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モルカー最終回の発表を受けて(モルバレなし)

羊毛フェルトアニメPUI PUI モルカーが最終回を迎えることになってしまいました。衝撃でした。

普段からアニメを追っておられる方々からしたら、何らかの方法で事前にそのアニメが何クールかとか細かい情報を得られる場合も多いのかもしれませんが、ぼくはなんとなく自分が好きなものに対してそこまで積極的に情報を得ようとすることがない傾向にあるようで、今回もモルカーが果たして何回オンエアされるのかというような情報を知らなかった。

敢えて情報を仕入れないようにしている節も上記の通りありまして、そのおかげで毎回新鮮な気持ちで最新話が見られるというメリットが存在します。

過去に熱心に見ていたアニメ媒体なんかでも、普段は予告すら見ないようにしていることすらあったかもしれません。それぐらいの徹底ぶり─────徹底と言いますか、絶対そうしてやると意気込んでいることというよりは習慣みたいなもの─────なので、今回、最終回という情報を得てしまったことすら軽く先のばれ情報を食らったような感覚となってしまいました。

したがいまして、ぼくと同じようにこのnotesにてモルカーが次回最後を迎えてしまうと知ってしまい、驚愕してしまった方がいらした場合には何の申し訳も出来ません。

何故、次回が最終回だと知りたくないのか

「最終回である」というアナウンスを公式情報、第一報として受ける場面は、「最終回の一回前の回」辺りであるはず。

ぼくは現段階でモルカー11話を未視聴であるため、モルカー11話で何が起こったのか、また11話の終わり際にあるのかどうか未知ではありますが(ぼくはテレビ東京でのオンエアを観たことがないためです)、そこにあると思われる予告を観て、字幕か何かで(モルカーは徹底してナレーションのないアニメであり、そちらも魅力です)「次回は最終回ですよー」的なアナウンスがされたことと思います。

11話を堪能し、さて次回はどんな話なのかなという心構えができた時点で12話の予告を観る。次で終わりなのだと知る。

……字面に起こしてしまうと、衝撃度はこちらのほうが強そうに感じます。しかしながら何かその方が「感受性が適切に刺激される、痛めつけられる」気がします。

そこから学び得るあるいは思い沸き立つ情動がいかなる作用をあなたにもたらすかはわかりませんが、なにかアーティスティックな感性が生成されそうに思えます。

ところがぼくは今回、公式SNSアカウントからモル最終回を知ることとなりました。

これは、上記の通り公式情報すら時には遮断することもあるぼくにしては珍しく、フォローこそしていないもののいつでも当該アカウントを視界に入れられ得る状態にしていたから起こったこと。

立て続けに関係者である作曲者さん?から

「ラスト」という目に止まりやすい単語が飛び出した。記憶によるとこちら小鷲さんの書き込み(をモル公式アカウントがシェアしたこと)により「え!?!?!?!最終回?!!?!?!」的な様相にぼくが陥ってしまったようだった気がします。

よくタイトルカードを描いておられる福士さんが

おっしゃった頃はぼくはもう既にポカーンとしていたような記憶があります。内容の特性上なんとも自分語りが多くなってしまい、不快になってしまわれた場合にはなんとも言えませんので日記というタグ付けをしておこうかと存じます。

なかば無理矢理にでもSNSが観られる状況に自分を置いていた理由としてはやはりnotes更新の題材としているからというものが9割ほどを占めているように感じます。

最終回だと知った上で最終回を観るという行為は、最終回と知らずに最終回を観る時の気持ちほどフラットでは無い。「最終回である」という形容詞が事実上12話のどこを観てもつきまとってしまい、うがった先入観により正常な感受性の育成が阻まれるのではないか?とか面倒なことを考えるようになるのでした。

モルロス

おそらく来週の今頃はSNSのトレンド欄を「モルカーロス」という単語および関連語が席巻していると思われます。必要のない予期不安を仮に述べるとすると、「幼児番組が終わったぐらいで何を情けない」とおっしゃる層がSNS内なんかで頑張りそうな気がします。

「あまロス」みたいなものを思い出しますね。ぼくは連続ドラマ小説とかを全く存じ上げなかったため、当時は流行語かなにかが話題となった頃に「あぁ物語の終わりか何かを惜しむ現象があったんだ」と薄らぼんやり思ったようだったと記憶しています。

ロスという感情が抱かれるということは即ち依存していたということ。

心の安寧を成り立たせるために、物語が存続することに身を委ねていた、生命のかがり火を物語から与えてもらっていたということであり、おそらく表現するための単語がなかっただけで人々は架空の存在に心を命を救ってもらっていたのでしょう。

依存対象を習慣とするということは、例えばアニメであれば習慣づけしやすい時間に放映されていることが重要ですね。もっとも録画とかあるためそれを忘れなければあまり関係ないかもしれませんが、少なくとも当該物語と出会うきっかけ作りは「適切な時間」におこなわれるべきであると考えられます。

モルカーは早朝という一風変わった時間帯ではあったが、インターネットアーカイブがあったり人々が外に出る時間の少し前であったりと潜在顧客に訴求するための条件が揃っていた。そういった点については長くなりそうなため、いずれまた想いを巡らせて行きたく存じます。

後記

とうとう感想でも予想でも、グッズ情報でもない単発モルカーnotesを立ち上げてしまいましたが、無理からぬ事態だったんだろうなとか思っていただければ嬉しいです。

関係ありませんが、各種アフィリエイトとか転載系が題名をつけるとしたら【悲報】モルカー、最終回 とかになるのでしょうか。ぼくの感性が遺跡のように旧時代に囚われたままになっていなければ……

お付き合いくださりありがとうございました。

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