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心はこうして創られる「即興する脳」の心理学/ニック・チェイター【読書ノート】

あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっちあげだった!
「心の奥底には何かが隠されている」と、誰もが思いたがる。心理学者や精神分析学者たちは、暗がりに潜むものを暴き出そうと奮闘してきた。だが、神経科学や行動心理学の驚くべき新発見の数々は、隠された深みなどそもそも存在しないことを明らかにしている。
「無意識の思考」などというのは、神話にすぎなかったのだ。
わたしたちの脳は、思考や感情や欲望を「その瞬間に」生み出している……行動の理由も、政治的信念も、そして恋心さえも。
本書が紹介する数々の驚くべき実験結果を目にしたとき、そのことを疑うことはもはや不可能になる。世界はどのように存在し、自分はどんな人間であるのか―それも、脳がもつ途方もない即興能力によって創り出されるフィクションなのだ。
認知科学をリードする世界的研究者が"脳と心"の秘密を解き明かす、超刺激的論考!
※原題は、The Mind is Flat: The Illusion of Mental Depth and The Improvised Mind (Penguin, 2019)
【本書「訳者解説」より】
本書の最終結論である「心には表面しかない」ということは序章から明記されており、深みという錯覚で私たちを騙している犯人は脳であることが、あたかも最初から犯人がわかっている倒叙ミステリーのごとく、はじめから述べられている。そして、心理学実験を紹介しながら進められる論証は、章を追うごとに説得力を増していくことが、一読してわかるだろう。
チェイター教授は、オークスフォード教授との推論心理学(人間はどのように推論するのか)の共同研究を続けつつ、意思決定や判断、言語や社会的相互作用へと研究領域を拡げ、また自ら会社を共同創業したりイギリス政府へ協力したりと、認知科学のビジネスや政策への応用にも取り組んでいる。
「心は実体というよりは、外界と接する接触面(インターフェイス)における即興演奏の ”手癖” である」という捉え方を展開する本書の射程はかなり広い。
【本書の内容】
序章 文学の深さ、心の浅さ
第一部 心の深みという錯覚
でっち上げる力/現実という実感/インチキの解剖学/移り気な想像力/感情の創作/選んだ理由の捏造
第二部 即興が「心」を作る
思考のサイクル/意識の経路の狭さ/無意識的思考という神話/意識の境界/原理ではなく前例/知性の秘密
終章 自分を創り直す


考えごとというのは、まるで暴れ馬のようなもので、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、実に落ち着きがない。なのに、どうしてこれほど支離滅裂にならずに済むのかと言えば、そこには信念とか動機とか、確固たるものがあるからだろう。人間というものは、行動の裏に何かしらの価値観や理想があり、それに突き動かされているものだと、誰しも思うものだ。

しかし、ちょっと待って欲しい。それは、もしかすると幻想ではないのか?という問いが、科学者たちによって百年以上にわたってじわじわと明らかにされてきた。内なる世界や真の自己、心の奥底にある無意識の信念や欲望といったものが、本当に存在するのかどうか。それを打ち破れば、もっとクリアに自分を見つめ直せるのではないか、というわけだ。

人間は、臨機応変の推論者であり、創造的な比喩機械でもある。散らばった情報の断片をつなぎ合わせ、瞬間ごとに一つのまとまりを作り出している。しかし、信念や動機があたしたちを駆り立てるわけではなく、内なる信念や動機というものは存在しないし、ただの投影に過ぎない。

むしろ、思考には前例の幾層もの積み重ねがある。つまり、以前の思考や行動を継続的に翻案し、変換して、新たな思考や行動を創り出しているということだ。信念や動機による説明とは全く異なる、もっと説得力のある説明がここにある。

人間の思考は、コンピュータのプログラムのように見えるが、実際はもっと柔軟で複雑だ。例えば、19世紀の心理学者ウィリアム・ジェームズが言った「意識の流れ」。これは、思考が連続的に流れるという概念で、まるで川のように途切れずに流れていく。

さらに、最新の脳科学では、脳内でニューロンがどのように情報を処理しているかが明らかになっている。ニューロン同士をつなぐシナプスという部分では、電気信号が飛び交っており、その強化と弱化によって記憶や学習が行われる。

また、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは「自我なんてのは、感覚の束に過ぎない」と述べた。つまり、自分というものは一貫した実体ではなく、ただの感覚の寄せ集めに過ぎないということだ。

