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【精神分析論文】 私の「女」と戦う方法 ―傷つける享楽―

※これは、横浜国立大学 精神分析ゼミで大学4年春学期に書いた論文です。

はじめに

前回の論文で美に執着する女性たちの苦悩について触れ、こう結論付けた。ほかの女性をけなし陥れようとするのも、痩せて女性性から逃れようとするのも、整形し美貌を追求するのも、すべては男性への憎悪のせいである、と。

女は生まれた瞬間からモノであり、勝手に値札がつけられる立場はあまりにも受動的で、好き勝手値踏みする男性が悪いのだと。しかしこれでは、指摘された通り女性側の視点に偏っているうえ、男性が悪いと指摘しただけで根本的な解決策に至ることができていなかった。

そもそも男性が悪いことをしたのか?女性が美を手に入れればすべてうまくいくか?そういうわけでもなさそうだ。顔面が整っているだけの女性などいくらでもいる。あまり美人とは言えなくとも優秀で重宝されている女性もたくさんいる。結局見た目がすべてと言うのは浅はかで一方的な主張であった。

その後就職活動でたくさんの人に出会い、自分を知り成長したと、思っていた。成功した人は共通のマインドを持っている。「いつも助けてくれた周りの人がいなければ今の自分はいない」「感謝こそが本質だ」「繕わずありのままの自分を見せろ」感謝、誠実、正直、素直、夢、情熱、継続・・・。

それまでなら胡散臭くて反射的に跳ね返していた言葉が、実際に成功し華やかな人生を謳歌している多くの社長から目の前で語られることで信ぴょう性は増していった。それらの成功マインドとやらは本当に共通しているようではあったし、私も成功者になりたいと思うようになった。

熱く語られる講演では、我ながら浅はかだが泣いたこともあった。終盤は人事や社長に情が移り何度も泣いた。空前の売り手市場で企業は、私を採用するために私を欲しい理由をいくつも並べ伝えてくれる。自分のことをはっきりと認めてもらえる場は、今までにない快感を呼んだ。これまで自信を持てていなかった自分を認められた気がした。無敵だと思った。

しかし。私は全く変わっていなかった。新しい職場に通うようになり、自分の異常を認識した。自然体でなどいられない。人の目が怖い。正確に言えば女性の目が怖いのだ。男性と自分だけの空間ではスムーズに話すことができる。しかし、その場面を女性が見ているときや、女性の上司と直接話すとき
に自分の言葉で話せなくなる。それだけならまだしも、失礼な言動をして、空気を壊したくなるのだ!

無論、共同体においてそういった人は無神経、サイコパス、デリカシーがないなどとみなされ嫌われてしまう。自覚の上では嫌な気持ちにさせたいわけではないし嫌われたいわけでもない。それなのに私自身が紡いでいるはずの言葉は勝手に暴走する。ほんとうは他人を、とくに女性を傷つけたいし、そして嫌われたいのではないか。病的にも思える。

就職活動中には1対1の面接が多かったためか、この症状が出る場面がなく、なんでもできると全能感を持っていた。しかし振り返ってみれば今に始まった話ではない。はじめに入ったサークルは同期の女子からの影口に振り回され、アルバイト先のテレビ局ではアナウンサーと同じ空間にいるのがほんとうに辛かった。何故だか目を合わせてもらえない人もいた。思えば就職活動でも、女性が相手の面接は一度も通らなかったではないか!

