ったが、全然そんなことはなかった。
これはこの夏で一番感動したと言っても過言ではない。誰かが砕いてくれているのだ。なんてありがたい仕事だろう。
誰だかわからない人の遺体を燃やしてくれるだけでもありがたいのに、砕いてわからなくしてくれるなんて。
お世話になっている、そういう関係のお仕事をされている方に聞いたところ、やはりちゃんと処理をなさっているらしい。
母に話したら流れ作業だろうと言われたが、そんなわけないだろう。すべての人が誇りを持って働いていると、信じさせてくれ。

そんなこんなでお通夜と告別式が終わり、なんと翌日から出社した。
親の告別式後に会社でやらないといけないことなんてあるのかよと思ったが、自分は仕事が好きなのでありがたかった。

まあだいぶ元気になったなあ、なんて思っていたが、それから毎日死に関わる夢か、父にまつわる夢ばかり見て、泣きながら目覚めた。
ああこれは多分かかるところにかかれば診断が出るような。
荒療治で、塩田千春展とクリスチャン・ボルタンスキー展に行った。今思うと気がおかしいと思うが、今だからこそ見えるもの、わかるものがあるように思えた。作品が作る空間に身を置いて思ったことは、死の受け止め方は自由ということだった。非常に解放されたような気がした。

人が亡くなるというのは、失恋状態がずっと続くみたいな部分もあると思う。
普通に歩いていても、ひとつのものを見るとそれにまつわる故人との思い出が芋づる式にフラッシュバックして涙が出てくる。しかも恋のように病のような部分がないから、いつまでも悲しい。
また、死や病院、家族のようなものに敏感になったふしもある。登場人物を死なせてしまうドラマや映画を観られなくなった。
病気で感動させる系もしんどい。テレビであれば消してしまう。

つい先日、四十九日が終わった。
永遠に続きそうだった悲しみも落ち着くのかもしれない。

会社の方々が気をつかって、お香典をくださったので、今日は朝から新宿伊勢丹に行き、香典返しを買いに行った。
なぜ伊勢丹かと言うと、Creepy Nutsのオールナイトニッポン0リスナーだからだ。

まずは同じチームに小洒落たものをと思い決めていたものを購入。
その後、手持ちがないことに気づき、銀行へ行こうと外の階段へ向かったところに男女を発見した。

端的に言うと、おじさんと手を繋ぐおばあちゃん、それよりはいくらか若いおばちゃん。
なんの集団だ、と思いまじまじと見てしまったが、一言目で泣いてしまった。
男「おばあちゃん、伊勢丹はどう?」
おばあちゃん「まさか来れるとはねえ」
おばちゃん「おばあちゃんよかったねえ」

三世代でお出かけだ。老齢のおばあちゃんを伊勢丹に連れてきたのだ。
なんて良い孫、娘さんなんだ。
世のお母さんというのは自分のやりたいことを我慢しがちだ。それに加えて母は、父の介護をずっと担ってきた。
これからは自分のやりたいことをして欲しい。自分もちゃんと安心してもらえるように生きないと。

人への贈り物というのは、自分の気持ちも良くなるもので、しばらくぶりに心が豊かになった気がした。
うろうろしていたら、月餅が売っていた。
中秋の名月というと団子ばかりが注目されがちだが、満月の夜に家族で月餅を食べると家族円満なんですよと店員さんが教えてくださり、購入した。また、我々の生活が始まる。

残された人間たちは強く生きないといけない。
明日は母と渋谷へ出かけてくる。

長く感じた夏が終わりを迎えようとしている。月曜日からは40デニールくらいのタイツで出社する予定だ。

夏の終わりに、素敵な週末を持てて良かった。
思い出にそっとふたを閉めるような、そんな日だった。

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