本を読むこと。 ~ はじめての経済思想史に学ぶ経済の基本② ~
前回に引き続き、「はじめての経済学思想史」についてまとめながら、経済の基本について学んでいきます。
前回はアダム・スミスが示した資本主義経済における道徳性の条件と、それを満たすためのミルにおける雇用主の分配論とマーシャルにおける経済騎士道の倫理要件、労働者が良い人生を生きようとする人生基準の必要性についてまとめました。
後半は引き続き、自由競争市場における経済の在り方についてケインズ、マルクスが示した思想についてまとめていきます。
前回の記事はこちら👇
ケインズ
19世紀のイギリスでは前回述べたように労働者階級の貧困という問題を抱えていました。
しかしながら科学技術の発展に基づいた生活の変化は著しく、進歩の歩みに自信を深めていた時期でした。しかしながら進歩と安定は第一次世界大戦を期に崩れ、今までの常識を覆す新たな知性が求められていました。
イギリスの資産家は金融資産を海外に投資して利子を稼ぎ、さらに貯蓄を増やしていましたが、それは資産家のみならず経済成長によって豊かになった中産階級の人々も節約と貯蓄によって利子を得るようになっていました。
消費をしないで貯蓄をすることは、資本蓄積を促進し、経済全体を富裕化するため、利子を稼ぐこと、貯蓄することは美徳とされ良いお金儲けとされていました。
経済学者ジョン・メイナード・ケインズはこの常識に挑み、「雇用・利子および貨幣の一般理論」における「有効需要の原理」によって市場の自動調整能力(神の見えざる手)を否定し、政府の市場への介入を提言します。
なおこちらの著書は世界の大ベストセラーとなり池上 彰氏からも「世界を変えた10冊の本」として紹介されています。
この従来の常識を変える「ケインズ革命」によって経済を全体的に俯瞰してみるマクロ経済の必要性が認識されることとなり、国民所得やGDPを計算する方法が整備されるようになりました。まさに世界の経済の見方を変えたのです。
ケインズは一国の全体としての経済規模(GDP)は有効需要に制約される、と考えました。
つまり有効需要が少なければ、その国の生産資源はフルには活用されず、余ってしまいます。そうすると企業は売れる見通しが立たないため労働者を雇うことができず、高い賃金も払えません。
そのため労働者の消費需要も低い水準に留まるといった悪循環が起こります。
有効需要が低く、生産量、雇用量も低い量で経済が均衡した場合、現在の賃金水準で働きたいと意思を持っていても働けない「非自発的失業」が発生します。今では経済の常識であるこの考え方もケインズの時代には非常識で非論理的であるとされていました。
さらにケインズは流動性選好理論によって債権の利子価格は貯蓄と投資を均衡させるように決まるのではなく、資産保有者たちの予想の結果として決まると考え、さらに実際の企業価値の評価も美人投票ゲームになぞって不確実性のもとに決まると考えました。
ケインズの経済学の背景にはこうした不確実性の下で人々が行動しなければならないという独特の経済観があり、自動調節的な市場観を乗り越えるための理論的な核となり、政府による市場介入の方針を打ち出す根拠となっています。
まとめますと、貯蓄者は全体の富裕化に繋がる産業投資を増やすことには貢献していません。
ときの技術的・心理的な要因で決まる投資の大きさに見合わないほど高い貯蓄性向は有効需要を減らし、投資を挫くことになります。
つまりケインズは貯蓄は全体の富裕化を妨げる「悪い金儲け」になると考えました。
そして、貯蓄者の利益である利子は、資産保有者の流動性選考によって決まるのであり、誰かの喜びを生み出したことによる報酬にはなりません。
さらに、実業の知識のない投機家たちが株で利益を得ようと「美人投票ゲーム」を繰り広げるならば、実業の正しい資本投下を妨害する可能性があります。
したがって、ケインズの処方箋は資本主義を経済を間違った方向へ歪める「金融=所有者の利益追求」の力を抑え込み、「産業=価値を生み出す活動による利益追求」が自由競争経済の下でその潜在的な力を発揮できるようにすることでした。
そのため貨幣を自らの手で管理して利子率を下げ、企業の積極的な投資を促すように、有効需要を創発するような政策を講じるなど、マクロ的に対処するように政府が積極的な役割を示すことを提示したのです。
マルクス
カール・H・マルクスは資本主義を否定し、社会主義を主張したことで知られる経済学者で、社会主義国家ソヴィエトの崩壊によって社会主義の経済体制は歴史的には失敗であったと評価されています。
そのためマルクスは時代遅れの経済学者としてみなされがちですが、マルクスの資本主義批判は奥深く、資本主義を乗り越えるための方策についても示唆に富んでおり学ぶところが多いとされます。
マルクスの経済学もスミスの示した道徳的条件を満たすものと位置づけることでミル、マーシャル、ケインズとのアナロジー的視点を導き出すことができ、現代の資本主義のあり方や私有のあり方について学ぶことができます。
マルクスは元は自由主義的な思想の中で育ち、アダム・スミスが認めた「私有財産権」について、自身の労働の成果と自身の労働を拡張する基盤になりものとしてプラスの面を見ますが、私有財産を増やす自由のある世界は「雇う側」と「雇われる側」に分かれ、私有財産を資本として使い、つぎつぎと利潤を生み出す自由をも認める世界になります。
これでは私有財産は自身の労働の成果でもなければ、活動の基盤にもならないと私有財産権のマイナス面も認め、このマイナス面を直視しなければならないと考えます。
そのマイナスをマルクスはこの私有財産権を乗り越えた「共産主義」を理想として掲げます。