万能だったはずの私の欠陥は明らかにここにある。女性特有の、睨むような強いまなざしを私は知っている。そして私がそれをよく浴びせられる対象であることも知っている。否、浴びるように自ら仕向けている。嫌われるのは怖いのに、「わたし」を認めてほしくてたまらないのに、決して快とはいえないそのまなざしを、知りながら求めている倒錯的な行為はある種の享楽と言えるのではないか。

「攻撃したい欲を持つのは男、傷つけられたい欲を持つのが女」だとよく主張されるが、実はそうではないように思う。被害者になろうとする男もいるし、女がいつも被害者でいるわけではない。他者を傷つける快楽を知っている。

おそらく私にとって向き合うべき本当の敵は、攻撃性を持つ女性たちもしくは女性性そのもの、さらにいえば私の中に存在する「女」だった。この論文ではこの「症状」に向き合うことを目的とし、男性の視点と女性の視点からそれぞれの欲するものについて考察し、女性の享楽としての「傷つけたい」「嫌われたい」欲望を掘り下げていきたい。

1.被害者になりたい男

1-1 女は男を間接的にしか攻撃できない

わたしはほんとうに男性を憎んでいたのか。男が憎い、と錯覚するようになった原因は、初めてできた恋人にひどい扱いをされていたことである。

日常的に「ブス」と罵られ、寝坊は私のせいにされ責められた。面倒な課題を手伝わせるためだけの都合の良い道具であった。その日々を思い出せば、今でも彼への怒りと憎しみは収まらない。動悸が激しくなり、彼に大きな損失を与えなくてはならない衝動に駆られる。おそらくこの怒りは一生消えることはなく、彼を恨み続けるだろう。

これまでは彼個人への憎しみを、男性そのものへと拡張してしまっていたように思う。しかしそれは間違っている。彼のような無慈悲な行動を引き起こしてしまったのは男性のせいではなく、「女」によるものだからだ。

はじめだけは私に優しくしていた彼が、徐々に私を利用するための道具としてしか扱わなくなったのは、私に「女」が見いだせなくなったからだ。

彼は最初から「わたし」のことなど見ていなかった。自分を惚れさせた相手を増やしたいだけだった。つまり、「女」という象徴を従えている自分が欲しいだけで、彼の欲望はそもそも空虚なものにしか向かっていなかった。

その証拠に、彼は一人になるとこれまで知り合った女性に片っ端から連絡する癖があった。その中で、とくに別格に力を入れてよりを戻そうと頻繁に連絡していた元恋人の「K」という女 がいた。4年も付き合った末に、喧嘩が多いという理由で彼のほうから別れを切り出したのだから、身勝手にも程がある。しかし彼が執拗に連絡しても、元恋人Kが戻ってくることはなかった。

彼は元恋人Kに対し「いままで見た中で一番かわいかった」「お嬢様でわがままで喧嘩ばかりだった」と述べていた。そんな元恋人 K を自ら手放し、その後必死で追い求めることで K の「女」(実態はなく、存在しない)を神格化し<対象 a>とすることで、彼は被害者かつ主人公になり得た。

<対象a> …小文字の他者。”主体の欲望の原因”。

他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの。代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。

引用元 : 新宮一成著 『ラカンの精神分析』 1995 講談社 (講談社現代新書)

彼はつらい日常生活を切り抜ける理由、さらには元恋人 K を失った寂しさを埋めるためにほかの女性を弄んでもいい理由までも自ら創り出したのだ。

彼は授業や課題に狂ったように真面目に取り組んだ。”秀”評価をたくさんとれば彼女にもう一度振り向いてもらえる、という根拠のない論理が彼を動かしていた。そしてその論理に反する行為、例えば寝坊して授業に遅刻した際や、電話越しに親の小言を言われた際には度々声を荒げた。その姿はヒステリーそのものであった。

1-2 転移

この彼の行動には、プラトンの『饗宴』を引用したラカンの論文に登場する「主体の不均衡から見た転移」に似たものが読み取れる。

美少年かつ同性愛者だったアルキビアデスはソクラテスが大好きで、さまざまなアプローチを行った。しかし、ソクラテスはその熱い求愛に応えることはなかった。なぜなら、ソクラテスは彼の恋心が”転移性”であることを知っていたからだ。

彼はソクラテスの中に、輝くばかりの宝物があると信じていた。ラカンが「アガルマ」と呼ぶ、この輝かしい対象はソクラテスの中には存在しない。

アルキビアデスが本当に愛していたのは詩人の美青年”アガトン”であった。しかしそれに無意識のレベルでは気づかず、愛するアガトンをほめたたえるソクラテスの”知への欲望”という空虚なものに転移していたのであった。この空虚な対象こそが<対象 a>である。