こういった雑学を知っていると、自分の考え方や行動について、少し違った視点で見られるかもしれない。結局のところ、自分たちの思考や行動には、過去の積み重ねや無意識の影響が色濃く反映されている。信念や動機なんて幻想に過ぎない。

まあ、こんな風に、自分は日々、自分を作り直している。信念なんてものに縛られず、自由に、創造的に生きていくのが一番だと思う。

著者はイギリスの認知科学者ニック・チェイター。この本のリクエストをもらったので取り上げる。内容はかなり衝撃的だ。チェイターは「深みのある心なんて幻想だ」と言う。認知科学者という立場から、さまざまな実験や観察を通じて、僕たちが感じている心が幻想だと解説している。
これは普段僕が言っていることとは逆だ。しかも、心が存在しないという根拠となっている実験は、僕がよく取り上げているものと同じだ。
同じ実験で同じ結果を見ているのに、全く逆の結論を出している。これが今回のテーマだ。

心なんて存在しない。これが科学の答えだ。さあ、始めよう。


まずは視覚情報について。
実は、一度に目が捉えられる範囲は、角度にして約1度、腕を伸ばした時の親指の爪くらいの大きさだ。それも瞬時に動いている。この図で言うと、右の白丸が環境が見ている範囲だ。だから、網膜からの映像は左の動画のようになる。しかし、僕たちはそんなふうに感じていない。視界全体が連続的に広がっていると感じる。このことを著者は「大いなる錯覚」または「幻想」と呼ぶ。

アイトラッカーという装置を使えば、眼球の動きが非連続的だとわかる。次は心の重要な役割である意識について考えてみる。チェイターは、意識が認識できるのは近くできることだけだと言う。人は頭の中でいろいろ考える。「今晩何を食べようかな」とか「あの時こう言えばよかったな」とか、考えるとき頭の中で言葉を使う。つまり、心が直接認識しているのは頭の中の言葉だけだ。知識や信念を心が直接認識しているわけではない。

例えば、日本の人々は「東京が首都だ」と思っている。これは事実であり、信念だ。しかし、心は事実や信念に直接アクセスしているわけではない。心が感じるのは「東京が首都だ」という頭の中の声だ。頭の中の声を指して、知識や信念と言っているだけだ。心は深い知識や信念に支えられているわけではなく、実は薄っぺらいものだ。これがチェイターの主張だ。


最後に作詞の例を挙げよう。黒いトゲトゲの配置を変えると、白いボールが消えてしまう。実際には、最初から白いボールなど存在しなかった。白いボールの輪郭の線もなかった。ただの黒いトゲトゲの配置だ。心は勝手に白いボールがあると感じているだけだ。心が認識できるのは直接近くしたことだけだ。

白いボールがどうやって作られたのか。黒いトゲトゲの配置から、それにぴったり合う3次元形状を推測する計算を脳内でしているはず。しかし、その計算過程は意識されない。計算を行っているのは脳内のニューラルネットワークであり、心はその計算結果を受け取るだけだ。心のシステムは単純な処理のサイクルの連続だ。

資格情報の場合、眼球は動いて止まってを繰り返している。止まった時の資格情報を心が認識する。これが第一サイクルだ。このサイクルを回して、心は目の前に広がる世界を感じる。眼球の動きは非連続でも、連続した世界を感じる。信念や知識があるように思うのは、過去の記憶から知識を引き出して言葉に変換する処理が裏で動いているからだ。意識が感じるのは頭の中で生まれたその言葉だ。知識から言葉に変換する処理とその言葉を受け取る処理のサイクルが回っただけだ。心は知識を探り出したと感じるが、ただ単に処理結果の言葉を聞いただけだ。


深くて奥行きのある心は実は幻想だという話。
同様の話は以前にも紹介したことがある。第267回で取り上げた慶応大学の前野隆教授の「受動意識仮説」だ。前野教授も「意識は幻想だ」と言っていた。チェイターの主張とよく似ている。これは偶然ではない。心や意識が幻想だというのは、科学から導き出される必然だ。

さて、みなさんはどう思っただろうか。なんとなく納得がいかないと感じた人もいるかもしれない。もしそう思ったなら、それは科学的思考ができていないということだ。まぁ、僕もその一人なんだけどね。さて、ここから反撃していこう。

まず、どこがおかしいと思ったか。心は処理した結果を受け取るだけ、という部分だ。僕はこの部分にほぼ同意する。この部分を僕は意識と呼んでいる。システム全体を心として見れば、その一部の機能に過ぎない。しかし、チェイターは心の裏で動いている処理を無視しているのではないか。例えば、この図には白いボールは明示的には描かれていないが、僕たちの心は白いボールを感じる。