資本主義経済は魔法のような過剰な生産力をもたらしてくれますが、生産能力の過剰ゆえに需給バランスを崩し、必然的に恐慌に陥ります。
時代を経るにしたがって技術が高度化し、資本が大規模化していくため、恐慌を繰り返すごとにそのダメージが大きくなります。そして最終的には私有財産権を基礎とする資本主義体制は崩れていきます。
これがマルクスの考えた唯物史観的未来予想でした。
繰り返しになりますが、近代市民社会における私有財産権は、理念においては、自分の労働の成果を自分のものにできることであり、またその財産を自分の労働の場を拡大するために使う自由があるということです。
しかし、生産に大規模な機械を必要とて「雇う側」と「雇われる側」に分かれるようになれば、資本の「私有」としての側面が前に出てくることになり、雇用契約は、形式的には対等な人間同士の自由意思に基づく契約ですが、実質的には低賃金の強制であり、その結果として資本は利潤を稼ぎ出します。
資本の所有者は「私有財産権」があるのでそれを使ってできるだけ儲けることが認められていますので、アダム・スミスのいうフェアな評価という人格的関係とは無縁の、利潤獲得機械としての資本がでてきてしまいます。
お客さんの喜びとなるものを、自分の能力のかぎりを尽くして作り出す、その労働は社会的に意味のある有意義な生命活動であり、その努力は市場を通じて公正に評価される、こうした製作者と享受者のあいだの共感こそがアダム・スミスの示した「努力の等価交換経済」であり、マルクスの理想に近いものでした。
しかし、先に述べたように資本が私有財産権のために利潤獲得機械化すれば貨幣的取引の背後に社会的・倫理的な関係がある世界は崩れてしまいます。
そのためマルクスは資本主義に変質を起こす「私有」を取り除こうとしたのでした。
ここからマルクスが考えた資本主義の先にある個人的所有のあり方として、労働者が会社を共同占有して、自主的に経営しながら、会社の持分権を労働者自身が持っているという形態、「生産者協同組合」と労働者の占有と持分権としての所有が別々になる形態であり、「労働者が経営の主導権を握った株式会社」の2つがあります。
生産共同組合では協同組合の経営に対して、公共の利益の観点から公的な制約が課され、労働者は、協同組合の持分権と所有者として、そしてそこで働く者の一員として、その会社の経営に発言権を持つことができます。
労働者が経営の主導権を握った株式会社では、持分権の所有者である株主は、私有財産権者としての万能の権限を持っているわけではありませんが、株主は労働者側に経営権と収益分配権を認めつつ、財産権の棄損にかかわる重要な決定にかかわることができるようになります。
これらがマルクスの考えた所有と占有の考え方であり、ソヴィエト型の社会主義(国有化と計画経済)とはかけ離れたものになります。
まとめますと、「個人的な所有(と労働者の占有)の会社」とは、資本が誰の私物でもなく、労働者に託された会社であるために、労働者は託された責任を果たし、どのような活動で利益を上げ、どのように支出しているかを開示します。
これによって公共性と社会的な倫理性が担保されることになり、今まで示してきたように事業経営者に倫理性を求めたミルやマーシャルの考え方や、全体の利益と調和しない所有者の利己心を否定したケインズとも整合性がとれ、アダム・スミスの「よいお金儲け」の条件を満たすことになるのです。
まとめ
今回まとめた2人の思想は近代経済にも大きな影響を与え、マルクスの資本論は会社経営におけるバイブルの一つであるとされています。
しかしながらこれらの思想もまた、第二次世界大戦、ソヴィエトの崩壊などの歴史に振り回されながら、形を変え、アダム・スミスが示した条件を満たしたものにはなりませんでした。
そして日本においては戦争特需によって高度経済成長の波に乗りますが、バブルがはじけ、奇しくもマルクスが示した「未来」である資本主義のマイナス面をみることになりました。
哲学者カール・ポパーは著書「歴史主義の貧困」で「同様の状況」は歴史上ひとつの時代にしか生じないため歴史研究によってパターンや法則を見つけることはできないといいます。
つまり現代には現代の思想が必要であり、時代・時代に経済学者がどのようにして考え、当時の諸問題をどのようにして乗り越えようとしてきたのか、その思想を追っていくことが「今」を考えるうえのヒントにはなるのではないかと思います。
現代の経済は一言では言い尽くせないぐらい多様化していますが、終身雇用、年金問題、働き方改革、副業、暗号通貨これらの最近の経済トピックを見ていて思うのは、「雇用主−労働者」という関係性がどんどん薄まっており、経済がどんどん「個人化」してきているということです。
つまりは経済学的な視点や思想、教養はもはや資本家や経営者、経済学者だけのものではなく家族を含めた個人単位で持っていなければ、うまく生きていくのが難しい時代ともいえます。
こうした「個人経済時代」には自分がどのような社会でどのようにして生きていきたいのか、そのためにどのように行動しなければいけないのか、そのことを一人一人が考える必要があるのではないでしょうか。
そして、本書はその考えるきっかけになる一つの「入門書」となると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本日のご紹介図書
中村 隆之 著「はじめての経済思想史 アダム・スミスから現代まで」
#読書 #経済 #人文社会科学 #読書好きな人と繋がりたい #推薦図書
この記事が参加している募集
サポートいただけたら今後の活動の励みになります。 頂いたサポートはnoteでの執筆活動費、参考図書の購入に使わせていただきます。