1-3 母殺しと「女」への欲望

『饗宴』でアルキビアデスがアガトンへのあこがれをソクラテスの”知への欲望”に転移したように、彼は美しい元恋人 K の「女」を<対象 a>としたわけだ。

ここに転移したのは何だろうか。おそらく母であろう。彼が電話越しの両親からの小言に度々声を荒げヒステリーに陥っていたことには少し触れたが、彼は母を蔑んでいた。「母親は頭が悪い、何を言ったところで分かりやしない」というような発言が頻繁にあった。

あるとき、彼は免許合宿に必要な住民票を母に送ってもらったにもかかわらず紛失し、もう一度送ってもらうようお願いしなければならなくなった。合宿の出発日は迫っており、速達で間に合うかどうかというところだった。母は当然そんなことを言われれば慌てるだろうし、ちゃんと管理しない息子に一言注意してやらなくてはならないだろう。

明らかに彼に過失がある出来事にもかかわらず、彼はその電話口で見事に逆切れした。一瞬でも小言が入りそうな瞬間があろうものなら大声で罵声を浴びせ、母を困惑させ、ひれ伏させた。駄々をこねることで許されようとするその姿は、完全に甘えである。その様子は私に責任転嫁するときのものと似ていた。

これと似た例をあげよう。武蔵大学教授の田中俊之は幼いころ「お母さんと結婚したい」と言っていたことを、小島慶子との対談書で告白している。

彼の母は専業主婦で父はほとんど家におらず、24時間母が近くにいる状態だった。こういった男性にとっては母が父の役割も兼ねることとなる。すると母が全知全能の神となってしまい、すべての価値判断が「母がどう思うか」に依拠するようになる。

エディプス期に母にペニスがないことを知るが、父がおらず十分な去勢への威嚇が無いがために、自らの去勢不安をぬぐい切れず「母の言うことを聞いていればよい」と同時に「母を守らねばならない」使命感に駆られる。

父が不在またはそれに近い状態の場合、「父を殺し母と寝たい」という欲望は抑圧されることなく表面化する。彼はその状態に近いのではないだろうか。

また、もう一つ面白い例が紹介されている。田中氏がインタビューした22歳の男性は、初めて風俗に行った際に風俗店のエレベーターに乗りながら「お母さん、ごめんなさい」と思ったのだという。

その「ごめんなさい」は、女性の身体をお金で買うことに対してではない。「ママだけのいい子」であるという、母親のファンタジーを裏切ったことによるものだ。その一方で、そういったお店に行くことで性病の心配や悩みはないのかと問うと、「僕は大丈夫」と言うそうだ。

彼は「何かあってもママが守ってくれる」という世界への安心感(ここでは「ママシールド」と名付けられている)をいまだに持っている。

本来は世間に出て、母親は世界の一部でしかなく、いつでも守られているわけではないと知り、「母殺し」を行っていかねばならないのに、それがうまくいかず、いつまでも母の呪縛から逃れられずにいる。この状態は、さきほど述べた私を虐めた男に近い性質である。

1-4 復讐

その男と付き合っていたころ、私自身、彼の作り上げた物語に巻き込まれていることに気づかず、さらに求められている「女」を作りこむことが出来なかったため欲情すらされなかった。

そのため私は私の「女」ではなく「わたし」を消耗していった。彼の欲望は「わたし」に向かっていると、愛があるのだと、疑うことなく信じていた。

しかしそもそも私は何もしなければ「女」を持っていない「何か」でしかなく、「何か」に寄っかかって「女」になろうとしない私は文字通り「道具(モノ)」である。「女」にすらなれない「わたし」自体を見下され、馬鹿にされ、いいようにこき使われた。ここが最も許せないのだ。「女」を弄ばれたなら許せた。それは「わたし」ではないからだ。