この裏で、3次元形状を推測する複雑な計算が実行されている。それは脳内のニューラルネットワークで行われている。ここまではわかる。しかし、チェイターはこれを心に含めていない。なぜだろうか。今の処理は無意識で行われていて、心はその結果を受け取って感じているだけだと言う。つまり、心は複雑な処理をしていないから薄っぺらいのだと。

この考え方に疑問を感じる。薄っぺらな処理部分だけを抜き出して、それを心と定義しているだけではないか。裏の処理も含めたら、心は複雑な処理をしていると言えるのではないか。同様に、チェイターは心は信念や知識を持っていないと言う。処理結果を受け取って、それを言葉にしているだけだと。

しかし、その信念や知識を取得する処理も心に含めればいいではないか。わざとやっているわけではなく、本気でこれが正しいと思っているのだ。チェイターは認知科学の教授であり、視覚認知のノーベル賞とも呼ばれるラムフォード賞を受賞している。そんな人が姑息なことをするわけがない。つまり、意図的ではなく、真剣にこの考えが正しいと思っているのだ。


じゃあ、どこがおかしいのか。ヒントは眼球の動きの実験にあった。アイトラッカーを使えば、視覚情報が断続的に処理されているのが明らかだと言っていた。しかし、事実はアイトラッカーが測定した結果だけだ。つまり、科学では実験結果が全てであり、誰が検証しても同じ結果が出る実験結果が真実だということだ。

理論は事実を積み上げて構築される。大学ではそういう訓練が行われる。この動画で言えば、右のような世界を感じる。しかし、感じているのは心であり、主観だ。心が実際にどう感じているかを実験で証明することはできない。つまり、科学で考えると右の世界は幻想だということになる。チェイターにとって、実験結果が事実だ。

おかしいと感じるのは、しっかりとした科学教育を受けていないからだ。チェイターは大学教授までなった人物で、科学的思考が骨の髄まで染み込んでいる。自分の感じたことと実験結果が食い違った場合、実験結果を受け入れることに躊躇しない。だから、心は薄っぺらいと言えるのだ。

事実だけを積み上げて心を作ると、薄っぺらなものになってしまう。これが科学の結論だ。逆に言えば、これが科学の限界とも言える。物理学ならこのやり方で真実に辿り着けるかもしれない。しかし、心はそうではない。なぜなら、心の中には検証できない部分があり、そこに重要な理論が隠れているからだ。

これでは本当の心の理解には至らない。実際、500年の科学の歴史の中で、心の中身はほとんど解明されていない。
しかし、ここで終わりではない。僕たちのロボマインドの登場だ。もちろん、僕たちも脳内で行われている処理の中身を完全には理解できない。しかし、理論を考え、それをコンピュータで再現することができる。そして、もしその理論がうまく動けば、その理論が正しいと言えるかもしれない。

科学的に正しい理論を作ることが僕たちの目的ではない。僕たちの目的は、心を作り出し、それと一緒に話をすることだ。これができれば十分だ。


さて、僕たちの考える心の理論を紹介しよう。意識は仮想世界を介して現実世界を認識する。これが「意識の仮想世界仮説」だ。そして、それをプログラムで実現したのが「マインドエンジン」だ。ニック・チェイターが「薄っぺらな心」と呼んでいるものは、このマインドエンジンの意識プログラムに相当する。脳内のニューラルネットワークが行っている意識できない処理が仮想世界を作り出す部分だ。

具体的には、入力された映像から3Dオブジェクトに変換する処理が行われる。意識が認識するのは3Dオブジェクトのデータそのものだ。つまり、人が高さや奥行きを感じるのは、この3Dデータを感じているからだ。だから、図形を見たときに3次元立体に見える。カメラからの映像を取り込むのが無意識で、無意識が仮想世界を作り出す。それが右の世界だ。意識プログラムはこれを認識する。たとえカメラの映像が小刻みに動いていたとしても、連続して広がる世界を感じる。

ここで注目すべきは、カメラの映像から仮想世界を作る処理がプログラムで行われていることだ。この処理内容は外からは検証できない。科学で解明できる事実は、カメラが小刻みに動いていることだけだ。もし連続した広がりを感じたとしても、それは幻想だとされる。これが今の科学の限界だ。


世界中の科学者がいまだに心を解明できない理由がここにある。
日本の片隅で、それに必死に抵抗しているのがロボマインドだ。



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