見出し画像

【今だから書けること】阪神淡路大震災 被災経験#1

1995年1月17日 5時46分 阪神淡路大震災発生・・・

今年で26年目の1月17日が来ようとしている。

実は私は小学3年生(9歳)の時、阪神地域にいて被災している。

今まで、あまり語ってこなかったのですが、一度はnoteに当時の記憶を書き記すのもありかなと思い、今タイピングしています。

感じたこと、出来事を淡々と時系列で、いくつかに分けて書いていこうと思う。今だから思うのは、決してこの阪神淡路大震災が特別だと思わないし自分が被災者で大変だったアピールをするつもりも全くない。少なくとも日本ではその他にも東日本大震災や私が支援に行った熊本震災、最近では岡山や熊本人吉の水害など、災害は多く発生している。それら全ての被災者の方々、及び亡くなられた方に追悼の意を込めつつ、淡々と述べていこうと思う。

(当時の記憶を思い出したくない方、不快な思いをされる方には大変申し訳ありません。以下は読まないでおいてください。)

1/17 5:46の少し前

あの日は確か、3連休明けの月曜か火曜だった。少し前に布団の中で目を覚ました私は「あぁ、連休明け学校行くのだるいなぁ・・・」と思いつつ布団の中でごろごろしていた。

前日は、散歩途中に両親にハウス展示場で作られていた綿あめをおごってもらったことを、なぜか記憶している。

そう、その日もいつもと同じ平穏な毎日の始まりと思ったのだが、、、

1/17 5:46

カタカタ、カタカタ・・・

震度にして2くらいであろうか、弱い地震を布団の中で感じる。

10秒くらいだったであろうか、普通の地震にしては長いな、程度の記憶。

だが、突如「ズゴォン!!!」という物凄い音が地底から聞こえる。この時、私は冗談ぬきに「地球が割れた」と感じ取った。それくらいの凄まじい、畏怖すべき音。

そのあとは子供心にも、これはやばいやつだ!とわかる揺れが続く。

必死に掛布団を頭に被り、本能的に落下物に備える。揺れはおそらく南北の揺れであり、寝室の北側に置いていた大きなタンスが落ちてくる。その間、何秒だったのだろう、体感時間は30秒ほど、実際は15秒もなかったのかもしれない。このまま世界が崩壊する、、、人間は圧倒的な自然の力の前では、無力にしかなれないのだ、と後から振り返っても思う。

幸いにして、落下物は下半身中心に落ち、頭は無傷。寝室ではまだ父と兄と私が寝ていたが、冬が幸いしたのか、厚手の掛布団に守られ全員無事であった。

停電

父「大丈夫かぁ!?(大声)」

母、兄、私、各々が声にもならない返事をして、無事に一瞬安堵。

ちなみに母はその時、朝食の準備で居間にいた。母いわく、初めの余震で食器棚を押さえに行ったが、本震でこけて、転げるようにコタツの下に隠れたようだ。食器棚は倒れ、食器は無残に全て割れてしまったが、コタツの机が頑丈だったため、母も事なきを得た。

この時、父の反応は早かった。

割れ物だらけの床に注意しつつ、家族全員分の靴を玄関から取ってくる。

母、兄、私の安否確認、靴を履かせる。

すぐに祖父(父の父)に電話して、家族無事のみ伝える。(その後、携帯も普及していないご時世、しばらく電話が通じなかったことを考えると素早い判断だ)。

風呂の水を貯める(水はこういう時、何より貴重)。

このあたりの記憶は動転していて詳細は覚えていないが、そんな感じだった。災害発生時の初動とすごく参考になる、と今になって思う。

その後、足元に注意しつつ、家族で玄関の外へ出た。

すると・・・

1/17 6:00前後~昼前後

我々家族はビルの3階以上に住んでいた。つまり若干高めに街が見渡せる。

玄関を出て、外を見てみると、そこには・・・

ビル20階ほどに相当する青い火柱が立っていた

いつも馴染みの市場が燃えている。。。

こういう時、あまりの非現実さに信じることはできなかった。まるで夢の続きを見ているような、他人事のような感覚に襲われる。

いつも下校時に楽しみに眺めていた団子屋さん、笑顔で挨拶してくれる八百屋のおっちゃん、みんなみんな、どうなったんだろう・・・

それより、なんで火は青いんだ?普通赤じゃないのか?

なんて少し考えるだけで、すぐ下へ降りていく。

地上に着くと、マンションの住人の皆も出てきていた。

「あちゃー、市場焼けとるわ」「あの火ってうちまで届いてこないの!?」などなど、覚えてるのはこれくらいのセリフ。

周りの大人たちの判断で、市場とマンションにはまだ距離があること、延焼はすぐには判断できないが、すぐさま避難する必要はないこと、が話し合われたのであろう。

その後、各家庭は駐車場にある各車に一旦避難。なんせ冬だ、寒い。暖房をクルマで取る。

父親たちは手分けして、市場の方へ。父いわく、その時は途中で避難の遅れた高齢者の人を助けるべく、のこぎりで家の一部を切ってはい出せるようにしてあげたとか、近くの国道の交通整理に協力していただとか、今になって聞ける話は出てきたが、その時はそんなことを聞く余裕もない。

その後、我々以外の家庭のクルマは、ビルの下の駐車場から青空駐車場へ移動。なぜなら、更なる地震でこのマンションが崩れるともわからない。熊本震災でも経験したが、この地震後の更なる地震が来る、来るかもしれないというのが被災者の心理を相当圧迫する。まさに今の終わりが見えないコロナ禍にも似た心境だ。発狂したくなるのも無理はない。

で、肝心の我が家の父は、先ほど述べた救助活動でなかなか帰ってこない。ということで、いつ潰れるかもわからぬビルの下でクルマの中で待機するというなんとも不安な時間を数時間過ごしたのであった。

(その後、父が戻ってからクルマは移動された)

以上までで1/17昼になっていただろうか。

書くと、予想以上に自分のメンタルに響くものがある・・・ため、今日はこのへんにしておきます。やはりあの時の揺れや恐怖、不安なんかがフラッシュバックしてくるので、noteに書くことが本当に良かったのか!?自問自答はしてしまうものの、落ち着いたらまた後日書きたいと思います。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?