私が彼に復讐する方法は一つしかない。彼の<対象 a>になることだ。つまり私が当時のKの「女」にならねばならない。見せられた K の顔写真は頭に焼き付いている。誰もが振り返るであろうほどに美しく可愛らしい女性であった。年下にもかかわらず自分より幾分も大人に見えた。

焼き付いたその笑顔は常に私を蝕む。私が美に執着するのはおそらく、Kが持っていた最も価値あるもの、かつ、彼がもっとも Kの魅力ととらえていた部分だからだ。

私はとっくに彼のもとを去っているから、空虚でしかし魅力あふれる「女」をつくり出し、彼に見せつける。あるいは初めから虚構なので妄想させることができればよい。美をまとい多くの人の視線を奪っている場面。さらに私が他人のものとなり絶対に手に入らないということを、彼に認識させればよいのだ。

私にも「女」をまとうことが出来たことを見抜けなかった愚かさ、「わたし」をぞんざいに扱った卑劣さを認識し後悔し続け、同じ過ちを繰り返して不幸になったことを見届ければ、復讐心はいくらか満たされるはずである。

2.女は何を欲しているか

2-1 父の転移

なぜ、ここまで彼への復讐をあきらめきれないのか。おそらく、私が父を彼に転移しているからだ。

物心ついた時から、大工で職人気質の父はいつも客観的な意見を私に述べた。小学 1 年であろうが手書きの壁新聞が読みづらい箇所があれば指摘し、スキーがうまく滑れなければ、もっとこうできればいいのに、と落胆したような表情を見せた。父は私を幼い子供でなく一人の大人として扱ったのだ。

それ自体は教育として正しかったように思う。私は幼いからと言って許される世の中ではないことを知り、ある程度自分に厳しい性格に育った。

ただ、今も納得のいっていない出来事がある。これは長い間記憶の片隅に抑圧されていた。しかし就職活動中に「なぜストイックになれるのか」と人事に掘り下げられ、父が原因ではないかという仮説に至り、涙を流しながらじっくり父との思い出を洗い出した際に現れた記憶である。

幼稚園児の頃、両親と妹と家族4人で銭湯に行った。浴槽で父に”たれぱんだ”というキャラクターが好きか聞かれ、とくに好きではなかったので「嫌いだ」と言った。その後で銭湯を出ると、たれぱんだのクッションを嬉しそうに持った妹と父がいた。ゲームコーナーでとったのだという。

同じ質問に妹は、たれぱんだを「好き」と答えたらしかった。 「ずるい」 私は泣き叫んだ。景品はたれぱんだ以外にもあったので、泣きながら私にもなにか別のものをとってくれることを期待したが、父は「さっき嫌いと言ったじゃないか」と、笑いながら駐車場に向かった。服のすそを引っ張り抗議したが、いくら引っ張っても力が及ばなかった。

そんなはずはない、これは見せかけで、のちに何かクッションと同等とまではいかなくともお詫びのものが貰えるはずだとしばらく本気で信じた。しかし、ついにその日は最後までわたしにはなにも与えられなかった。

いま親の立場を考えればこれは単なる意地悪ではなく、姉の立場で私がいつも優遇されていることを計算に入れてのことだったと思う。しかしだからこそ、普段不自由なく得られていた愛情の流動性が分断され他者へ備給されたところを目の当たりにしたこの体験は、大きな外傷として残った。

私はこのときいろいろと考えた。なにかいけないことをしたのだろうか。そこまで好きだと思っていない程度のものを「嫌い」と言ったのがいけなかったのだろうかー。

この体験だけがきっかけかは不明だが、小学校低学年から中学年にかけて、父が怖かった。父の前では緊張しうまく話せなくなった。

2-2 年上の男性

父と話すのに緊張するようになった小学校中学年のころ、わたしは教師に恋をするようになった。授業中はその教師を見つめ、誕生日やバレンタインにはプレゼントを渡し、あからさまなアピールをした。ちょうどソクラテスに執拗に求愛した、アルキビアデスのように。

好きな教師についての話を眠る前に母と話していると、父はその教師について嫌いだと言った。その教師から学校で教わったことを話すたびに「その教師の言うことは間違っている」などと返され、何を言っても批判的に受け止められた。

私はその後も学校、塾に拘らず担当の教師が変わるたびにその教師に恋をし、褒めてもらえるよう勉学に励み、色目を使った。私にとっての<対象 a>は、「父による娘への欲望」であった。私は年上の男性からの愛を得てその男性の元へ旅立つことで、父へ復讐したかったのだ。

2-3 「女」を失ったとき「わたし」は

この復讐心の転移先は流動的だ。ふとした出来事で男性の先輩や、今の恋人にも、復讐心が芽生えることがある。条件が合えばすべての男性に転移し得ると感じる。その条件とは、「女」をできない「わたし」には価値がないと思わされる時だ。

普段はそっけない態度をとるのに、女性らしい恰好をしたときにだけ寄ってきて「今日は化粧気合入れてるの?いつもよりかわいく見えるね」などと発言する職場の先輩。女芸人が体を張っているテレビ番組を見て「この顔、画面見るのきついわー」と隣で女を蔑む恋人。

もし、私が「女」を剥がしたら?化粧や髪のセットや、笑顔や上目遣いなんて、今すぐにでもやめられる。それらは「わたし」には何の関係もない、象徴的な記号だ。

何かのやむを得ない事情で「女」をできなくなったら?「わたし」はどこにいて、誰に必要とされるのだろう。

3.享楽としての「傷つけたい」「嫌われたい」欲求

3-1 「わたし」を流出する方法

さて、父への復讐心をどんな男性にも転移し得るということを示してきたが、私が今困っているのはそこではない。男性とのコミュニケーションは全く苦ではなくむしろ楽しむことが出来る、それどころか、男性とコミュニケーションを取ることなしには生きていけない。復讐の目的が達成できなくなるからだ。

一般に、男性が女性に対して向ける感情は二つ。空虚な「女」への欲望、またはその幻想が打ち砕け失望したときの蔑みだけだ。

もちろん美はエロスに直結するためあれば優位だが、「わたしはあなたを受け入れますよ」の記号である「女」さえ作りこんでおけば、欲望の対象になるのは簡単だ。この”「女」へのまなざし”を集めることで、私の日々の復讐心はいったん満たされる。

しかし、「女」へのまなざしを集めているだけでは、自分を認めるのに不十分である。そのまなざしの先にあるのは私自身ではなく、どこにも存在しない空虚なものだからだ。

実感としては何重もの「女」にくるまれたその奥には「わたし」が存在するはずで、それを確認しなければあまりに不安になる。その確認作業、つまり想像界にあるイメージでしかない「わたし」を現実界に引っ張ってくるためのもの、それが「言葉」である。

3-2 関係性を壊す享楽

私が「わたし」を確認するためには、「わたし」が言葉を介して外に出てくる必要がある。しかし言葉は曖昧なもので、「わたし」をそのまま表す記号ではないため、ほかの語との関係性、文脈の中でしか機能しない。

まだよく知らない相手と会話しなければいけないとき、私は「女」の空虚さを知っているがゆえに、なんとか「わたし」をあらわそうと言葉を発そうとする。そのとき、私の発言は周囲になんの影響も及ぼさないという感覚になることがある。とくに、注目されている、発言に耳を傾けられていると感じる場面で多い。

自分が発している言葉が「わたし」のものだという感覚がない。思ったことを言えないのだ。そもそも「思ったこと」が見当たらない。そしてよく考えずによくわからないことを発言し、微妙な空気にした後フォローするのが面倒くさくて放置する。

その時は関係性が壊れるならそれでもいいや、と思う。場が良くない空気になることで初めて、自分の言葉が周囲に影響を与えたことを認識できて安心するのだ。

そのくせ一人になると、自分の発言は周りをしらけさせたとか、あの人を傷つけてしまったとか、猛反省する。そしてコミュニケーションの場に放り出されると、強すぎる自意識や、「思ったこと」の消失、言葉を紡ぐ面倒くささが一気に押し寄せまるでだめになる。この繰り返しだ。一時的にボロメオの輪が外れる病気なのだろうか。

ボロメオの輪…互いには交差しない三つの輪が結び目を形成することで三位一体となった構造体。
ラカンは人の心的構造を「想像的なもの(神、イメージ)」「象徴的なもの(言葉、ルール)」「現実的なもの(人間)」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉える。我々は生の現実を「イメージ」と「言語」で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているのである。この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが、晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものである。

3-3 嫌われる快感

『関係する女 所有する男』において斎藤環は、何かを欲望する際に「男性は立場を重視するが、女性は自らの立場がなくともあまり気にしない」と述べている。

果たしてそうか。欲望の対象を外部に設定できる”腐女子”であれば別かもしれないが、それ以外の女性は「まなざしを得たいという欲望」が内向きになっているため自らの立場に異常に敏感である。

女性は、自分以外の女性が「女」を纏っていることに敏感で、嫌う傾向にある。ほとんどの女性は「女は存在しない」ことを直感的にわかっているからだ。

「女」は時代や流行によって変わるものの常に社会に存在する不自然な鎧であり、その女性の「なかみ」が「男を手に入れて他の女性の上に立とう」と企んでいない限りは纏うはずがないものなのだ。

その鎧を纏っているかどうかは瞬時に判断され、同じ土俵で男性のまなざしの奪い合いに参加するか否か、無言のやり取りが交わされる。

そして私は父から転移した男性への復讐のために「女」を纏っているので、それはすぐに嗅ぎ分けられ敵とみなされる。この瞬間に、女性特有の睨むようなまなざしを受けることになる。

この視線が、わたしの享楽だ。もちろん嫌われたくないし円滑なコミュニケーションをとりたいのだが、「好かれる」のは窮屈で、「何とも思われない」のが一番苦しい。

「わたし」を本当に理解してほしいのに、理解していると思われるのが苦痛であり息苦しい。いっそ「嫌われる」ことで、「私のことをわかっていない状態で存在に脅威を感じてもらっている」と妄想してナルシシズムに浸ることができる。

この負のまなざしに睨み返し、臨戦態勢に入るようではいけない。これは空虚なものをめぐる不毛な戦いだ。そんな戦いを受ける義務はない。

いま本当に必要なのは「女」への復讐だ。だから男性のまなざし獲得も女性同士の中身のない関係構築も、無理に行う必要がない。振り回されるのではなく利用するのだ。そうして私は「女」を纏ったままこの土俵から降り、いまも孤独に酔っている。

おわりに

私は「女」が憎い。実体がないくせに異様なパワーを持っている。これのせいで男性は空虚なものへの欲望に振り回されるし、女性同士の関係はぎくしゃくし「わたし」は奥に閉じ込められる。でも甘美なパワーを利用した快感は捨てられなくて、これがなかったらわたしは生きられない。

就活を通して心が洗われた気になっていたが、結局根源的な病はなかなか消えないと知った。そして 1番の問題は、このひねくれた自分を変えなくてはならないとあまり思っていないことだ。誰も聖人君子にはなれないのだから目指しても無駄である。ただこんな自分でも周りには関わってくれる人がいるわけで、大切にしたい。

参考文献

『男尊女子』 酒井順子 集英社 2017年
『女が読むとき女が書くとき』 ショシャナ・フェルマン著 下河辺美知子訳 1998年
『欲望のすすめ』 古谷経衡 ベスト新書 2014 年
『男はなぜこんなに苦しいのか』 海原純子 朝日新書 2016 年
『男性漂流 男たちは何におびえているか』 奥田祥子 講談社+α新書 2015 年
『不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか』 田中秀之 小島慶子 祥伝社新書 2016年
『関係する女 所有する男』 斎藤環 講談社現代新書 2008 年
『生き延びるためのラカン』 斎藤環 筑摩書房 2012年

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